08
「ゾーイ!」
兄が声を掛けてきたので、ロザリー様と共に客席を降りていった。
「おめでとうございます、お兄様」
「今日はちゃんと見てくれていたんだな」
そう言って私の頭をくしゃりと撫でる。
…妹とはいえ同い年の双子なのだからそういう扱いをされるのはちょっと心外なのだけれど。
「ふふ、相変わらず仲がよろしいのですね」
ほらロザリー様に生温い眼差しで見られてるし。
「…ゾーイ」
声のした方を向くと、殿下とニコラス様が立っていた。
「…惜しかったですわね殿下」
殿下の目を見て微笑むと、殿下はほっとしたような表情を見せて…すぐにその顔を曇らせ、手を握り締めた。
「———今日はどうしても勝ちたかったのだが」
思いがけないほどの真剣な言葉に、場の空気が強張った。
「…あーでも、ギリギリでしたから」
「そうですわね…あれはニコラス様の怪我の功名でしたわね」
ニコラス様の言葉につられてそう言うと、一同の視線が私に向いた。
「怪我の功名?」
「あ…ええと…ニコラス様は右足を庇っておられたせいで動きが変則的でしたわ」
「何で分かって…」
ニコラス様は目を見開いた。
———しまった。
いつの怪我かは分からないけれど、ニコラス様は右足を痛めているようだった。
その足を庇いながら切り結んでいく内に動きのリズムが狂っていったのだ。
それにつられて殿下の剣が乱れた隙にニコラス様が剣を打ち込んで勝ったのだ。
よく対戦する相手だから、いつもと違う動きに惑わされてしまったのだろう。
という事を…前世で剣道をやっていた目でみると分かったのだけど。
今の私は剣など触れたこともないような令嬢。
そんな事知るはずもない。
「ゾーイ…何故そんな事が分かった?」
兄が訝しげな顔で尋ねた。
「あ、あの…剣に興味があって本で学んだのですわ」
「いつ?」
「ええと…学園を休んでいる時に…」
剣がやりたくて本を読んでいたのは事実だ。
「本など読まず休むよう言ったはずだが?」
しまった藪蛇!
兄の視線が痛い!
「え、あの…」
あわあわしているとくすりと笑う声が聞こえた。
「ゾーイのそんな顔久しぶりに見たな」
いつぞやどこかで聞いたような言葉を言ったのは殿下だった。
「子供の頃、お妃教育をサボって木登りしていたのが母上に見つかった時の顔だ」
どうしてそんな事ここでバラすの?!
かあっと顔に血が上る。
「まあゾーイ様が木登りを?」
「…お前王宮でもやっていたのか」
ロザリー様に知られてしまったじゃない。
あと兄よ、その言い方だと家でも木登りしていたとバラしているようなものですから。
「わ、私もう戻りますわ」
「待って」
恥ずかしくて居た堪れず教室へ戻ろうと身を翻した私の腕を、殿下の手が掴んだ。
「送って行こう」
「大丈夫ですわ」
「そんな顔の君を一人で歩かせられる訳ないだろう」
そんな顔って?!
思わず殿下を見上げると、何故か殿下はうっと息を呑んだ。
「…そんなに顔を赤くして目を潤ませて…」
自身も顔を赤くしながらそう言って———殿下は、私をそっと引き寄せた。
息がかかりそうなくらい、殿下の顔が近い。
私を見つめる青い瞳に吸い込まれそうな感覚になる。
「…殿…」
「アルバート様!!」
空のような澄んだ青色に見惚れていると、耳障りな高い声が響いた。
桃色の髪を揺らしながらこちらへ駆け寄ってくる…ヒロイン、キャロル。
「まあキャロル・アシュビー嬢。今は授業中ではなくて?」
ロザリー様の冷たい声に———思い出した。
そうだ、これは…ゲームの『イベント』だ。
「え、あの…」
立ち止まったキャロルはその目元を潤ませた。
「私…アルバート様が戦うと聞いて…心配で…」
この模擬戦は上級貴族のクラスの授業で、ヒロインはこの時間教室で授業を受けている。
それをわざわざ殿下が心配だからと抜け出してくるのだ。
そして殿下は授業よりも自分の身を優先してくれたヒロインを嬉しいと思う…というのは現実的に考えてどうかと思うのだけれど。
殿下は剣の扱いに慣れているのだし、学生なんだから授業を優先するべきだと思う。
ゲームではその事を悪役令嬢のゾーイが指摘するのだけれど…
「アシュビー嬢。君がすべき事は殿下の心配ではなくて貴族としての常識を身に付ける事だと思うが」
…オニイサマ。
どうして攻略対象のあなたが悪役令嬢のセリフを言うのかしら?
キャロルも驚きで目を見開いている。
「エイデン様…!私はただアルバート様の事が心配で…!」
涙目で声を震わせながらそう言うとキャロルはこちらを見た。
殿下と寄り添うように立っている私と視線が合ったその瞬間、緑色の瞳に憎しみの色が宿る。
思わずぞくりと寒気が走った背中に殿下の手がそっと添えられた。
「エイデンの言う通りだ。アシュビー嬢、教室に戻りなさい」
静かな声で殿下は言った。
「アルバート様っ」
「それから、私の名を呼ばないよう言ったはずだが?」
スッと声の温度が下がった。
「———っ」
さすがにこれ以上食い下がるのはまずいと分かったのか、キャロルはくるりと踵を返すと走り去っていった。
「まあ。挨拶もできないなんて本当に困った方ですこと」
ロザリー様が呆れたように言った。
知らず身体が強張っていた。
ほう、と息を吐くと私は今度こそ戻るために殿下から身体を離そうとしたが…背中に添えられていた手に力がこもった。
「ゾーイ。今日こそ昼食を共にして欲しい。…君と話がしたいんだ」
耳元で響いた殿下の声はいつもより固く感じた。