休戦
エレンの天幕を後にしたグレンは野営地を一周してから、自分の天幕に戻った。
総大将用の天幕は実際2つある。エレンが到着した日に案内された天幕はあくまでも客人を迎えるためのもので、執務室代わりに使われている。グレンですら無駄に豪華だと思っているほどの豪華さだった。総大将に話があるときは多くの兵士、大将や大臣がそこを訪れる。
もう1つの天幕はその真逆で、質素そのものだった。食事と寝起きはそこで済ませている。この天幕を訪れるのはレナードしかいないと思っていたが、中に入ると珍しい声が聞こえていた。
小さなテーブルの上においてある人間の身体図を指しながら、質問をするキーアンと数歩を離れたところから立ったままその図をみながら、笑顔で答える実年齢より随分上に見える使用人がそこにいた。
グレンは二人に声を掛けず、別のテーブルにあった手紙の山を確認し始めた。
「お帰りなさいませ」と使用人が主人のことを見のがすわけがない。
「じいやも座ればいいのに」とグレンは手紙の山から目をそらさずに挨拶に答える。そして一通の手紙を蝋燭の火にあてる。
「じいや、その通りだ。座れ!お前は今グレンの使用人ではなく、私の師匠のようなものだ。」とキーアンが近くにあった椅子を示す。
じいやとはグレン付きの使用人のあだ名である。老人のような真っ白な髪が子供のグレンを勘違いさせた結果ついた名だった。
じいやは遠慮がちに座った。
グレンはまた一通を燃やす。
「恋文か、総大将殿?」とキーアンが意地悪な笑みを見せる。
「戦場で私は暇人らしい」
「実力であがらなかった男だと思われている証拠だろう」
キーアンとグレンが目を合わせて、意味ありげにお互いに微笑んでみせた。王から軍事の全てを任された17歳のキーアンが真っ先にしたことは、1歳年上のグレンに軍の指揮権を渡すことだった。その年まで繰り返し戦争に負けていたアステラは負け知らぬ国に生まれ変わった。
「貴族ですから」とグレンは差出人を見ては、手紙を燃やす。
「結婚しないから、こういうことになっているだろう」とキーアンが手紙に興味を惹かれ、グレンの隣まできた。
「結婚をするなと言ったのは殿下ではありませんか。」とグレンが笑う。
「お前を女と共有するのは耐えられなくてな。」
グレンが声を出して、笑った。
ふっと差出人のない手紙に気付き、グレンが封筒を鼻の前まで持ってくる。香りを確認するためだ。
「本命かな」とキーアンは鋭い目線を送る。
「いいえ、最高の愛人です。」と封筒を開きながら言うと、キーアンはまた椅子に座った。
「愛人かぁ。本命はいないのか。それともあの魔女」
とキーアンが魔女という言葉を口にした瞬間に二人のやり取りを笑顔で見守っていたじいやが無表情になる。
それに気づいたキーアンは一瞬とまる。
「エレン・ゼウス」とグレンが助け船をだす。
「そう、そのエレンを狙っているのか」
「紅茶の準備をいたします」とじいやが突然立った。
「私は珈琲が良い」
「かしこまりました。」
「お前がよく入れるあのケガに良い紅茶も頼む」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」とじいやが飲み物の準備のため、奥に消えた。
「気を悪くしたのか」とじいやが消えた方向を見て、キーアンが小声で聞く。
「気にしないでください。そもそもことの発端は私ですから。・・・殿下はケガをしているのですか。」とグレンは驚いた顔をする。キーアンは戦場には出ない。
「いや、あの暇ぶつしに傷を負わせただけだ。」とキーアンが得意げに言う。
グレンはため息をついた。
「そのための暇潰しではありませんでしたが」
「送られたものに何をしようが、私の勝手だろう?」
「そうですが・・・」
「ご心配なく、これ以上私の評判が落ちるようなことはしていない。ただ実験をしてみようと思ってね。」
「実験ですか。」
「そう。恐怖をどこまで人を支配することができるかという実験をね。結果がわかったら、報告するよ。ちなみにアレを持ち帰ることにしたから、必要な手を打っておけ。」
「分かりました。身元はわかっているので、レナードに後始末を依頼しておきます。私よりそういうの得意ですから。」手元にあった手紙を読み始めたグレンが突然に話を変えた。「出発はいつの予定ですか。」
「明後日の夜」
「是非とも明日の午後に出発していただきたい。可能なら彼女との面会の後すぐにでも」
「わかった。」とキーアンはじいやとの勉強のために持ってきた図形をまとめ始めた。「ルーカはもう私の好きにしていいだろう?」
「殺しと拷問以外なら」
「どっちもするわけないだろう。なぜ彼女がその条件を出し・・・まさか、グレン、お前、ルーカを殺すつもりだったのか。」とキーアンの手から紙がパラパラ落ちる。
グレンが落ちた紙を拾いながら、複雑な表情をする。そしてキーアンに渡した紙の間に都からの手紙を紛れ込んだ。キーアンはもちろんそれに気づいている。
「親友だろうと家族だろうと、戦場で同じ側で戦っていない人間は全て敵です。」
「お前を敵に回したくないなぁ」
コッホコッホ。じいやがグレンの珈琲とキーアンに依頼された紅茶のポットを持ってきた。複雑な笑顔で主人とその友人を見る。グレン以上にキーアンは非情な男だと、じいやがよく知っている。
「茶番こそ人生」とキーアンがモットーを口にする。
「殿下の演技力に帽子をとりますよ。」
キーアンが得意げに笑った。
「じいや、都に戻ったら私の執務室に来い
。」とキーアンがポットを受け取り、「さて、荷造りをするとしよう。ちなみにグレン、お前はいつ戻る?」
「明日の彼女との会議次第ですが、遅くとも明後日の夜には出発します。」
キーアンは不満そうな顔をする。
「アレの件でしたら、殿下が都につく前に片付けさせます。」
「道中に報告を待っている。」
「分かりました。じいや、殿下を送ってくれ。」
キーアンの天幕にはアンナはまだテーブルに縛られていた。
「診ても宜しいでしょうか」とキーアンと一緒に来たじいやが心配そうにアンナを見ていた。
アンナが身に付けていたズボンの右側に血ぼ染みがあった。寝ているのか気絶しているかー頭が力なくぶら下がっていた。
「かまわないが、恐らくじいやの手当てを拒むと思う。」
「そのときは殿下に任せます。」
「なぁ、じいや。あの人とお前だと、知識豊富なのはどっちだ?」
アンナの近くで跪いたじいやがズボンを切り始めた。
「私なんてただの素人に過ぎませんよ。」
「なるほど」
アンナが突然目覚めて、じいやを驚いた顔で見た。
エリーネス族特有の白い肌と琥珀色の目を目の当たりにすると『悪魔』と叫び始めた。キーアンの予想通りだ。
じいやがアンナの口を手で塞んでいる間、キーアンが近くにしゃがむ。そして小さなナイフをポケットから出して自分の唇に当てながら、彼女に微笑んだ。
暴れそうになっていたアンナがすぐ大人しくなった。キーアンが今手にしているナイフを使ってどれほどの痛みを人に与えられるかこと細やかにこの2日間ずっと聞かされていた。
『親切で傷の手当てをしている彼に後でちゃんとお礼を言うように。』とキーアンが抑揚のない声で言う。『彼への抵抗も失礼な態度も全ては私に対する屈辱だと忘れないように。』
『はい』と言いながら、アンナの目から涙が零れた。
じいやが早速傷の手当てを始めた。キーアンは手を抜かなかったようだ。傷口がきれいなので、後は縫うだけだった。
アンナはずっと震えていた。キーアンに対する恐怖かエリーネス族に対する恐怖か。針が肌に触れた瞬間に血が出るほど唇を噛んだ。
そのアンナを冷たい目で見ながら、キーアンは都に持ち帰らない紙ものを燃やしていた。
『君に傷を負わせていいのは私だけだ』とキーアンが囁きに近い声で言うと、アンナがビクッとした。
過剰反応に見えるが、キーアンをよく知っている者からすれば、アンナはまだまだだと思える。
素早く手当てを終わらせたじいやが、持ってきた紅茶をアンナに飲ませる。
『ありがとう』とアンナがか弱い声で言った。
じいやが微笑んでうなずいた。
「水の代わりに紅茶を飲ませるといいです。明日の朝と出発前に作りおきを持ってまいります。」
「わかった。ありがとう。」
じいやが出た後、キーアンがまたアンナのところに来た。
「明日の午後、都に出発する。君も連れていく。」
『はい』
「アステラ語話せるだろう?これから母国語をできるだけ使うな。」
「分かりました。」とアンナがアステラ語で答えた。
キーアンが満足そうに微んだ。