ベランダにて 2
布団に入る前のほんの数分、ベランダに出て、のんびりするのが、最近のぼくの日課になっていた。
夜空を見るとほっとする。
やっと一日が終わって、あとは寝るだけというこの時間が、一日のうちで一番好きな時間になった。
妻は仕事で朝まで帰らないし、子供達はもうとっくに眠っている。誰に遠慮もいらないひと時で、静かな気持ちでいられるはずだけど、今夜は満月のせいか、なんだか心がざわざわしていた。
月の光が眩しいくらいに射している。
「きれいだな」
月を見ながら、ぼくは声に出して言った。
風が吹かないと蒸し暑い。まだ、九月になったばかりだしなあ。涼しくなるのはまださきだな。ぼくは苦笑いをした。
タバコを吸いたい気分だった。毎日、そう思って暮らしているんだけど。
でも、今夜は特に吸いたいと思った。もう、一ヶ月も我慢している。なんで禁煙なんかしているのだろう。こんな時すごく思う。
そんなに体が悪くなるほどの量を吸っているわけでもないし、看護師の妻だって、ぼくにタバコをやめろとは言わない。他の誰にも止めた方いいと言われてもいない。
やめるなんて宣言もしていないし、誰もぼくが禁煙してる事も知らないのだ。
だから、ぼくが、タバコを吸ったって、誰もなんとも思わないじゃないか。禁煙なんてばからしい。何度そう思ったか。そして、今もそう思っている。
(あれを吸ってしまおうか)
実は、どうしても吸いたくなった時用に、一本だけタバコを残しておいてあるのだ。洋服箪笥の上においてある、小さな引き出しの一番下の段に。湿らないように、チャック付きの袋に入れて、大事にしまってある。
今、あれを吸うのは浅はかだって分かっている。あの一本があったから、ぼくはこの一ヶ月間、禁煙することができたのだから。まだ、どうしてもって時じゃないって、自分に言い聞かせて。
きっと、あの一本を吸ってしまえば、もうおしまい。もういいやって気持ちになってタバコを買いに行ってしまうだろう。
まだ、あの一本を吸っちゃいけない。あれがあったからがんばれたのだろう? 一ヶ月やれたんだから、まだまだ頑張れる。
ぼくの心の善が言う。
禁煙なんてやめろ、やめろ! そんな事して何になる? 我慢なんてするな。おまえは自分のしたいと思う事をすればいいんだ!
ぼくの心の悪が言う。
ぼくはベランダに突っ立ったまま心を戦わせる。
ぼくは、そんなに意志の弱い人間か? やろうと決めた事もやり遂げられないのか? 自分に立てた誓いはどうなったのだ。ぼくはそんなにだめなやつなのか?
いやいや、タバコぐらいの事で、何もそんなに大げさにならなくても。大したことないさ、タバコを吸うか、吸わないかなんて。もっと気楽にいけばいいのさ。楽しくやろうぜ。したいことして!
ええいっ! ままよっ! そうだ、吸っちゃえ! もう、どうにでもなれだっ!
ぼくは、タバコを吸うと決めて、後ろを向うとした。その時、
(うん? 何だ?)
目の端の方で、黒い影が空を飛んで行くのが見えた。
大きな鳥か何かか? いや、違う。よく見ると人間みたいな顔や手足があって、人間にはない翼がある。
翼は体の大きさに対して、随分と小さい。黒いぺらぺらとした羽は、そう、まるでコウモリの羽だ。すごい速さで動かしている。
人型のそれは、ほっそりとした体つきをしていて、中学生ぐらいの年齢の少年のように見える。
夜なのにこんなにはっきり見えるのは、月明かりのせいだろう。
それが、ゆっくりと向いのマンションの方に、向かって飛んで行く。
ぼくは茫然として、その後ろ姿を見ていた。 あれは悪魔だよなあ。
絵や何かで見た事のある、悪魔とはちょっと違う。やぎのような角も、弓矢のように尖ったしっぽもない。けれど、人間みたいな容姿で、黒い布を身につけ、コウモリのような羽で夜空を飛ぶ。そんなのは悪魔ぐらいしかいない。
悪魔・・・・、何でこんな所に。
悪魔は向いのマンションの前で、しばらくホバリングしていたが、そのうちに空高く昇って見えなくなった。
何だったんだ、今のは?
ぼくは空を見上げたまま、しばらく動けないでいた。
ぼくは寝ぼけていたのか? 幻覚を見たのか? もしかして、ストレスのせい?
いや、ぼくは寝ぼけてもいないし、精神も正常だ。
何だったんだ・・・。
ぼくは首をかしげて、もう一度辺りを見回した。
おかげで、タバコのことなどすっかり忘れてしまっていた。