表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

 おいで、と誰かに呼ばれた気がして振り返った。

 暗闇の中で、何か細長いものがぼんやりと浮かび上がっている。白魚のような滑らかな、手。

 おいで、と手が動き、私を招いた。おいで、おいで、こちらへおいで。ゆらゆら揺れるその手に誘われて、私はゆっくりと歩き出す。何も、考えてはいなかった。ただ、呼ばれたから近付いただけ。

 白い手に近づくにつれ、闇の中からひとつ、またひとつと手が現れる。

 武骨な男の手、しなやかな女の手、まだふっくらとした子供の手。枯れ木のような老いた手、紅葉のような赤子の手、腐敗して骨がむき出しになった死人の手。

 手、テ、て、テ、手……

 無数の手が、私をそちらへと誘っている。

 ――……いやだ。

 ふと、我に返るようにそう思った。本能的な感覚が、あの手の群れを恐怖の対象であると告げていた。同時に、ふらふらと動かしていた足も止まる。

 私が立ち止まった一拍後、招いていた手の群れが、ぴたりと動きを止めた。

 ……そして次の瞬間。数多の手が、一斉にこちらへと伸ばされる。我先にと、まるでたった一つしかないモノを奪い争うかのように。

 「私」に向かって伸ばされた沢山の手が、眼前に迫って――



***



「……!」

 チャイムの音と同時に、智美(ともみ)の意識は浮上した。起立、礼、ありがとうございました。まだ意識が覚醒しきっていないまま学級委員がかける号令に合わせて動く。本日最後の授業が終わり、それぞれあてがわれた掃除場所に向かうクラスメイト達をぼんやりと眺めていると、ぽん、と背後から両肩を叩かれた。

「今日も清々しいくらいに寝こけてたねぇ。さすが『眠り姫』」

「…………先生は?」

「いつものことだからって。一応、一回声かけてたんだけどね。眠り姫は今日も茨の中かーって」

 『眠り姫』――高校に入学してから一か月も経たずにこのあだ名を智美に付けたのは担任だった。授業中によく居眠りをしてしまう彼女は、一度深い眠りに入ると授業中でも休み時間でもちょっとやそっとのことではまず起きない。どんな時間、どの授業でもそうだったので、新年度が始まってから教員内でもクラス内でも話題になるのにそう時間はかからなかった。成績がまあまあ良いのが幸いしたのか、追加課題を出されたくらいでこっぴどく怒られたことはまだ一度もない。……この前の三者面談では担任から注意どころか心配され、過眠症ではないかとそれとなく医療機関での受診を勧められたが。

 開いたままのノートに目を落とすと、眠ってしまう直前まで写していた板書は案の定ミミズが這ったような文字で書かれていて、書いた本人ですら何と書いてあるのか全く読めそうにない。深いため息をついて頭を抱えた智美は、縋るような目で話しかけてきた友人を見上げた。

「い、いっちゃん……お願いが……」

「ノートでしょ? そう言うと思った。明日の授業までには返してよね」

 智美が何を言いたいのか察していた友人は、にやりと笑って片手に持っていた授業のノートを彼女の頭に置く。智美は思わず涙目になって、用意周到な友人に飛びついた。

「神よ!」

「はいはい……それにしても、よくそんなに寝れるよねぇ。昼夜逆転生活ってわけでもないんでしょ?」

「夜もちゃんと寝てるよ……でも、最近はあんまり寝れた感じがしないかも」

「傍目に見てめちゃくちゃ寝てるくせに寝れた感じがしないってどういうことよ」

「いや……なんか最近、変な夢見るんだよね。しかもいつも同じ内容で」

 頭の上に置かれたノートを壊れ物を扱うように机上に置いた智美は、友人のつっこみに対して眉間に皺を寄せる。歯切れの悪い彼女の返事に、友人は首を傾げて続きを促した。

「へぇ、どんな?」

「手が出てくる」

「手?」

「そう。めっちゃ手が出てくる。寧ろ手しか出てこない」

「こわっ! なにそれ変な夢っていうか、もう悪夢じゃん」

 智美が見た夢の内容を大雑把に聞いた友人は、鳥肌立っちゃった、と呟きながら青ざめた顔で思わず自身の腕をさすった。

「そんな夢何回も見てるとか、大丈夫なの?」

「あんまり……? 夢のせいで寝れた気がしなくて、だからいつも以上に昼間も眠くてさ、ぁ……ふ」

 浮かない顔をしながら、大きなあくびをひとつ。そんな智美の目元にうっすらと隈ができているのに気付いた友人は、最初に話しかけた時の呆れ混じりの苦笑ではなく、心配そうな表情を浮かべて智美の顔を覗き込んだ。

「あんた病院行った方が良いんじゃない? 何科かわかんないけど、とりあえず総合病院とかでさ」

「うーん……あんまり続くようだったらそうするわ……」

 心配してくれてありがとう、と智美はどこか弱々しい笑みを見せて友人に感謝した。



 ……本当に、友人の言ったように一度病院に行った方が良いのかもしれない。そうしみじみと思いながら、智美はふらふらと学校を出た。眠気があるのに眠れない。昼も、夜も。そんな状況がずっと続いているせいで、体調にも少しずつ影響が出ている。気を抜けば歩きながら眠ってしまいそうで、けれど、見るだろうあの夢のことを考えると不安で眠りたくない。矛盾した気持ちを抱えながら家へと帰る智美の足取りはとても覚束ないものだった。

 夕暮れ時の繁華街は、朝と違って人通りが多い。クラブ帰りの小学生や、帰宅部の学生、夕食の材料を買いに訪れる主婦。部活帰りの学生は、もう少し遅い時間にここを通るのだろう。様々な人とすれ違いながら、智美は重たい足を引きずるように歩いていた。

 ――チリン

 と、小さな鈴の音が聞こえたのは空耳だろうか。何かに呼ばれたような気がして、智美はふと足を止めた。顔を上げ、音のした方へ目を向ける。

「……あれ?」

 視線の先には、一軒の古い建物が佇んでいた。時計店と喫茶店の間に、半ば隠れるように佇む、一軒の木造の建物。外観の古さから、老舗の店だと思われる。

 しかし、智美は首を傾げた。

「あんな店、ここにあったっけ……?」

 毎日通学路として小学校のころからずっとこの繁華街を通ってきたが、今まで一度もこの店の存在に気づいたことがなかったのだ。真新しい店ならまだしも、古い店なら智美は絶対に知っているはず。そもそも、時計店と喫茶店の間に店などなかったような気がする。

 襲い来る眠気よりも不思議な建物への好奇心がわずかに勝り、智美は爪先をその店へと向けた。近づいて観察してみると、その不思議な建物の古さがよくわかる。木造の壁は全体的に色あせている。入り口は昔ながらの格子の引き戸だが、はめ込まれているのは磨りガラスで中の様子は見えない。頭上に掲げられた看板は汚れて黄ばみ、すり切れた文字で『夢現屋』と書かれているのが辛うじて読めた。

「ゆめ、あらわれ……? なんのお店だろ……?」

 何かに引き寄せられるように、智美は格子戸に手をかけた。横に引くとカラカラと音を立てながら開いた向こうに、薄暗い店内が顔を出す。照明はオレンジの電球が数えられるほど天井からぶら下がっているだけで、店内全てを照らしているわけではないようだ。頼りない光源の中、古めかしい家具が所狭しと並び、そのテーブルや棚の中にも食器や置物等の雑貨が詰め込まれているのがなんとなく見えた。店内の様子を見て何の店だろう、と首を傾げていた智美の頭に『骨董店』という言葉が思い浮かび、一人で納得する。そうだ、ここはきっと、骨董店だ。

 奥にいるのか、店員の姿はない。ここにはどんなモノが置かれているのか、どうしてか興味がわいて、智美は静かな店内に足を踏み入れた。何か香を焚いているのか、嗅いだことのない不思議な香りが鼻孔をくすぐった。

 入り口付近に置かれた家具からひとつひとつ観察していく。アンティーク調のテーブル、用途がよくわからない大きな壷、キャビネットのガラス越しに見えるきれいな模様のティーセット。今はもう珍しいだろう和箪笥の上には中身のないガラスドームが置かれている。壁には弦のないヴァイオリンや女神の肖像画が掛けられていて、また別の棚の中には少しくすんだカトラリーや切子グラスが飾られていた。雑多に詰め込まれていると思っていたが、こうして品物を見ていると意外にも整然と配置されていることに気づく。ここの店員はきっと、几帳面な人なのだろうと智美は勝手に想像した。

 店の奥には、カウンターのようなものが置かれていた。書店や文具店に置かれているようなレジカウンターではなく、個人経営の喫茶店やバーにあるような、店員と客が対面する形になった高めの椅子とセットになったカウンター。深い木の色をしたその上に、ひとつだけ、何か小さなものが置かれていた。

 近寄って何か確かめる。それは、銀色の小さな鈴だった。神社でお守りと一緒に売られているような、鈴に青い紐が付けられただけのシンプルなキーホルダー。紐の先をつまみ上げると、チリリと澄んだ音が小さく響く。鈴のある部分に、何かの文字を崩したようなマークが彫られていた。

 さっき聞こえたのは、この鈴の音だろうか。根付けを摘んでもう一度揺らしてみると、また鈴が澄んだ音で鳴いた。自分のものではない若い女性の声が店内に響いたのは、その直後だった。

「それ、気になりました?」

「きゃっ!?」

 不意に背後から声を掛けられ、智美は飛び上がった。手にしていた鈴が大きく音を立てる。慌てる智美の姿に、声の主はからからと声をあげて笑った。

「ごめんごめん、驚かせちゃって」

 智美がおそるおそる振り返ると、そこには若い女性が笑みを浮かべて立っていた。自分と同い年くらいの、少女と女性の中間と表現できるようなまだ若い人物。暗いオレンジの証明のせいか、肩口で切りそろえられた彼女の髪はとても赤く、またそれと対照的にこちらを見つめる瞳の光彩は薄い色をしているように見える。

 不思議な色の目と髪を持つ彼女は、こちらを安心させるように人懐こそうな笑みを浮かべて智美に話しかけてきた。

「あなたみたいな若い人がこんなところに来るのって、珍しくて。『夢現屋(むげんや)』へようこそ、お嬢さん」

「むげん、や……?」

「そう、夢に現で『むげん』。読みにくいかもしれないけど、それがここの名前なの」

 彼女の説明で、智美は看板に書かれていた店名の読み方を知った。漢字を音読みするのが正しいらしい。

「すいません、勝手に入ってしまって」

「ううん、いいよ。ちょうど席を外しちゃってたあたしが悪いんだし……それより、ちょっと手を貸して」

「え、あ、ハイ」

 唐突にそう言われ、智美は驚きながらも左手を差し出した。智美の左手を彼女の白い両手が包み込む。触れた皮膚が見た目よりも固さを持っていて、智美は少し驚いた。骨董品を動かしたり触れたりするから、もしかするとそのせいで彼女の掌の皮は厚くなっているのかもしれない。

 そんなことを考えている智美を余所に、彼女は手元に視線を落としながら一瞬、何かを考えるように表情を曇らせた。先ほどの笑顔からは一変して、眉根を寄せ、ほんの少し目つきを鋭くさせる。

「ふぅん……そうか、もうここまで……」

 小さな声で何事か呟いたと思ったその時には、彼女の手は離れ、表情も元の笑顔に戻っていた。ありがとう、と言われ、智美はいえ、と小さく首を振る。先ほどの彼女の表情は、目の錯覚だったのだろうか。

「あなた、最近あんまり眠れてないんじゃない? 夢見が悪いのかな?」

「え、何でそんなこと」

 不意に言い当てられた事実に、智美はどきりとして思わず聞き返した。何も言っていないのに、何故彼女はわかったのだろう。自分が眠れていないことも、夢見が悪いことも。怪訝な顔つきになった智美に彼女は変わらず屈託の無い笑みを浮かべる。

「眠れないって思ったのは、隈ができてるから。夢見が悪いってのは……ここに来る人は、そういうヒトが多いから、かな」

「……それって、どう」

 どういうことですか、そう問おうとした智美の言葉を遮るように、彼女は智美の右手に触れた。持ったままの鈴が揺れ、また小さな音を立てる。

「あなたが持ってるその鈴、良かったらもらっていって。それは元々とある神社で売られてた快眠のお守りなの。枕元に置いて眠れば、きっともう、悪夢は見なくなる」

「お守り……?」

 快眠の神様なんて、聞いたことがない。半信半疑で手元の鈴と彼女を見比べる。そんな智美の懐疑的な視線を躱すように、お代はいらないよ、と、彼女は目を細めて言った。

「そろそろ、家に帰った方が良いんじゃない?」

「え……? あっ」

 彼女に促され、智美は店の外に目を向ける。入ったときはまだ明るかった外がもう真っ暗になっていて、夜道を照らす街灯の光が磨り硝子にぼんやりと丸く映っていた。早く帰らなければ、母に心配されてしまう。智美は慌てて入り口へと向かった。いつの間にか閉まっていた格子戸を再び開け、店の奥に佇んだままの彼女に向かって一度礼をする。

「おじゃましました。……あとあの、鈴、ありがとうございます」

「いーのいーの。縁があったら、また来てね」

 軽い調子で返した彼女は、ひらりと手を振りながら智美を見送った。 

「夢の中で逢いましょう、『夢憑き』のお嬢さん」

 引き戸が閉まる直前、店の奥で彼女がぽつりとこぼしたその一言を、智美は知らない。



 その日の夜。寝る支度を済ませた智美は、ベッドに腰かけて帰り道に寄ったあの骨董店での出来事を思い出していた。

「なんだったんだろ、あの『夢現屋』っていう店……」

 あの店を出たすぐ後、振り返ってみると、店は跡形もなく消えていたのだ。そこにあったのは、いつもと変わらない見慣れた繁華街。智美は時計店と喫茶店のちょうど境の前に立っていて、二つの店舗の間は隙間無くぴったりとくっついており、今まで智美が過ごしていたはずのあの古い骨董店の姿はどこにも無かった。まるで……そう。最初から、店自体存在しなかったとでも言うように。

 一瞬、今までのことは夢だったのかとも思ったが、己の手が握りしめていた銀色の鈴が、それが現実だったことを主張ていた。なんとも不思議な出来事に遭遇してしまったものだ。狐につままれるとは、まさにこのことだろう。

「これ、本当にお守りなのかな……?」

 手のひらの上で転がしていた鈴をつまみ上げ、智美は疑わしげな目で見つめる。振動でチリチリと音を立てる小さな鈴は、何の変哲もない、ただのキーホルダーのようにしか見えない。強いて挙げるなら、ぽつりとひとつだけ刻まれている崩し文字のようなものが唯一特徴的だと言えた。何と書いてあるかは、どんなに考えても智美にはわからなかったが。

「……まあ、タダでもらったものだし。お守りっていうんだから、効果があったらラッキーくらいに思えば良いのかな」

 御利益があるかどうかは信憑性に欠けているが、見続けている悪夢から解放されたいと切実に思っているのも事実。ひとりでそう納得し、智美は鈴をあの店員に言われたように枕元に置く。元々、もう眠るつもりだったのでそのまま横になり、布団の中に潜り込んだ。

「夢、見ませんように……」

 悪夢に対する不安とわずかな恐怖を抱えながらも、智美の意識はすぐに闇に呑み込まれていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ