道から
女は木製の簡素な椅子に腰を落ち着ける。黒色の手さげ鞄の中をまさぐり、せかせかとした動作で煙草とライターを取り出した。煙草の箱とライターをテーブルの上に置いてから、次に煙草の箱を開いた。女の指がつまみ取った煙草は、一本ずつが白い薄紙によって周囲を巻かれていた。一本一本の煙草の片側の端には、煙りのろ過を目的とした柔らかいフィルターが取り付けられている。このような仕様が一般的に広く普及したのは、先の大きな戦いの後からのことであると言われていた。
つかみ取った煙草を唇ではさみ、女はその先端に火をつけた。長細い棒の先から、二筋ほどの白い糸がもつれ合いつつ、濛々とふくらみをつくり立ち昇っていった。一連の女の動作は、この上なく速やかであるように思われた。
指先にぴったりとはさまれている煙草の銘柄は、悪鬼といった。あまり巷では見かけることのない銘柄である。火をつけてから投げ捨てるようにして置かれたライターには、その胴体の腹にDESPAIRという黒い文字が印刷されていた。いわゆる廉価品のライターだった。
いつの間にか、暑さを感じさせる時候は、はるか遠くへとすぎ去っていた。そのことは人々の着る衣服の上に、いかにも如実な様子で現れていた。街中を行き交う人の服には、襟巻きやニット帽といった防寒着が目立ち始めており、中にはダウンジャケットを着て膨れ上がった体をしている者もいた。木の葉が徐々に色あいを深めていく時期も、とうに彼方へと追いやられていたのだった。変わらないかたちをまだとどまらせていたのは、元気な子供達が身につけている軽装くらいのものである。
だんだんと年の瀬が近づいていた。それにつれて、この女の心には、際限のないストレスがおり重なっていた。十二月二十四日、クリスマスはすぐそこまで来ていたのだが、女の仕事と恋愛は、そのどちらにおいても行き詰まりらしきものがあらわれていた。
女の口辺から、勢いをつけた煙が吐き出された。
ここ最近、喫煙者に対する世間の風当たりは厳しいものになっていた。歩きながらの喫煙であるとか自転車に乗りながらの喫煙であるとか、あるいは火がついたまま路上に打ち捨てられた吸い殻の姿を、人々はその目に注意深くとどめていたのである。さらに成型済みのかたちで売られる紙巻き煙草というものは、やはり近くにくれば、すぐにそれとわかる臭いを発している。鼻奥に突きあげてくるかのような刺戟臭だった。それは煙草を吸わない人間はもちろんのこと、吸う人間であったとしても自覚のできることだった。
いっそ紙巻き煙草ほどには臭いのきつくない、パイプ煙草へと鞍がえしてみようかと女は考えたこともあった。だが近しい人の中にパイプ煙草を吸う者はおらず、さらには、パイプ煙草というものが手間のかかる代物だということを聞き及んでいた。その上パイプ煙草というのは、慣れてくればゆうに一時間を超える喫煙時間がかかるということでもある。そこまでの時間はかけていられないと女は思った。以前に何度か壮年の男がパイプ煙草を吸っている姿を見かけたことはある。しかし、それ以外に、まして女がパイプ煙草を吸っているという光景にはお目にかかったことがなかった。
あっという間もなく、女は煙草を一本吸い終わっていた。特殊な化学物質が果てしない速度で血管をめぐり、脳へと作用した。女はけだるさをともなった酩酊感のようなものに支配されながら、心の澱が一つ一つどこかに隠されていくような気がしていた。
女の座っている喫茶店の喫煙室は、この季節の午後になると西日が差し込んできた。室内に置かれたテーブルとイスの一部が、その表面を赤々と燃やしたりする時もあった。なぜかはわからないが、その光景が女のまぶたの裏側に浮かび上がった。今日はどんよりとした曇り空だった。女はまれにこの場所を利用している。いつもに比べ、心なしか空気が重いような気もした。晴れた陽射しが、懐かしく思われてくるようだった。
何本目かの喫煙によって、ようやく満足感が得られると、女は結果これで最後となる一本を灰皿の底に押し付け、火をもみ消していた。既に火は用済みとなっていた。体がそれ以上の煙草を受け付けなかった。火は、恨めしげにもがきながら消えていった。
女はもはや義務的な動作で喉奥に紅茶を流し込み、空になった容器をトレーの上に乗せた。喫煙席には女の他に何人かが座っていた。誰もが好きな煙草を吸いながら満ち足りているかのようにも見えるが、女にはそれが真実なのかどうかがよくわからなくなっていた。
女が荷物をまとめて立ち上がったとき、他の客が吐き出した臭いが女のコートの繊維に付着をしていた。だが女は、それと気付かないうちに返却口へトレーを片付け、喫煙店の外に足を踏み出した。
外に出たとたん、室内と密度の違う空気が女の体を包み込み、女は一瞬身震いをした。外の世界というのは、こんなにも冷たかっただろうか。今日という時が、どこか別の場所に置いていかれたような気がした。それではといって、昨日が女の意識にのぼったわけではなかった。
空からは、白い雪の断片がまばらさを保ちながら降り注いできた。
男には、たった一つだけの楽しみがあった。オカルト情報の収集がそれだった。
石、壷、護符といった怪しげな品々や、UFOやUMA、秘密結社、超古代文明、心霊現象などといった胡散臭い事象全般。さらには最先端科学、国家的陰謀といった、日常感覚から乖離しているような情報など。そのいずれもが、男には何かふわふわとした浮遊物のようにも感じられていた。全く引っ掛かることなしに、男の心のひだのその隙間を通り抜けていった。他の何事をやっているときよりも、はっきりと、空虚であるという気分を満喫できていた。
先日のことだが、男の親友がこの世を去った。不慮の事故によるもので、男は親友の家族から連絡を受けた。
人生は、やはり、はかないと言わざるをえないのかもしれなかった。家族や恋人にしたって、死ねばそれでお別れである。記憶には残るだろう。だが、それが果たして何だというのか。そして後に残るものは、決して良いものばかりではない。男はそれを認めていた。しかしその上で心にくい込んできたのは、それらを引っくるめての虚しさだった。そうであるなら最初から何もしないほうが良いのではないか。どうせ時が経てば全てが泡のように消えていくものなのだ。だったら……。と、男の生きがいは無為であることになったのだった。
男は自室でオカルト情報を収集していた。この部屋には窓が付いていた。小さな窓ではなく、どちらかといえば大きな窓だった。その外にはベランダが据え付けられている。男はふと顔を上げ、窓の外を眺めてみた。ベランダの手すりが濡れているのが見えた。そのさらに向こうでは、雪がはらはらと乱舞していた。
雪が落ちてきた。その数は際限がなく、とても人がかぞえきれるものではなかった。暖冬が続く昨今においては、降雪は珍しいものとなっていた。街並みはしだいに、白く、明るい薄化粧により覆われようとしていた。
街の裏通りの四つ角に信号機が四つあった。その一つを椅子がわりにし、一体の精霊が腰をおろしていた。精霊は一組の男女のことを見つめていた。横並びの二つの傘が湿った舗道の上をのろのろと進んでいた。精霊はこの二人に対し交信を試みていた。交信は成功した。そしてすぐに途絶えた。しかしそのわずかな時のうちに、精霊は何事かを送ったのだった。
情緒とは無縁の外観をした宿の前まで来て、男女は立ち止まっていた。降りしきる雪が傘に薄く積もり、男は女のふいをつくようにしてその細い肩に手を伸ばした。肩を抱かれた女はうつむき、そして動きを止めた。足元へと一直線に向いた女の眉は、ネオンに照らされる雪の上に文字のない言葉を描いているようだった。雪は地面に吸い寄せられるようにして落ちてくる。
男は女の肩から手を離さないまま、何かを語りかけた。二つの傘は雪の降りしきる道の上に、たどたどしい足跡を再び刻み始めた。道に落ちた雪はすぐに溶けていった。雨よりもはるかに頼りのない細かな雪は、ただひたすら舞い降りている。精霊は、もう二人の背中を見ていなかったようである。
了
冬の童話祭に参加しようとしと書いてはみたものの……。
童話じゃないですね、これ。