オブラート
地獄でもそうだったが、案の定人間界も発展していた。やはり、時は過ぎるのだ。早送りや巻き戻しは私にだってできない。――そう、それでいい。すべては永劫の流れの中では一瞬のよどみに過ぎない。このごった返す人間の街に私が混じっていても誰も気づかないのだから。
「マモンちゃん、何ニヤニヤしてるの?」
「ちょっと詩人な気分に浸っていたのですがレヴィちゃんにぶち壊されましたわ」
ニヤニヤとは怪しい笑いを指す。例えば、ベルさんやルシファーさんはニヤニヤに分類されるだろう。ベルゼブブ君は……笑顔が思い出せない。というより、これといった表情が一つも思い浮かばない。サタンさんやアスさんは意外にもいい笑顔をする。レヴィちゃんはコアな人向け。私はほほ笑んでいたのだ。もう少し語彙を広げてほしいものだ。
「レヴィは何も壊してないよ~?」
レヴィちゃんが大きな瞳をぱちくりさせながらこてんと首をかしげる。わざとらしく見えるのは私だけなんだろうか……。
「尽がやった」
ハート型に削られたルビーが付いた指輪をはめている、爪先までおめかししている人差し指は、尽さんの背中に向いた。彼は、ほかの男衆が散らかしたゴミを拾ってはゴミ袋に突っ込んでいた。いつも尻拭いとはあわれな人間だ。
「俺は何もしてないっすよ!」
尽さんがあわてた様子でこちらを向く。
「悪い子ですわね」
私は深く息を吐き、レヴィちゃんを見た。
「悪魔だから!」
そういう問題ではない。その返答に、またため息が出る。もちろん、子供……ではないか。レヴィちゃんの軽率な言葉に踊らされるほど、私も幼くないけど。
それにしても、尽さんが気のいい人でよかった。突然やってきた私たちを迎え入れてくれるなんて。しかも、たいして驚かない。
「いまどき悪魔っていうのも、時代遅れなのかもしれませんわね」
私はどこか遠い目で、そうつぶやいた。
「レヴィは流行商品だよ!」
レヴィちゃんが頬をぷくーっと膨らませ、上目づかいに睨んでくる。
「商品でいいんですの?売れるんですの?」
「マモンちゃん時々失礼って言われない?」
疑問符が疑問符で帰ってくる。
「特にそういった記憶はありませんわ」
「人の話ちゃんと聞いてる?」
頷くと、今度は尽さんに言葉を投げかける。
「マモンちゃんって尽の話聞いてる?」
「聞いてくれてるっすよ」
尽がほほ笑む。レヴィちゃんがなぜか疑わしげな顔になる。
「嘘つくと地獄に落ちてベルにベロ引っこ抜かれるよ」
「もう落ちたようなもんっすよ。囲まれちゃってるし俺。……てか、セリフの後半ベルとかベロとかややこしいっすね」
尽さんは突っ込みがお上手だ……。私はほほ笑みながらその光景を見つめていた。
たぶんここにベルさんがいたら、面倒だから嫌とかいかにも世界のめんどくさい人代表じみた言葉を吐いて去るだろう。
「尽さん、いつもありがとうございますね」
尽さんに微笑みかけると、照れたように後頭部を掻いていた。
「マモンちゃんは羊の皮かぶったオオカミだよ」
いや、それは逆だと思う。……私がオオカミの皮をかぶった羊というわけではない。それはそれでオオカミの皮をはいだ羊も十分に怖いが。レヴィちゃんが羊の皮をかぶったオオカミなのだ。
やはり、オオカミの皮をかぶった羊より、羊の皮をかぶったオオカミの方がまだ夢がある。私は納得しながら一人でうんうんと頷いていた。……ややこしいな。
レヴィちゃんにそんなこと言われたからっていちいち怒るのは疲れる。そう、ここはソフトに大人の対応を――。
「しかもおばさんだよ」
そのセリフで、私の脳内の何かがキレた。
眉間に深いしわを刻み、舌を鳴らしながらレヴィちゃんをにらむ。
「えぇ加減にせぇよワレぇ。食うで?」
尽さんが動き回っていた足を止め、じっとこちらを見ている。顔面は青白い。レヴィちゃんさえも黙っていた。空気ごとその場が凍り付く。
「……ごめんなさい」
レヴィちゃんの薄く開いた唇から謝罪の言葉が漏れる。
「いいですわよ」
私はすべてのしわを伸ばし、にっこりほほ笑んだ。尽さんが「俺は何も見てない、聞いてない」とぶつぶつつぶやきながら錆びついた人形のようにぎこちなく動き出す。
レヴィちゃんの大きな目に涙が浮かんだ。口が歪む。
「ウソ泣きしたらどうなるかわかってるよな」
私はその小さな顎を人差し指と親指ではさんだ。
「はい」
レヴィちゃんが口の形を戻し、涙を袖口でふく。私は小さく咳払いして、落ち着きを取り戻した。
――いけないいけない、危うく昔に戻るところだったわ。
そのあと私はいつものようにおっとりとほほ笑んでいたが、レヴィちゃんの分厚い靴底がカタカタと音を立てていた。