出発
ルーカがキーアンより先に馬車に乗った。誰もいないと思っていたら、既に女性一人が乗っていた。見た目からアステラ人ではないとわかる。ギルシ人?
女性はルーカの様子を覗っているだけで、何も言わない。
「さて、出発するか」とキーアンが最後に乗ってきた。
ルーカが目線でキーアンに問いかける。
「アンナ」とキーアンが低い声で言うと、アンナがビクッとしながら、馬車の壁に隠れ場所があるかのように体を寄せていった。「挨拶」
「初めまして、アンナと言います」
「初めまして、ルーカです」とルーカが微笑む。
「ルーカ、フェルノーザ伯爵のことを知っているか」
「ああ。ギルシ軍の中でもかなり影響力のある男だ」
「その伯爵は親のない少女たちを買い、密偵に育てていたのは?」
「噂では」
「アンナはその密偵の一人さ」
ルーカが驚いた。グレンは敵軍の密偵を野営地に生きたまま入らせるわけがない。
「うちの総大将は本当に役立たずだと思わないか、ルーカ」
ルーカはアンナのことを哀れだと思った。侵入を試みた時点で既にグレンとキーアンの掌の上に踊らせていた。そして一番哀れなのはそれに気づいてないことだ。
「敵の密偵を都に連れていくのか」
「もう敵の密偵ではない、お前と同じで私のモノだ」とキーアンが微笑む。「今回の戦争は実に良かった。こんないい戦利品を2つも手に入るとはな」
「アンナを密偵にするのか」
「否、彼女は私の実験動物だ」
ルーカが絶句した。
「お前が想像しているようなことをするつもりはない。もししたら、アレの気に入りを敵に回すはめになる」
アレの気に入り、つまりグレンのお気に入りのエレンは突然出発前に現れ、キーアンと話したいと言ってきた。
まだ張られていた王子の天幕の中で2人きりになると、エレンがキーアンに通告をする。
「アステラという国は大事なら、もう二度と快楽のために人を傷つけるな。ギルシの密偵に不要な傷を一つでもつけたら、この国を地図から消える」
正直キーアンはエレンの力を理解しているわけではない。ただどれほど各国の王室に影響があるのか熟知している上に、尊敬する父、現国王のエレンを絶対敵に回さない方がいいという助言を無視できるはずもなかった。それにエレンなしじゃ、キーアンの改革は実現不可能だと本人が一番よくわかっている。
都まで十二日がかかった。馬車の中でアンナが存在しないかのようにキーアンがルーカに今後のことを説明していた。
エレンの条件を聞いた瞬間からキーアンの頭の中でルーカ込みの計画が立てられた。もうルーカはへフェスとグレン同様になくてはならない人間だ。
ただ、アンナのことを完全に信頼していないから、話を聞いていてもわからないように人の名前を出さなかったり、重要なことを彼女が理解できない言語で言ってたりしていた。たまに言いたいことの逆も口にしていたーグレンは役立たずと呼ぶときと同じように。
アンナはこの十二日間はキーアンの側から離れること一瞬もなかった。日中はずっと移動中だったから、馬車から食事休憩のときだけ降りていた。夜は道中にあった屋敷に泊まり、同じ部屋で寝起きをしていたが、縛られることはなかった。
キーアンはアンナに全く興味を示さず、ただ必ず目の届くところにいるように命じた。時間を持て余したアンナは王子の身周りの世話をし始めた。身の周りの世話と言っても、服やベッドを整えたり、蝋燭に火をつけたりする程度だったが。
アンナは自分の運命を受け入れることにした。戦場から離れた今、逃げたところでまた掴められる。そして万が一前の主人の下に戻れたらとしても、裏切り者扱いをされ、ひどい体罰をうけるだけだ。アンナがキーアンの望む通りに動く限り、王子は彼女に近づくことすらない。何を考えているかよくわからない男だが、フェルノーザと比べれば、聖人にすら見えた。
馬車の速度が落ちてきた。
「ルーカ、準備を整うまでお前は私の別荘に住むといい」
城の敷地内には王子用の別荘がある。キーアンは基本そこで過ごしている。
「わかった。ちなみにいつ【お披露目】の予定なんだ?」
「1ヶ月後かな…お披露目なくても明日からへフェスと一緒に動いてもらうぞ」
「1ヶ月豪遊できると期待していたのに」とルーカは残念そうに言う。
「アンナ」
「はい」と外の様子を覗き見していたアンナが座席から腰をあげるほど驚いた。
キーアンはそれを冷ややかな目で見ている。
「君もその別荘に住むんだ。今後も必ず私の目の届くところにいろ」
「はい」
キーアンが思案げにアンナを見つめていた。
「召使いには、アンナは頭が良すぎる。私の秘書、アジャクスの手伝いをするといい」
「わかりました」
「信用をするのか」とルーカが本人の目の前で遠慮なく聞く。
キーアンが残酷な笑みを浮かびながら、ルーカとアンナを交互に見る。
「裏切ったらどうなるかアンナにたっぷりと教えてある。それにいい子にしていれば、前よりいい生活ができるのに、アンナに私を裏切る理由もない。な、アンナ?」
「はい」
植え付けたれた恐怖はあまりにも強すぎる。
馬車が止まり、ドアが外から開かれた。キーアンが降りてから、ルーカと最後にアンナが降りてくる。キーアンの別荘の入り口まで道を作るかのように両側に並んでいる人々は一瞬ざわつくが、キーアンの目線を感じると静まる。
その中の一人がキーアンの方に向かってきた。
「お帰りなさいませ」と暖かい笑顔でアジャクスがキーアンたちを迎える。
「仕事だ」とキーアンが大量の紙をアジャクスに渡した。「へフェスはどこだ?」
「勝利の報告を持って、大臣たちと会議室でお待ちです」
「休む暇もないじゃないか」とキーアンが歩き出す。
「殿下の指示通りにね」とささっと歩くキーアンに既に聞こえない声でアジャクスが言う。
なぜ都に入る前に、一行が休憩をして、水浴びの後に着替えたかアンナはやっと合点がいった。
「ルーカ大臣の出席についても知らせてあります」とアジャクスが深々と挨拶してから「そして、戦場でのお勤めご苦労だった、アンナ殿」と長い間に合わなかった部下に声をかけるかのように王子の秘書が振る舞う。
「長い間に渡り、留守をお任せしてしまい、申し訳ありませんでした」とアジャクスと同様な黒い軍服を着るアンナは部下のように答えた。
アジャクスが満足そうに微笑むとルーカたちと一緒に歩き出す。
別荘の入り口に40歳位の女性と10歳の可愛いらしい女の子が立っていた。キーアンが膝をつくと、女の子が王子に飛びついた。
「お帰り」と女性は言いながら、キーアンの額にキスをした。
「ただいま、母上」
「お帰り、お兄ちゃん」と女の子がきゅっとキーアンを抱きしめた。
「ただいま、エイミー。いい子にしていた?」と優しい表情でキーアンがエイミーの頭の撫でる。
「うん」と彼女が頭を大きく上下に振る。
「勉強をちゃんと毎日していたのよ」とキーアンの母、王妃が満足そうに言う。
「ご褒美をあげないと」
「見たいオペラがあるの!」とエイミーが機会を逃さなかった。
「いつ?」
「明日!」
「わかった」
エイミーが嬉しそうに兄にまた抱きついた。
王妃はルーカと挨拶してから、アジャクスに従うアンナを不安な表情で見た。
「戦利品」とキーアンがゆっくりと告げた。
「どういうこと?」
「言葉の通りですよ」
「あなたの趣味に付き合うために連れてきたんじゃないわよね?」
「これも生憎、また私の趣味です」
王妃はもうこれ以上何を言えばいいか分からなかった。言葉を失ったまま、キーアンを見つめる。
「お兄ちゃん、センリヒンって何?」
「う~ん」とエイミーの頭を撫でながら、キーアンが説明する。「戦争に勝ったら、もらえるもの」
「人ももらえるの?」
「お兄ちゃんは特別」