家を占領された件について
「バカやろぉ、地球はみんなの物だぁ」
――聞こえのいい言葉で、俺の家は占領された。
「でも家は個人のプライバシーを尊重するための」
「グダグダ言うんじゃねぇ。地獄の底に叩き落とすぞ」
ルシファーは冗談めかして言っているわけではない。本気で言っているのだ。何しろ、彼は地獄の数多くの悪魔の権力者の一人なのだから。
「はぁ……」
こう脅されると、反論ができない。ルシファーが教えてくれたが、地獄は……とにかくすごいところなのだそうな。まぁルシファーが要求をのませるために聞かせたんだろうが、俺は地獄に落ちてまでこの人……いや、人たちを追い払う気にはなれなかった。
俺が信じすぎているように見えるかもしれない。
「どうだよ、うまそうに焼けてんだろぉ?」
フライパンの下にかざしている片手に紫の炎が浮かんでいる。十分に熱されたフライパンの上で、目玉焼きがジュウジュウといい音を出していた。先のとがった黒い尻尾で器用にフライ返しを操り、目玉焼きをひっくり返す。きつね色の焦げ目が上手についている。
「そうっすね」
俺はフライパンを眺めた。……隣で楽しそうに朝の定番メニューを調理しているのは悪魔だ。その異様な光景を見れば、信じるしかないのだろう。
「ほれ食え」
ルシファーが得意顔で腕を組み、尻尾で支えたフライパンを俺に突きつける。
「せめてお皿にのっけてください」
「オレの飯が食えねぇってんのかぁ?」
「生意気言ってすいませんいただきます」
俺は駆け足で箸と醤油を取りに行き、フライパンから目玉焼きをつついた。
「おいしいっすね!」
初めて作ったとは思えない出来だ。ルシファーがにやっと笑う。
「まぁこれからしばらく、仲良くやっていこうじゃねえかぁ」
友好的なセリフだが、できれば頷きたくない。だが、俺には首を縦に振るという選択肢しか残されていなかったのである。
「ルシファー君、料理上手とは女々しいですね」
どこか冷淡な男の声。
「うるせぇ」
ルシファーが少し機嫌を損ねたようで、にらむように声の主を見つめた。フローリングの陽だまりに寝そべっている黒縁眼鏡をかけた堅気そうな大人っぽい顔立ちの男がにっこりと笑う。
彼はベルフェゴール。仲間内ではベルの略称で呼ばれている。その几帳面そうな見た目とは裏腹に、極度の面倒くさがりで、余計なひと言が多いらしい。ルシファーが愚痴交じりに言っていた。
「あ、気が立ったら謝ります。これ以上君としゃべるのは面倒ですから」
そのセリフがさらにルシファーの神経を逆なでしたらしい。表情が険しくなるのが見て取れる。
「おめぇ、オレとやる気かよぉ?」
口調こそ変わっていないものの、若干刺さるものを感じる。
「やめてくださいよ。尽君の迷惑です」
こんなことを言っているものの、きっと俺のことなんかどうでもいいんだろう。態度に遠慮が感じられない。
「どうかしましたの?」
雰囲気が険悪になり、俺がうまい逃げ方を考え始めると、柔らかそうな金の巻き毛をかすかに揺らしながら、マモンが間を割って入ってきた。
「いつものパターンに付き合ってあげてるんですよ」
ベルが嘲笑に近い微笑を浮かべる。
「てめぇ……!」
ルシファーの堪忍袋の緒が切れたらしい。俺は逃げるルートを探し、いつでも立ち上がれる姿勢になって避難経路を確保した。
「ベルさん」
マモンがベルを見据える。華奢な体からとは思えないほどの威圧感を感じる。表情から柔らかさは消えていた。
「……また今度にしましょう」
ベルがごろんと寝返りを打つ。マモンがほわほわした笑みを浮かべる。
「すごいな……」
俺はベルを引き下がらせた彼女に感心し、感謝もしながらふたたびソファに腰を落ち着けた。
「ルシファーさんもいけませんよ」
マモンがルシファーに向き直る。
「う……あぁ」
ルシファーはあいまいに返事しながら、視線を逸らした。
「あら、目玉焼きですの?」
マモンが俺が持っているまだ熱いフライパンの上の食べかけの目玉焼きを見る。
「あ~、えっと、ルシファーさんが焼いてくれたんっすよ」
俺は状況がよく飲み込めていなかったが、とりあえずルシファーのフォローをした。
「ルシファーさんってお料理するんですの?今まで見たことありませんでしたわ」
部屋に上品な笑い声が響く。きれいなソプラノ。
「オレだって見たことなかったさ」
ルシファーは表情の緊張を解き、唇の両端を上げた。
あぁ、もう午後の三時だ。しかし、両親は帰ってこない。ルシファーがゆっくり休んでくださいと県外の高級旅館のペアチケットを渡したらしい。有休を取り、昨日笑顔で家を出て言った。なぜ俺の両親は平気で大事な子供を悪魔に預けるのだろうか。そもそも、初対面でしかも悪魔と名乗る怪しい子供にすっかり買収されるとは……。天然というか危ないというか……。
せめて生きていられるように頑張ろう。アーメン。
俺は十字を切った。そのしぐさを見て、ルシファーが首をかしげる。チッ、祓えないか。
「それは人間の文化ってえ奴かぁ?」
「まぁ……挨拶みたいなもんかな」
悪魔に嘘をついてしまった。地獄に落とされるかもしれない。しかし、悪魔祓いを試していたとは口が裂けても言えまい。
「ふぅ~ん……。うろ覚えだが、魔除けに似てるなぁ」
「そうっすか?」
あ、あぶねぇぇぇえええ!!
俺は笑ってごまかしたが、背中にじっとりと冷や汗をかいた。軽はずみな行動は危険だ。
「わたくしも久しぶりにお料理してみますわ」
マモンがほほ笑む。
「えっ!?」
ずっとテレビの方を向いていたベルとルシファーの声が重複した。
うれしいのかと思いきや、顔は青ざめ、恐怖にひきつらせている。
「お食べになります?」
マモンが首をかしげる。
どうしたのだろう。二人の焦りようが気がかりだ。俺はじっと二人を観察した。
「あ……ちょっと急用が」
ベルが跳ね上がるように飛び起き、足早にリビングを出ていく。
「腹の調子がおかしいなぁトイレいってくらぁ」
ルシファーがすばやくソファから立ち上がり、言い終わる前にリビングを出ていく。これはひょっとして……。俺の動物的な本能が危険を察知した。
「えっと……俺」
立ち上がろうとしたその時、マモンが俺の肩をがしっとつかんだ。
「食べてもらえますわよね?」
優しい言葉にはずっしりとした重みがあった。俺はその重さを背負ったようにおとなしくソファに座ったのだった。
しばらく家を揺らしていた轟音と爆音がやむと、俺の前に皿が出された。
……なんだろう、これは。なんと表現したらいいのかわからないが、とにかく皿の中はすごいありさまだった。何の言葉も口から出ない。食べろというのか?これを?この次元を超えた何かを?
「遠慮しないでどうぞ?」
マモンがにこにこしながら言う。今やそのほほ笑みは残酷な悪魔そのものだ。
逃げ道はないだろうか。……いや。もうどこにも逃げる場所はない。腹を割るしかないのだ。
せめて死にませんように――。俺は天に祈りを込め、箸を持った。
「アーメン!」
一つだけ決めた。もうマモンの料理は食べない。