黒い牌 晒し中
黒い牌
温泉に行ってくる。
夫がそう言って席を立った瞬間、わたしも一緒に行こうかと迷ったが、
夫がさっさと部屋を出て行ってしまったので、言いそびれてしまった。
独りになると、家族連れを想定して作られた和室がひろく感じた。
もっと狭い部屋でいいのに。
あまり部屋が広いと落ち着かなかった。
からっぽの空間が空虚に感じる。
空虚な光景を見ると、自分の心を見ているようで厭だった。
それに窓の向こうに流れる川も厭だ。
わたしは温泉も嫌いだが、川はもっと嫌いだった。
わたしは体が温まるとすぐに鼻血が出てくるという厄介な体質の持ち主である。
だから家でも絶対風呂は一人で入った。
いくら夫とはいえ、わたしが女である以上無様に鼻血を垂れ流してる姿など見られたくなかった。
ましてや他人に見られるなど死んでも厭だ。
第一不衛生である。
だからわたしは温泉旅行など行きたくなかったのだが、
いつもわたしの我が儘を聞いてくれる夫が頭を下げて頼むと、断るのは難しかった。
結局夫に押し切られ、温泉に行くことになった。
あらかじめ夫には、温泉に入らないと宣言していた。
夫も無理強いはしないと言ってくれたので、その点気楽である。
しかし温泉旅館につくと、早くもわたしは後悔した。
〝まさか温泉旅館の前に川が流れてるなんて〟
これは予想外だった。
夫には秘密にしているが、わたしは温泉以上に川が大嫌いだった。
〝川はどんな物も流してしまう〟
家も人も、ときには死体も。
そして人の過去すらも。
川はすべて飲み込んで――。
〝そして海神の元に届ける〟
あの蛙面の厭らしい客の口癖を思い出した。
あんな男のことなど思い出したくない。
わたしの過去はすべて川に流したのだ。
あの暗い、夜よりも暗いあの川に――。
わたしはすべての過去を流したのだ。
だから今のわたしは完全なる別人である。
ふんぐるいむぐうふたぐん・るるいえ・くとるふ・なふたふたぐう
わたしは自分でも知らないうちに呪文を唱えていた。
――何故こんな呪文を。
これは過去。
わたしの過去に関するもの。
あの汚らしい売春宿の不潔な客。
女郎どもの嫌われ者である、厭らしい蛙面の客が教えてくれた呪文。
あの汚らしい売春宿を逃げ出して以来、忘れていたのに。
何故、いま思い出したんだ。
わたしは捨てたはずの過去をふり返る。
そして一つ思い出した。
〝あの黒曜石はどうしたんだろう?〟
蛙面と最後に寝た夜に貰った黒曜石。
川に捨てた物が欲しくなったら、呪文を唱え黒曜石を川に放り込むといい。
海神の使いがお前が川に捨てたものを届けてくれる。
蛙面はウトウトしていたわたしにそう囁くと、剥き出しの乳房に黒曜石を押し付けた。
その時は眠気のため、なんとも思わなかった。
適当に返事をして、枕元に黒曜石をおくと寝てしまった。
目が覚めたとき、蛙面はいなかった。
また売春宿の主人に怒られるな、と眠い目をこすりながら思った。
春をひさぐ売春婦が、客よりも先に寝て、客よりも後に起きるなど、
主人から言わせれば言語道断な行為なのだそうだ。
借金の形に女を売り買いする男に、行儀作法云々など説教されたくはないが、
売春宿において絶対の権力を握っている主人には、面と向かって逆らうことはできなかった。
しかしまあ叱られはしないだろう。精精嫌味を嫌味を言われる程度。
わたしは無愛想だが、この汚らしい売春宿の女郎のなかでは顔が整ってる方なので
わたしを贔屓にする客は多い。
売春宿の主人も、わたしが金の卵を産むかぎり多少のことは大目に見てくれる。
ただ目が覚めた以上、布団の中でモタモタしていると怒鳴られる可能性はあった。
わたしは布団を畳もうと腰を上げたとき、枕元に置いてある黒曜石に気付いた。
〝蛙面から昨日もらったヤツだ〟
わたしはその黒く光る石を手にとった。
その黒曜石は深淵のように深い黒色で、ジッと見つめている魂が吸い込まれそうになる。
黒曜石の表面にびっしりと刻まれてる気味の悪い文字も、黒曜石の美しさを損なうことはなかった。
売春宿には美しいものなど何もなかった。
春をひさぐ女達も、その身体を貪る男達も、売春宿で働くヤクザ崩れも、全員醜かった。
しかしこの黒曜石だけは美しかった。
美しいものなどそれまで見たことがなかったわたしは、その美しい黒曜石に魅入られた。
暇さえあれば、黒曜石を眺めた。
売春宿を逃げ出したときも、この黒曜石だけはカバンのなかに放り込んだ。
その後、あの石はどうしたんだっけ?
思い出せない。
売春宿から逃げ出してから、夫に拾われるまでの間、生きるのに必死だったし、
広い世間には美しいものも、楽しいことも溢れていたので、黒曜石を眺めて己を慰める必要はなかった。
そのうち黒曜石のことなどすっかり忘れてしまった。
そう、今の今まで。
わたしは自分が持ってきた旅行カバンに目をやる。
このカバンは、あの売春宿から逃げ出すときに荷物をつめたカバンであった。
〝捨てたつもりの過去が、すぐ目の前にある〟
わたしはカバン引き寄せると、普段使うことのないポケットを開いた。
蛙面から貰った黒曜石が中に入ってた。
捨てなきゃ。
過去は全部捨てなきゃ。
過去に捕まったら――。
わたしは壊れてしまう。
カバンを手に持つと、わたしはフラフラと窓にむかって歩いていく。
窓の鍵をあけ、ガラス戸を開くと、蛙の鳴き声と水の流れる音が、わたしの耳の中に満ちた。
〝あの日もそうだ〟
わたしにとって一番重い荷物を川に捨てた夜も。
わたしに抗議するかのように蛙が――。
否。
あれは違う。抗議しているのではない。
新しい眷族の誕生を祝っていたのだ。
ふんぐるいむぐうふたぐん・るるいえ・くとるふ・なふたふたぐう
わたしはいつの間にか呪文を唱えていた。
呪文を唱え終わると、わたしは過去の詰まったカバンを抱きかかえて、暗い川に身を投げた。
赤子の泣き声で意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開けると、白い天井が見えた。
わたしの腕には点滴が刺さっていた。
どうやらわたしは助かったようである。
本当なら生き残った喜びなり、生き残ってしまった後悔なりを感じなければおかしいのだろうが、
わたしの心には何もなかった。
空虚。
わたしの魂には何も残っていない。
あの身を投げた夜に、わたしは捨ててはいけない物まで捨ててしまったのだろう。
病室のドアが開いた。
見ると、夫が立っていた。
夫は泣きながら、空虚なわたしを抱きしめてくれた。
〝からっぽなら、また新しく満たせばいい〟
わたしを抱きしめている男が、空っぽなわたしを満たしてくれるだろう。
そう思ったとき、わたしはあの黒曜石のことを思い出した。
「貴方、わたしカバンを持っていなかった?」
「いや、君が発見されたとき、なにも持っていなかったよ」
わたしはまたしても、過去を川に流してしまったようだ。
〝これでいい〟
わたしには過去などいらいないのだ。
夜になり眠りにつくと、川の流れる音で目が覚めた。
驚いて窓の外を見ると、病院の駐車場が見えた。
この病院の近くに川など流れていない。
気のせいだ。
気のせいに違いない。
びちゃり。
病室のドアの向こうから、音が聞こえた。
その音はゆっくりと、そして確実に。
音が大きくなっていった。
〝過去が――。捨てたはずの過去が、わたしを捕まえにきている〟
逃げないと。
捕まったら破滅だ。
そう思うが、わたしの体は石像のように固まって動けない。
びちゃり。
これを最後に音が止まった。
いる。
わたしの病室のまえに何かがいる。
病室のドアが音もなく開いた。
体中に鱗を生やした魚人が二匹立っていた。
魚人共は白く濁ったうつろな瞳で、わたしの顔を見つめていた。
右の小柄の方の魚人の手には、川に捨てたはずの黒曜石が握られていた。
左の大柄の魚人は、わたしの捨てたはずの過去を抱きかかえていた。
それは腐っていて、長く水につかっていたせいで皮膚がブヨブヨと膨らんでいたが、
それは間違いなく、わたしがあの夜、川に投げ捨てた、赤子に違いなかった。
二匹の魚人は、わたしの方にむかってゆっくりと近づいてきた。
魚人が歩くたびに、鱗だらけの身体にへばりついた海草が落ち、床は海水で濡れた。
破滅が迫っているというのに、わたしの心には恐怖はなかった。
わたしの心はその時すでに壊れてしまった。 なんの恐怖も感じない。
心が壊れてしまえば、それはもう恐怖ではなくなるのかもしれない。
二匹の魚人はわたしの前まで来ると歩みを止めた。
魚人共は、黒曜石と、そしてぶよぶよと醜く膨らんだ赤子をわたしに手渡し去って行った。
わたしが流した過去は、川を下り、海に流れ着き、海神が拾い上げたのだ。
〝これはわたしの過去。わたしの可愛い娘〟
わたしは娘を優しく抱きかかえると、小さな声で子守唄をうたった。
見回りの看護婦が病室を覗いたとき、水元加代は腐った赤子を抱いて子守歌を口ずさんでいた。
彼女の膝元に見慣れぬ黒曜石が置いてあった。
看護婦が恐怖のあまり床にへたり込むと、腐った赤子の首はぐるりと動いた。
看護婦と腐った赤子の目が合うと、赤子は嗤いとともに大量の潮水を吐き出した。