何も無い部屋
【夜埜風雅:一ツ目】
兄の葬儀を終えた次の日の夕刻。帰路についた僕の後を誰かがつけてきている様な気配がする。玄関の鍵を急いで鞄から出そうとして落としてしまう。慌てて拾おうとして、後ろから伸びて来た白い手が銀色の鍵を拾い上げる。
「うわぁっ!!」
驚きで悲鳴を上げながら玄関前で尻餅をついて倒れてしまう。
「てへっ。驚かせちゃった?ごめんごめん」
見上げると眼帯姿の少女が居た。羽斑柵だ。
「家まで着いてきたのか?」
鼻歌混じりにそうだよと答えると家主の断りなく玄関の扉に鍵を差し込まれ、家の中に入って行く。
「ちょ、待てよ!お前、まさか家を特定する為に着いてきたのか?!」
「そうだよ?学校終わってからずっと着けて来た」
「言ってくれれば案内したのに」
玄関で蒼いスニーカーを脱ぎながら眼帯の右目がこちらの顔を覗きこむ。
「ほらっ、私って避けられてるから。私と居ると風雅君が次の殺人鬼のターゲットだって変な噂立っちゃうし」
僕は呆れながら羽斑に続いて室内に入って行く。狭い玄関で体がぶつかりそうになって羽斑が少し顔を赤くする。
「後ろから襲わないでね?」
「ん?前からならいいの?」
「し、知らない!」
「大丈夫だよ、殺人鬼じゃあるまいし殺さないよ」
「……う、うん。そうだね」
羽斑が何か変だ。あっ、いつもか。
家主の僕を置いて白いソックスの羽斑の細くて健康的な脚が床に着く。今日の装いは夏の日とはいえ、雨上がりの冷たい外気に合わせたのか、桃色のスカジャンに腿の付け根辺りの短いジーンズ生地の短パンに、KILLと胸に書かれた黄色いTシャツを合わせている。リアルタイムでちょっと笑えないジョークだ。普段の羽斑は上品な装いなので少し珍しい。黒い眼帯が相まってなんだかワイルドだ。
「ど、どうしたの?私の後ろ姿なんか眺めて?まさか本当に……」
「いや、なんか今日の羽斑かっこいいなって」
「……可愛いって言ってほしいな」
「ん?可愛い」
「心がぜーんぜん篭ってない。あと107回やり直し!」
ダメだしするにしては嬉しそうだ。
とりあえず僕も靴を脱いで部屋に上がる。僕の装いは今日も地味だ。いや、兄のお下がりを着ているが為にもしかしたら流行とはほど遠いところにいるのかも知れない。灰色のトレーナーに蒼いワイシャツの襟首だけが挿げられている仕様だ。下は黒の綿パン。羽斑の方を見るととっくに居間を通り過ぎて僕の部屋を探し始めた。狭いアパートなのですぐにバレるが兄の部屋はあまり見られたく無い。って、言ってるそばから見つけられた。
「ここが風雅君の秘密の部屋かな?」
開けた瞬間に息を飲む羽斑。
「そこ、兄の部屋……だったんだ」
「うん。そんな気がした。ごめんね?」
「何も無いだろ?兄が本当に居たかも疑わしいぐらいにさ」
羽斑が悲しげに木戸を閉めてこちらに振り返る。視線は伏せたまま、大人しく居間の長方形の食卓前に敷かれている座布団に三角座りになる。
「警察に持っていかれたんだね」
「うん。事件や捜査の情報が外部に漏れない為の安全策にってね」
「私の両親の部屋もそんな感じ」
羽斑の両親は通り魔事件が発生した直後にその姿を消している。いや、正確には消されたのかも知れないが。羽斑自身の口からは「殺された」と直接聞いたからだ。僕がその事を聞こうとする前に羽斑が口を開く。
「まっ……遺品を燃やして消したのは私だけど。あんな親、消えて正解よ」
その瞳にどこか狂気めいた光が差し込む。それは虐げられてきた者が虐げてきた者に対する嘲笑が込められていような気がした。僕は彼女の発言に対して窘めようとしてその言葉を一旦飲み込む。児童施設で育ち、本当の両親の居ない僕の気持ちを羽斑は分からないが、逆に言うと両親の居る羽斑の気持ちも僕は分からないからだ。
「風雅君は、他の大人達みたいに私の事叱らないんだね。贅沢言うなって。実質的にこうやってお金に不自由してないのはおじいちゃんや両親のおかげだし」
何かを諦めているような羽斑の表情は裏切られて傷付いた者が醸し出す哀愁を匂わせていた。
「両親を憎んでいる?」
「うん」
「虐められたから?」
「うん。ひどい……事をされた。見せつけられた」
「今も怖い?」
「うん。あいつら居なくなったのに、いつも私を監視している気がして落ち着かないの」
「今も?」
「いつも。だけど……」
食卓にコップに注いだオレンジジュースを並べようとして羽斑が右目しかない僕の瞳を隠されていない左目で覗き込む。
「風雅君の事を考えると落ち着く。全部どうでもよくなっちゃう」
羽斑とは5年に上がってから一緒のクラスになったけど、彼女との接点はそれ以外に見受けられない。彼女が人一倍虐めの撲滅に力を入れていたことは知っていた。その貢献度も。その関係で唯一虐められていた僕への思い入れが強いのだと思っていたけど、少し違うみたいだ。
「羽斑の中に居る僕はどんな奴?」
羽斑が頬を紅潮させながら目をつむる。
「うーんとね、私のヒーローかな?」
そんな大それたものでは無いと思うけど、何が彼女の中で僕をそう至らしめているのだろうか。
「そんないいもんじゃないよ。僕も誰かのヒーローになれるかと信じていたけど、現実はそう上手くはいかないね」
「そうだね……」
寂しそうに羽斑が呟きながら僕の横に並ぶように座り直すと、肩を寄せて項垂れかかってくる。その明るい灰黄色の艶やかな髪が滑らかに僕の傍で悲しそうに揺れていた。
「あっ、今日の目的忘れてた」
「目的?」
「私が今日の料理当番なんだからね!」
当番をしてくれと頼んだ覚えは無いけど……羽斑が少し元気を取り戻せるならそれでいいか。一人で食事するのも寂しいし。




