罠
アステラ国軍に勝利の女神が微笑んでから、というより、到着してから3日。グレンの予想通り、明後日には戦場で決着がつく。紙上でも戦争を有利にしめるための戦略を頭の中で練りながら、アステラ国第一王子キーアンが水浴び後に白い軍服の上着のボタンを閉めていた。
早速勝利の準備に関わるべく、天幕の中で執務室代わりにしている空間に入ると、30歳位のかなり大きな男が手と足が縛られている若い黒髪の女を一つのテーブルの脚に縛っていた。
キーアンはまだ濡れている短い黒髪をタオルでゆっくりと拭きながら、女を見下した。
「キーアン殿」とキーアンの護衛を務めているこの大きい男はカイデンという。「この女をさっき大将の天幕の近くに見つけました。侵入者です。」
大将の天幕ということは大臣の天幕か。侵入者の前で正しい情報を出すわけがない。
「ふ~ん」とキーアンが興味なさそうに髪を拭き続けていた。
グレンはこんな目立つネズミを見逃すはずがない。暇潰しか。
「問い詰めてみましたが、中々口を開かないのですから、連れてきました。」
「なんだ、私を楽しませるためではないのか」とキーアンは残念そうに言いながら、確信をする。
「キーアン殿!」とカイデンは困ったように言う。
茶番に慣れている者が多い我が軍は誇りに思う。キーアンが微笑む、悪戯好きな子供と同じように。
「私の夕飯はまだか。」
「すぐお持ちいたします」
「その女の分もね」
カイデンは一瞬迷った。敵にご飯を食べさせてどうすると思ったが、自分に向けた目の鋭さに気づき、早速天幕から出た。逆らったら自分の首が飛びかねない。
「さて」とキーアンが女の近くに跪いた。足を自由にしたが、手を自由にするどころか、もっときつく縛った。軍服の上から、女の体を足から腰へと調べ始めると、女が暴れ出した。難なくキーアンが彼女の両脚を抑える。
『暴れるな。ナイフなど持ってないか確認するだけだ』と彼女の母国語だと思われる言語でキーアンは言ったが、女は益々暴れる。
キーアンが乱暴に女の顔を自分に向かせた。
『私はあまり気の長い男ではない、確認させてくれないなら、両脚を切るまでだ。』と人間だと思えない位冷たくキーアンが言い放った。
女は驚いた顔でキーアンを見る。こんな貴族臭い男にこれほど冷酷な一面があるとは信じがたかった。が、冷酷だからこそ、言っていることを実行しかねないと悟った女は大人しくなった。
キーアンは満足そうに微笑む。さっきまでの冷酷な顔は目の錯覚だと思えてくるほど綺麗な笑顔だった。
カイデンは既に確認したのだろうが、自分の目しか信じない王子が女の体を調べ続ける。まだ上半身に着けていた鎧を脱がせ、 少し豊富な胸に巻いていた布の下に小さなナイフを発見した。後は・・・
『君の返事を信じよう。もう何も隠していないだろうな?』と女の下半身を見つめながら、聞く。眼差しはさっきよりずっと鋭く、声には危険な響きがあった。
隠し事は得策ではない。女は答えとして目をそらした。
「まったく」と呆れたようにキーアンは言う。『手を自由にするから、自分でとりなさい。この隙に私から逃げようとしたり、牙を向いたりすると死ぬ方がいいだと思わせてあげる。言いたいことが分かるよね。』
女はごくっと頭を上下に振った。 自由になった手で体内に隠されていたナイフをとり、キーアンが差し出したハンカチの上においた。また手が縛られる。
カイデンは音立てずに夕食を持ってきた。入り口付近に近いテーブルにいくつかの器をおくとすぐに出る。
一つの器にこの地域に珍しい真っ赤な林檎は入っていると気づくとキーアンが微笑んだ。
女の前に椅子をおくと、小さなナイフで林檎を正確な動きで切っては口に運んでいた。果汁で汚れたナイフを舌できれいにすると、刃に軽く切られた舌を唇にあてる。口の隅に落ちた血の一滴を指で拭き、女を見つめながら美味しそうに指を舐めた。 まさに林檎ではなく、血がご馳走であるかのように。
食事を終えたキーアンは女の夕飯を彼女の足が届きそうで届かないところにおいた。女の顔を自分に向かせるとゆっくりとした口調で話し出した。
『君と交渉したいんだ』落ち着いた話し方ではあるが、有無言わせない何かが含んでいる。『私が知りたいことを教えてくれれば、命の保証と君が痛い思いをしないことを約束しよう。故郷に戻れないが、私の下でちゃんとした生活ができる。自由がないが、君は故郷でも自由だったと思えない。ただ私の指示に逆らったり、嘘をついたりしたら、拷問が始まる。 戦争が終わっても、痛みのしかない日々が続くだろう。まぁ、君はいい玩具になりそうだから、十年位可愛がってあげる。逃げるという選択なんて考えない方がいい。私から逃げられた獲物がいない、そして再び私の手に落ちたら、君の体が形をなくすまで、遊ぶ。さっきも言った通り、私は気の短い男だ、手間をかかせた分を痛みで倍返しする』
小さい頃から敵の巣に侵入し、どんな情報でも手に入れてきた。恐怖という言葉の意味を知らず、どんな相手にでも勝てるように精神と肉体を鍛えられた。敵の手に陥ったら、自分の命を落とすまで。故郷を絶対に裏切らない、仲間を絶対売らないと洗脳ずっとされてきた。にもかかわらず脳裏で生まれてくるこの本能に逆らえない。これは恐怖というものか。敵を捕まって、拷問をしたことがある。痛みつけては、欲しい情報を得る。用が終われば殺す。でもこの男は情報を得るためではなく、自分が楽しめるために拷問をする。勘が間違えていなければ、敵味方関係ないだろう。女は自分の前にしゃがむ男を見ながら、考えていた。
『君の名前は?』とキーアンは交渉の成立を確認する代わりに女の名前を聞いていた。選択肢なんて最初からない。
『アンナ』と小さい声で女は言った。
「いい子」とキーアンが満足そうに言った。床においてあったアンナの食事を手に持ち、スプーンですくったスープを食べさせる。
『君は一人で侵入してきたか』
アンナはごくっと頭を動く。
『舌はついているから、話せるだろう?声を出して答えなさい。それとも舌を切って上げようか』
『はい、一人です』
『何しに来た?』
『敵国の軍の現状を確認しにきました』
『大将の天幕に何をするつもりだった?』『大将ですから、各中将より情報を把握していると思って、書類を見るために入ろうと思いました』
『なぜあそこは大将の天幕だと分かった?』
『二日前の戦いから帰る兵たちの間に紛れてきました。大将と中将たちの似顔絵を来る前に見せられたから、顔を知っています。様子を少し見ていれば、テントを分かるのが難しいことではないです』
似顔絵の情報はグレンが流すように指示をだしている。偽の情報だが。大臣の天幕は大将のだと思っているところを見ると、グレンの作戦はうまく行ったということだ。
『殺しはなしなのか』
『殺したら、あたしのことを気付かれる可能性が高くなり、情報を持ち帰らなくなるため、許可されていません』
『君が帰らなくなったら?』
『違う人が間をあけて情報を手に入れてくるでしょう。』
キーアンはこれ以上何も聞かなかった。満足したか、飽きただけなのか。天幕の中の明かりを全て消し、別の空間に姿を消した。
微かだが、リズミカルな寝息が聞こえてきた。本人を目の前にしていたときの恐怖が少し薄れきた今、アンナが脱出を試みようとした。耳を澄ませながら、手を縛る網に取りかかるが、ゆるくなるどころか、肌に益々食い込む。訓練の知識と今までの経験は何の役にも立たない日がこんなに早く来るとアンナも思わなかった。しかしいずれ来る日だと覚悟があった。焦りがちな心を暴走しないように深呼吸をしながら、縄に集中する。
かりっと縄とテーブルの木の間の摩擦で音が立ってしまう。気付かれる恐怖が込み上げる。しかし鼻先も見えない暗闇の中、唯一聞こえてくるのは寝息の音だけだった。呼吸を100回数えてから、少し体勢を変えてまた作業に戻ろうとした瞬間に、腰骨の辺りに冷たい感触。そして頬にサラサラの髪があたる。
『交渉成立しなかったっけ』と腰骨に沿いながら、刃物が突き刺される。耳元にキーアンの声が甘く響く。
アンナは何も言えない。キーアンがゆっくりと刃を切り口に回し始めた。言葉に表現しようがない痛みがアンナの全身を走った。
『ごめんなさい』と涙を必死に堪え、小さな声でアンナは言った。
キーアンはもう一回ナイフを回す。
『聞こえないなぁ』
『もう二度とこんな真似しませんから。ごめんなさい』
『次は脚を骨だけにしてあげるから』
痛みのあまりに叫びたいが、口に入れられた布がそうさせなかった。少しでも楽になるように動かそうとした脚が一番痛みが続きそうな体勢で縛られる。アンナが泣いた。
『いい子にしたら、明日傷の消毒をしてあげる』手も前よりきつく縛られる。