01
パチン、と頭の中で何かか弾けた。
「君は何故そうやってキャロルを———ゾーイ?」
突然動かなくなった私に、目の前の婚約者が厳しい表情を緩めるとその瞳に訝しげな色を浮かべた。
彼の背後には数名の男性と一人の少女。
全員の顔が見えるよう不自然なくらい綺麗に並んでいる。
…何だっけこのシーン、どのイベントのスチル…
イベント?スチル?
謎の言葉と共に、突然私の頭の中に大量の情報が流れ込んできた。
これって———この世界は…
「ゾーイ!」
遠くに婚約者の声を聞きながら私は意識を手放した。
目覚めると自分の部屋だった。
身体を起こそうとすると激しい目眩を覚えてベッドに倒れ込む。
ひどく身体がだるい。
額に手を当てると驚くほど熱い。
「まあお嬢様!お目覚めになられたのですね」
聞こえた声に頭を巡らせると部屋の片隅に控えていた侍女の姿が視界に入った。
こちらへ向かってくるのとは別に、部屋から出て行く姿も見える。
家族を呼びに行ったのだろうか。
「わたし…」
自分の口から漏れた掠れた声に驚いた。
「お嬢様…丸二日も眠っていたのですよ」
え…そんなに?
「苦しそうにうなされて…お目覚めになられて良かったですわ」
感情を露わにしないよう教育を受けている侍女が涙ぐんでいる。
…もしかして危険な状態だったのだろうか。
でもどうして…そうだ、倒れたんだ。
ああ、そうだ———突然思い出したんだ。
自分の前世の事。
この世界の事。
私は日本という国に住んでいた。
仕事帰りにトラックに轢かれそうになっていた子供を見た瞬間、身体が動いていた。
子供を突き飛ばし、代わりに自分が轢かれて……
この乙女ゲームの世界に転生したんだ。
身体は熱を帯びているが、頭は急速に冷えていく。
ゲームの世界に生まれ変わるなんて突拍子もない事だけれど…何故かこれは事実なのだ、と納得してしまった。
私はゾーイ・キャンベル。
宰相である公爵の娘でこの国の王太子の婚約者。
主人公のライバル役で、いわゆる悪役令嬢。
王太子と親しくなっていくヒロインに嫉妬しあらゆる嫌がらせを行い、最後は断罪され修道院に送られるのだ。
ゲームのタイトルは確か『夢見るプリンセス』。
子爵家に養子として引き取られた平民のヒロインが、編入した学園内で王子様や上級貴族の子息達と恋に落ちて玉の輿に乗るというシンデレラストーリーだ。
元々乙女ゲームなるものには興味がなかったけれど、ある事件が原因で恋愛から遠ざかっていた私に擬似でもいいから恋をしたらと友人が勧めてきたのだ。
キャラに恋心を抱く事はなかったが、異世界だったり過去にタイムスリップしたり、ミステリー仕立てなど設定が面白くていくつか遊んだのだ。
まさかその遊んだゲームの世界に生まれ変わるなんて。
しかも悪役令嬢に。
何でよりによって、そんなものに。
ヒロインにもなりたくないけれど…悪質な虐めを行う悪役なんてもっとゴメンだ。
そんな事、前世の私が許さない。
でも…まだ大丈夫。
まだ今はゲームの序盤。
ゾーイは低い身分のヒロインが婚約者である王太子と親しくする事に苦言を呈しているだけで、まだ虐めはしていない。
その説教をしている最中に婚約者が逆に私を非難して———突然記憶が蘇ったのだ。
…この段階で記憶を取り戻して良かった。
どうして突然思い出したのかは謎だけれど…
ああ、そうか。
前世の自分が、今の自分を許せなかったのだ。
今はまだ真っ当な事しか言っていないけれど、今後それが虐めへと発展してしまうゾーイを止めさせる為に…きっと前世の自分が現れたのだ。
間に合って良かった。
安堵のため息をつくと、ノックもなく扉が開く気配がした。
「ゾーイ!目が覚めたのか」
双子の兄が部屋に飛び込んできた。
エイデン・キャンベル。
黒髪に青い瞳の美形で、彼も攻略対象だ。
———倒れる直前、彼も殿下の後ろにいたなと思い出す。
「突然倒れたから驚いたぞ」
心配そうに兄は私の顔を覗き込んだ。
「…ご…め…なさ…」
喉がひりついて上手く声が出ない私に、兄は憐むような眼差しを向けた。
「まだ高いな…だが目が覚めて良かった」
私の額を撫でる手が冷たくて心地良い。
安心させたくて私は兄に笑顔を向けた。
まだこの段階で兄との関係は良好だ。
だがゾーイが虐めを始めるとあっという間に冷え切ってしまう。
ゾーイを修道院に送ると決めたのは兄の判断だ。
家との縁を切らせる事で公爵家を護ろうとしたのだろう。
「おに…さま…わたし…」
「無理に喋るな。ひどい汗だ…身体を拭かせよう。まだ寝ておいで」
そう言って優しく微笑むと、兄は侍女に目配せして部屋を出て行った。