最近はみんなシビアだから
黄昏だ。
町は徐々に赤い夕陽に沈んでいく。昼間にぎやかな声を上げていた子供たちは一人も見当たらず、代わりに『ただいま』の声がどこからか聞こえてきた。それで初めて、あぁ、もうすぐ夜なんだなぁと思う。
「よぉ、ガキぃ」
語尾の締まりがない、低い声。黒い影はそいつだけすごく長くて、道路ごと飲み込んでしまいそうだった。少女はそいつをじっと見つめていた。
「菓子やろうかぁ?一生かかっても食べきれないくらいの」
男が指をぱちんと鳴らすと、ほの暗くなってきた空からパラパラと何かが降ってくる。男の黒い影が薄っぺらい地面から突き出し、それを受け止める。不定形なジェルのようなそれは、飴やチョコレート、その他もろもろの菓子を乗せていた。
「うん!」
少女は大きな瞳にめいっぱい光をたたえて、男を見上げた。男の口がまだ上るには早いであろう三日月の形をする。
「んじゃあ、契約といきましょうか?」
ポケットにゴミのように突っ込んである紙を手に取り、広げる。ボール紙のような色をしたそれには奇妙な文字がつづられていた。幼児が文字を真似た一筆書きを小さくして表面に並べたような感じだ。インクを飛び散らした形跡がある。
「けいやく?」
少女は手をかければ折れてしまいそうな細い首をかしげた。
「おう。……オレと契約すれば菓子も富も勝利も権力も好きなだけくれてやるよぉ。もちろん、死んだあとは地獄行きだけどなぁ?」
幼い子には到底わからない単語の羅列。ただ、少女には、言う通りにすればお菓子がもらえるという単純なことが分かったのである。
「けいやくする!」
「よっしゃ。じゃあこっちにサインしてもらおうかぁ」
男が怪しげな雰囲気を漂わせる紙と、それには少し不似合いなボールペンを突き出す。紙はよく見るそれとは違い、厚くて、ざらざらとしていた。
「ここ。そこに名前書いてもらえりゃあオレぁ満足なんだよ」
紙の一番下の空白を白い指がなぞる。そこに未発達な汚い字が書かれた。
「よし、契約かんりょ」
男の明るい声を制すように、鋭い声が耳をつんざいた。
「ルシファーさん!悪徳商法は犯罪っす!!」
少しこっちに傾いた路地を下ってくるのは、見知らぬ男。
「あぁん?わりぃがお取込み中だ。けぇんな」
ルシファーさんというらしい男がうっとうしそうにしっしっと手で払う。
「ちょ、完璧悪役っすよルシファーさん……」
「ばっきゃろ、誰が悪魔を英雄にするかぃ?大体、本物の悪魔じゃなくとも、今の人間悪魔ばっかしじゃねぇか」
「子供がいる前でそういう夢のないこと言わないでくださいよ」
少女は茫然と二人のやり取りを見ていた。話がよくわかっていない顔だ。ルシファーさんが名前を書いた怪しげな紙を丸めてポケットに突っ込んだ。
「……ルシファーさん、ちょっとポケット見せてくださいよ」
男がいぶかしげな顔でルシファーさんの顔を見つめる。
「やだねぇ。個人情報だぁ」
ルシファーさんは大事なものをかばうように、着崩したパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
「めっちゃ怪しいんすけど。まさか悪徳商法でひっかけた無垢な子供の名前が書かれた紙なんか持ってないっすよねぇ?」
「……」
ルシファーさんが口をつぐんで、反抗的な目で男を見つめる。
「あくとくしょうほう?」
少女はぽかんと口をあけながら、ひらがなで繰り返した。
「え~っと、こういう悪い大人が自分がウハウハするために人に嘘つくことだよ」
男が背をかがめ、少女に説明する。気のよさそうな顔立ちだ。
「おい待て。オレぁ嘘なんかついてねぇ。ちゃんとブツはやるさ。ただちょっと……ねぇ?」
ルシファーさんが獲物を見る目で少女を見下ろす。
「ブツって言い方やめましょうよ。そしてその空白が気になるんすけど」
男が背をかがめたままルシファーさんの顔を見上げる。
「器の小せぇ男だなぁ!こんくれぇいいじゃねぇか!悪魔の本懐だろうがよぉ!」
「いや将来にかかわることじゃないっすか」
ルシファーさんがいらいらとつま先を鳴らす。一方、男は冷静だ。
「子供をだますのやめましょうよ。どうせならきちんと大人に……」
「今はでじたるの時代なんだろ。悪魔呼び出すおかると野郎がどこにいるかよ。呼び出されたって契約とれねぇで終わるじゃねぇかよ。まったく、こっちは仕事でやってんだから遊びで呼び出すのはやめてほしいこった」
慣れない現代語はたどたどしかった。
「あんたはセールスマンっすか。早く契約書出してくださいよ。破り捨てるから」
「あんだと!?そんなことしたらオレの苦労が水の泡じゃねぇか!」
「それのどこがいけないんすか!」
「全体的にいけねぇんだよぉ!」
二人が睨み合う。少女はその険悪な雰囲気を察したのか、オロオロと視線をさまよわせた。
ルシファーさんがケンカ腰で男に近寄ると、男は素早くルシファーさんのパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「ぎゃあああああ!!エッチぃ!!」
あわてて腕を引き抜き、後ろに軽いステップを踏む。五メートルは跳んだだろうか。男の手には、しっかりとあの紙と同じような紙が、二、三枚握られていた。
「返せドロボー!食っちゃるぞ!」
走りよると破られると感じたのか、ルシファーさんが離れた位置で叫ぶ。
「泊まらせてくれる代わりに絶対俺を食べないって約束したのはどこのどいつっすか。……悪魔は約束事に忠実なんでしょ?」
男がため息をつき、契約書を重ね、ルシファーさんが叫ぶ前に一気に破る。ルシファーさんはぽっかりと口を開け、手を突き出したまま硬直した。
「由香~!」
遠くで声がした。少女の名を呼ぶのは、路地の向こうで手を振る母親。
「ママ!」
少女はぱぁっと顔を輝かせ、地面に散らばっていた菓子をすべてポケットにいれ、それでも入りきらないと両手につかむ。
「ママ~!優しいルシファーさんがお菓子くれたぁ!」
「おい、ちょ、待っ……」
ルシファーの呼び止めにも答えず、母親のもとに走りよる少女。
「そうなの?」
母親が少女の小さな頭を撫で、微妙な表情のルシファーに目を向ける。
「ありがとうございます!」
そして、少女の小さな手を引いて、沈んでいく夕日に向かって歩き出したのである。
「……」
昼間から集めていたので、悪ガキには空き缶や砂をぶつけられもした。何とかとった契約書は無残に真っ二つになり、地面に落ちて風に遊ばれている。おまけに、自費で出したお菓子はタダで持ってかれた。ルシファーは表情をひきつらせながら、茫然と契約書だったものを見つめていた。今更どうしようもない事実が目の前に転がっている。
「あ、ルシファーさん。俺今日夕飯当番なんで先に帰るっす」
ルシファーの努力の結晶を引き裂いた人物が笑顔で去っていく。
「……ちくしょぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!」
ルシファーは夜の色を帯びかけた空を仰いで咆哮を上げた。
「うるせぇ!」
向かいの住宅のわずかに開いた窓から空き缶が投げられる。
「いてっ」
それが見事に頭にぶつかり、軽い音を立てて地面に落ちる。
「オレ、空き缶に縁があるのかなぁ……」
これからこの残酷な世の中でしばらく滞在しなくてはならないのである。
ルシファーは未来への漠然とした不安を抱き、しばらくその場に立ち尽くしていた。
今回は由香ちゃんという女の子が主人公格でした☆