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呪病み〜睡狂〜

作者: 黒蠱


 極寒にありて寒きを感じズ

 灼熱にありて熱きを感じズ

 虐げられても怒りを覚えズ

 非道を目して哀しみを覚えズ

 ただ一つの妄念を遂げる為に生きるのならば

 一つの方向性しか持たぬ修羅となるのならば

 ソレは沸き出でて汝の影となろう――


 然し、聴けよ罪人よ

 汝は決して眠らずに過ごすべし

 汝には睡眠など無駄でしかないのだから


 興に狂うを酔狂と云うが

 眠る暇さえ持てぬほど執念に狂うとなれば『睡狂』と云うものだ


 依って故人は曰く

 沸き出るソレをねむりぐるひと云うのだと





 雨が、降っていた。

 空は黒く、暗雲の隙間を縫って零れる光はどこまでも微弱。

 その僅かばかりの光明を頼りとし、道の向こうから男がやってくる。

 不精髭を生やした、どうにもパッとしない風貌の、窶れた男だ。痩せこけた頬と云い、不細工に纏まったざんばらと云い、真っ当な男ではない。

 到底侍には見えぬというのに、脇には二尺を越す刀を備えて。

 森の中へと続く寂れ道から世捨て人の住む隠里へと、その異形はゆらゆらと霞のように昇ってくる。

 気の所為か、くろすずのひめ、くろすずのひめと低く呟きながら――

 そのまだあどけなさの片鱗が窺える昏い面影に去来するのは、在りし日の思い人の幻やもしれぬ。


 このような寒村に何の用があるのか、男はその濡れそぼった肩入を揺らしながら、戸口の襖を敲いて回った。

 夏だというのに流れる風は冷ややかで、真昼の灼熱の中に於いては心地よい。然し、熱帯夜なら兎も角、平素の冷え冷えとした夜の静寂の直中にあっては、それもまた頬を赤く染めてゆくのみである。

 場所は本土の内でも北国に近く、夏であろうとも油断の出来ない日が幾日かある。

 否、それは或いはこの地方に限った話やも知れぬ。


 曰く――水無月の終いに水の怪に凍える夜に遭う。

 六月の最後の週、『水戻り』と呼ばれる何日ばかりか身も凍える夜があると云う。


 だからこそ、その男がこのような夜半に道を往くのは不可解だった。

 ――今日こそはその『水戻り』の週である故に。

 男は最後の戸口を叩いたが、まるで返事は返ってはこない。

 男の目的が何であるかは想像に難くない。少しばかり見れば浪人のような風貌と誰でもすぐ気付く。大方、その日限りの宿を求めてのことだろう。

 だが、『水戻り』の夜に肩入を纏った、不精髭の痩せこけた――それこそ死神のような男が戸口を敲くのである。

 訝しまれて然り。それを進んで受け入れようなどと云う気違いは、全国を探し回ったとて果たしてどれだけいると云うのか。


 結局、男は村の全ての家を回り終わった後、山の、森の奥へと続く道へと入っていった。

 何故だろうか、その先に、灯があった。

 このような山中である。ぼぅ、と不可思議に揺らめくそれは、或いは狐狸の仕業やもしれぬ。

 だが、そのような馬鹿馬鹿しき想像は、極限の状態に於いては関心の埒外である。

 男こそは、正にそのような状態にあった。

 棒になった足に叱咤をくべ、丸一日かかって上ってきた道無き道の続きを、一歩一歩踏みしめてゆく。

 ぎしりぎしりと骨が鳴る。男の脚は――健脚とは云え――丸三日歩き続けた疲れに苛まれ、そろそろ限界のようであった。

 今日こそはチャンとした場所での休養を、と男は急いているのではないか。

 否――可笑しな話である。

 休養を求めるのならばこのような山奥に来る必要などまるで皆無である。

 宿を得られずとも山中へ至るよりは、遙かに下界で野宿でもしていた方がマシだろう。

 だというのに、男は敢えてこんな人里離れた山奥に足を運ぶのだ。それ相応の理由はあろう。

 男が道をこれ程に急ぐのは、一体どれだけの重荷を背負っている為か。足はますます速く、灯の方へと進んでゆく。


 だが、半刻も上らぬ内に、足裏で肉の感触を踏みしめた。

 異質だ。

 然し、男にはそれだけで肉と解った。

 ぎょろり、と深く落ち窪んだ眼窩の内が、肉の正体を凝視する。

 それは死体だった。

 野臥らしきもの、浪人らしきもの、中には忍びらしき黒装束すら伺える。

 灯へと通ずる一本道の脇、何十という死体が積まれている。男が不意に足蹴にしたのは、その山からずり落ちた一画に過ぎなかったようだ。

 その一瞬、男の目に昏い炎が宿ったようであったのは、或いは月の悪戯かも知れぬ。

 雲に覆い尽くされた空は変らず怪しく、終局(つい)には一片の光すら届かなくなった。


 つう、と男の頬を汗が伝う。

 疲労もさることながら、緊張感で場が張り裂けそうだ。

 山を形作る遺骸共は、その悉くが袈裟切りに附されており、そして皆、棒か何かを握っていたかのように手を浅く開いていた。

 ――死を目前にした人間の眼孔は衝撃に見開かれる。

 それを見た俳人は、絵描きは、侍は――その内に昏く光る魔性の輝きを見出すのだ。

 それは男も同じと見えて、しかし男の貌は何処か寂しげでもある。すると貧相なナリが数倍増して落ち窪んで見える。

 ザワ、と空気が揺らぐ。

 辺り一面に張りつめていたそれは、風の一息により均衡を崩し、見事なおどろおどろしさを醸し出す。


「このような夜半に森に人とは――どうやら拙者にもお迎えが来たのやも知れぬ」

 ふと、声がする。

 場が乱れていたとは云え、これ程の近くに人が居ようとは――

 肩入を着た男は初めてその時、夜の闇より現れ出でた闖入者に気が付いたようだ。

 だが、その暗がりの瞳に動揺は窺えない。

「某はあやかしではあらぬ。安心なすって結構」

「では――」

 闖入者はどうやら男のようであった。

 齢は三十路辺りか、風貌は肩入の男と同様――否、それ以上に卦体な形ナリをしている。伸ばしっぱなしの髪は四方八方にバラついて、顔には幾つかの切り傷が刻まれている。まるで野生の獣のようだ。そして腰には一尺八寸程の刀が一振り。

 その獲物を見るかのような眼球が肩入の男を捉える。

「こんな辺鄙な山奥へ如何なる用事か――」

 言葉と共に件の刀を抜き放つ。その切っ先は相対する男の咽喉へと向けられた。

 それはあわやというところで静止し、野生の男の警戒心を伝導した。

 そこで肩入の男は理解した。目の前にいる野獣に等しき男の、その殺気。死体の山と化した兵共も恐らくは最期にそれを浴びて朽ちていったのだと。

「否、否――某はただ、珍奇なる煎じをする者が居ると聞き参じたまで――主殿がその業の繰り手ならば、どうか御指南願いたい」

 肩入れの男は、その痩せこけた陰鬱そうな頬を引きつらせて、にぃ、と笑った。不細工な作り笑いだった。

「某は薬屋で御座い」

「薬屋ぁ?」

 肩入の男の素性を訝しんでか、野生の男は表情を強張らせ――

「ならばその片刃は何故ぞ」

 ――二尺越えの一本を指差した。

「これは家宝で」

「何故薬屋風情が――」

「某も主殿と同じで」

 出自を偽っているとでも云うのか。

「――真逆」

 野生の男の表情が凍る。

 それは如何なる故か知る由もないが、しかし、男は刀身を振り上げて、上段に構える。

「拙者の半生を存ずると囀るか。拙者と同じ道を歩んだと宣うか――なれば拝見いたそう。汝の推し言を信ずるならば、汝は存ずる筈――拙者こそは彼の街では敵なしのやっとうの名手ぞ」

 どうしてもこの男とは争わねばならぬらしい。

 まぁ、それこそ目的でもあるのだが。

 肩入の男の嘆息が漏れる。

 それを嘲笑と受け取ったか、野生の男からは更なる殺気が放たれる。それは空気を押しのけて周囲を取り囲み、一秒足らずの間に場を制圧した。

 決戦とは、場を制した方に利がある。場合によってはそれは即そのまま勝利でもある。

 故に、それは肩入の男の敗北を意味していた。

「汝が(かばね)にならぬ内に名乗っておこう。存じておるかも知れぬが――拙者の名は又文と云う。見事、拙者を破った暁には、上の小屋に煎じ薬の指南書がある――好きにするがよい」

 そうして鏑矢が番えられた。野生の男――又文が白銀を構えなおす。

 肩入の男は少しばかり安心したのか、遊び心が芽生えたか――気のせいか、ニヤリと嗤った。

「――黒鈴の御遣い。大和黒純(くろずみ)、参りやす」

 ――鏑矢は放たれる。



 森の中、一匹の獣が刃銀を振り下ろす。

 その場に第三者がいたのならば、それは迅雷に見えたやも知れぬ。

 それ程に苛烈で、速すぎる一撃。

 風を切り、空を断ち、終局には空間すらかち割ろうと、又文の刀が宙を奔る。

 速度のみに於いて神をも凌駕せんとする一刀は、既に不可視であり、そうである以上は不可避に他ならない。

 故に、黒純には、最初から勝ち目などありはしないのだ。

 不吉な風を孕んだ魔刃が、哀れな生け贄を両断する――

「――!」

 驚愕はどちらのものだったか。

 ガギンという鋼の音が、夜の帳に響き渡る。

 確かにその速度は驚愕に値する。確かにその太刀筋は不可避だっただろう。とても人間の動体視力と反応速度では躱し切れない。縦しんばその軌道を予測し、回避出来たとしても、その後の変化がないとは言い切れない。否、あの速度である。変化する余地など何処にもない。何処にもない筈なのだが――それは、恐らく最悪手だ。故にその魔刃は不可避――


「ならば、止めてしまえばよいだけのことでサ」

 その太刀筋が迅雷ならその抜刀は奔雷か。一刹那の間に抜き放たれた業物は神の一撃に勝るとも劣らない速度で、相手のそれを弾き返した。

 神導匠沙羅二尺三寸一分「凶歪(まがひずみ)」。

 黒純の手にした黒塗りの妖刀は、正しくその名の通りに歪で凶々しく、又文の殺気を押し返す。

 五分だ。

 そう判じたのは黒純のみではないだろう。否、絶対的な自身を以て挑んだ分、又文の方が衝撃は大きかったのかも知れぬ。

「ははっ」

 又文が嗤う。

「はははははははははははは――」

 黒純は顔を伏せている。

 だが、一瞬その口の端が吊り上がったかのようだった。それは嘲笑か。

「――いや、すまぬ。今までの者は、今の太刀の段階で見極められずに散っていったものよ。だが、黒鈴の御遣いであるなら納得出来る。久方ぶりに血が沸くわ」

 男――又文の言動は、殺人の自白でしかなかった。否、この男が行ってきたのは、そのような程度の生やさしいものではない。

 実はこの又文こそは、嘗て下界を騒がせた、極刑ものの人切りである。

 その余罪は数知れず、切り捨てられた無念も数知れず――この男には殺人者よりは殺戮者の銘が相応しかろう。兎も角一級の極悪人なのだ。

「ならば、主殿は幸運で御座いましょう。妄念途絶えず果たし合いに死ぬるならば、主殿はつまりまでやっとうに果てることが出来ましょう。修羅に墜ちては血が休まることなどありますまい」

「戯れ言を――」

 途端、空気が再び静止した。

 だが、その僅かな隙を縫って、互いの殺意はそれぞれを喰らい愛おうと藻掻いている。

 拮抗した、場。

 丈の長い草の上を、雑っとどちらかの足が踏みつけた。

 如何にも野生染みたの眼孔は、おそらく又文のものである。

 ――男は挑む。

 嘗て誰にも破られたことのない。迅雷の一撃。無名の秘剣が破られたのである。

 それこそ徒に刀を振り下ろしただけと、凡夫であれば云うかも知れぬ。

 然し、極限までの踏み込みと、最速へと至る肩力を持ってして、神域に達したその刃速は、不可避にして不可防。のみならず、又文にはその先がある。先程防がれたのは、偏に又文の精進不足の為だ。本来の、浄の境地まで心を研ぎ澄ました一撃ならば、或いは防ぎに入った妖刀ごと切って捨てていた筈である。


 ――そろそろ限界かも知れぬ。

 極限の場に於いて、又文は自問する。

 剣の道とは即ち気の道であり、機の道也。場が崩壊するの一刹那。その機を捉えられずして勝期は有らず。増して命の賭博をするのであれば、集中を塵ほどでも欠く訳にはいかぬ。だが、悲しいかな。人間は生きている以上、時には勝てぬ。生きるということは死に近づくことである――そう云ったのは一体誰だったか。人間は徐々に稀薄になる。存在も、意志も、そして集中力も。

 ――否。

 又文は否定する。断固としてその事実を受け入れるわけにはいかないのだ。時に呪いに蝕まれるのならば、それこそを逆に呪い殺してみせよう。兎角、このような所で果てる訳にもいかぬのだ。

 というのにも理由がある。

 又文という男は、殺戮者ではあるのだが、そうなったのにも勿論理由と云うものがある。

 昔、齢十二程度の頃に、又文は或る約束をしたのだった。

「嗚呼、そうとも。負けるわけにはいかぬのだ」

 二十年越しの妄念を抱え、又文は挑む。

 構えは上段。

 大きく隙を残す、一撃必殺前提の壱の太刀。切り返す弐の太刀など気休めに過ぎず、それは文字通り、死の真っ只中への一歩だった。

 さぁ、受けてみよ我が半生を知る異端者よ。その執念の重みと血と汗と涙と痛み――二十年分のそれは生半可では決してあるまいぞ――!

 一歩の踏み込みは何処までも深く。最早間合いは限りないゼロへと肉薄する。

 先程の太刀が迅雷ならば、これよりの一瞬は何と形容すればいいものか。それは差詰め神鳴りか――

 ――だが。

 可笑しなこともあるものだ。

 その一撃を前にして、眼前の男は顔色一つ変えることはない。

 そして、刀身が描いた軌跡は、男をなぞることはない。

 黒純は、その一刀の軌道を読み、ふらりとそれを躱す――否、飽く迄その軌道を躱す。

 だが、恐らく知っている。その一刀、そのような生半可なものではない。

 そう。

 キラリ、と何かが目の前で光る。

 白刃だ。決して見るはずのなかった。真っ正面からの煌めきだ。


 ――軌道補修。

 この一撃が敗れたことがないのは、先も説明したとおり幾つかの要因がある。

 一つは、その速度。見えないからには躱すのは至難である。

 一つは、その踏み込みと肩力による重さ。これにより防ぎに入った刀ごと両断してのける。然し、衰えた又文の腕にそれほどの力が残っていればの話だが。

 そして一つは、高速で振り下ろされる一刀の、然し速度を緩めぬ軌道補修。これにより、魔剣は完成する。

無茶苦茶なベクトルを力任せにひん曲げて、それでいて剣筋に僅かのブレもない。

 その煌めきを見た者には、死、あるのみである。

 然し――その絶対にして不可避不可防の神の怒りの一撃は――


 ――まるで旋毛の一吹きを薙ぐかの如く、黒純の妖刀によって受け止められた。

 矢張り老衰した又文では、その剣を扱うには分不相応だったかも知れぬ。

 何が神鳴りか。何が迅雷か。そんなものは蚊の人撫でと何が違うというのか――


 これで、又文の太刀は止まった。最早どうしようもないのである。次の一瞬には黒純が翻した妖刀によって、又文の命は奪い尽くされる。

 それは、肩入の男――黒純の完全なる勝利に幕を閉じるのだろう。

「――!?」

 だが、然し愚者よ知れ。

 喩え塵芥の重みであろうと、二十もの時を重ねたそれは――既に神域の一撃なのだ。

 ガギン、と。今度は先程とは比べ者にならぬ音が響く。

 それは紛うことなく――黒純の妖刀が、叩き切られた音だった。

「カ、ハ――」

 吐血。

 草むらが赤色に染まっている。

 絵の具の量が多すぎるのは、口から出ているそれが全てではない証。


 これで二百を超しただろう。又文は内心でのみ謝罪する。

 これまで己が殺めた百九十九。それに一が加わったところで大して感慨はない。

 だが、何故だろう。その胸に去来する。何とも云えぬ虚しさは。

 更なる虚ろに近づいて、然し、又文は約束を違えてはいない。

 それは、又文が十二の頃、未だ齢が十にも満たない、あどけない少女とした、一生に一度きりの約束。

 貧しい寒村に生まれた又文は、取り立てられる側、搾取される側の弱い者であった。

 理由は、或いはただそれだけだったかも知れぬ。

 兎に角、又文はやっとうの業を極めた。来る日も来る日も、いつか頂点に立つ日を夢見て。

 少女――千代と又文は、マァ幼なじみという間柄で、三つほどの差はあるけれど、利発な千代に又文は焦がれていた。

 それは千代もまた同じであり、だが、又文はそれでも一つの道を進むことにする。最強。ただ求めるはそれだけであった。

 だから千代は一つの約束を取り付ける――又文が剣技を極め、然るべき場所にたどり着いたのならば、その時、又文は千代を伴侶に迎えにいくと。

 昏い面影を引きずって、又文は元来た道へと一歩を踏み出した。

 そろそろ最強を名乗っても、まぁ、罰はあたらぬだろう。依って、千代を迎えにいってもいいのかも知れぬ。

 しかし、又文をこの山に留まらせているのは、果たしてどうしようもない臆病さだった。

 まず、子供の頃の約束である。果たしてこれ程の時が経ってしまっても有効なものか。千代だって、とっくの昔によき伴侶を見つけているかも知れぬ。

 だとしたら、自分の何たる間抜けさよ。

 否。又文は決心する。

 喩え、約束が果たされぬとも、このままこのような異界に居て何が変るというのか。

 ああ、でも、そうなのだ。又文は決してこの山を下りられない。今までも合いにゆく決心まではつく、然し――

 殺戮者の汚名もさることながら、又文には、どうしようもない癖――否、呪いが掛かっているのであった。

 薬を煎じ、試行錯誤を繰り返すのもその為である。

「眠い。ああ、駄目だ。眠ってはいけない。薬を、薬、を――」

 そうして、その日も、又文はまた家に帰る。山の上の灯が灯った一軒家へと。

 が、どうしたことか。

 帰ろうとした足が、全く動かぬ。

 疑問に思い、振り返れば、又文の心は驚愕に凍った。

「――ぁ――ぁあ――」

 又文は、見た。

 ――居る。

 折れた刀が突き立っている――

 その向こう側。

 柄を握りしめた、幽鬼の如き男が。


 ――それは、紛れもなく大和黒純だった。

 だが、その様子は奇異で、ブツブツと何かを繰り返し呟いている。

 くろ――め――ずの――ひ――く――すず――の――

「思いの他しぶとい男よ」

 あの剣を、あれだけ深く踏み込んだ一撃必殺を受けて、この男は立ち上がったのだ。

 然し、そんなことが有り得るか?

 あの踏み込みならば肋骨すら切り裂いて、臓腑を断ち、どころか背骨すら叩き割った筈だろう。

 無論、又文にも、その手応えは感じられた。即死である。

 くろす――ずの――くろ――め――くろ――ひめ――くろすずの――め――くろすずの、ひめ――

「真逆――貴様も妄念に囚われて――」

 又文の驚愕は、一体何を根とするものか。

「あ、あ――くろすずの、ひめが――」

 その呟きは、おそらく、誰に当てたものではないだろう。

 然し、又文にはそれすらもどうでもよくなっていた。何故なら――

「ぁ――駄目だ。眠って――は――」

 ぐらり、と又文の体が揺れる。

 血走った目、野生染みた雰囲気は、つまるところ、ある習慣によりもたらされたものである。

 眠ってはいけない。

 それは、又文のような人間に与えられたルール。

 執念に取り憑かれた人間の黄金律。

 要するに、目的を遂行するのに睡眠という長いロスタイムは邪魔でしかないのである。

 だから、又文は/彼らは眠らぬ為に、自分自身の影を作る。

 己が動けなくとも代わりに躯を繰って動く別人格を。

 否、それは故意に作られるものではない。依って、それは呪いと呼ばれるのだ。

 ぐらり、と倒れた又文の体が起きあがる。

 このようになった傀儡は、目的を果たすためだけに機能する。即ち――

 全ての者に勝利(を殺戮)せよ。

 ――その病を睡狂(ねむりぐるひ)という。





 目的に従って、又文の刀が振り上げられる。

 その所作は、理性に縛せられた又文より機敏で、的確で、機械的だった。当たり前だ。今の又文は、それこそ稀代の殺戮者――殺戮機械(キラーマシーン)でしかないのだから。

 ギン、と鳴る。折れた妖刀――その半身のみで、又文の刀を弾く。受け止めたのでは先程の二の舞だ。振り下ろされる鉄の塊、狙うはその横腹――

 出血が酷い。

 全身のありとあらゆる箇所が痛い。

 だが、その箇所全てから、既に出血は止まっている。

「黒鈴之――姫」

 自らの守るべきものの名を呼ぶ。

 黒鈴之姫。某――大和黒純が守るべき、ただ唯一の人。

 だが、その姫は、恐らく今苦しんでいる。

 姫――といっても名がそうであるだけであり、身分などは恐らく皆無。然しあの娘は某にとって何より大切なもの。

 その姫が、某に或る一つの呪いを掛けた。

 否、それは病だ。

 某が受けた傷をそのまま姫が被るという病。

 但し、見返りは大きく、某の体はその傷からは逃れることが出来る。

 だから某は太刀を受ける訳にはいかなかったのだ。その筈が――何だこの体たらくは。

 姫は時に祝福されている。

 呪われた者達とは違う末路を歩むことが出来る――否、末路など姫には存在しない。どれだけの傷を受けようと、どれだけの痛みを受けようと、姫は死ぬることのない体を持っている。年をとらず、傷は治り、しかし、痛みだけが蓄積してゆく。

 痛い。

 痛い。

 痛い。痛い。痛い。

       痛い。

       痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛――

 嗚呼、姫の啜り泣きが聞こえるわ。嗚呼、姫の絶叫が聞こえるわ。嗚呼、姫の痛みが――存分に伝わるわ――!!

 背負うものは己の痛みと、姫の痛みと。全ての病んだもの達の泣き声と。

 もう二度と負けるものか。

 決して。決して。

 ブゥンと鈍い鳴き声を上げながら、又文の刀が肉薄する。弐の太刀とは云え、余分な思考がなくなった分、脅威として捉えなくてはならない。

 右腕に携えた半身で、弾く。

 だが、その勢いは殺し切れず、数歩ばかり後退する。

「又文殿――」

 初めて、その名を呼ぶ。

「貴方の妄念、貴方の病、この薬屋が治療いたしやす――!」

 ――薬屋で御座い。

 そう、某が薬屋というのは嘘ではない。

 某の薬はこのような妄念の病に犯された者の為に。

 一歩、踏み出す。

 これから某は挑む。眼前の殺戮機械に。罪にまみれた妄念の病に。

 だが、どうする――妖刀「凶歪」は二つに折れてしまった。

 神の一撃の前に、果たしてこの折れた半身のみで何が出来るというのか――

 否――否、否。

 某の前にいるのは、何ぞ。

 一発目のあの一撃。確かに迅雷の如く閃いたが、然し、某の凶歪を断ち切るほどの力はなかった。神ならば斯様な過ちは決して犯さぬ。つまり、技こそは神域に達していようと、使い手は――

 ――ただの、人だ。

 なら、打つ手は、無いわけでもない。

 そうして、刃を握りしめた。





 森の中、二匹の獣ががにらみ合っている。

 片や正体をなくしているかのように朦朧とし、

 片や襤褸襤褸になりながら殺気を放つ。

 おそらく、決着は一瞬でつくだろう。

 又文の刀が上段に構えられる。終局の一太刀こそは、件の壱の太刀。無名にして無敵。迅雷にして神速。不可避にして不可防の神の一刀。

 対するは大和黒純の駆る未だ疲労されたことのない魔剣也。

 今や、又文の一刀は完成され、次の最大の一撃であるならば、弾くことすら不可能だろう。

 退くことも出来ず、躱すことも出来ず、防ぐことも出来ず、先手を打つことも出来ぬ。

 最早、勝敗は見えたも同然である。

 だが、忘れるな。

 黒純の瞳孔のその奥に、未だ昏い炎が燃えていることを――

 場が緊迫する。

 あらゆる生命が呼吸を止めて、完全なる無音が形作られる一刹那。


 「疾っ――!」

 先に動いたのはまたも又文の方だった。

 これでは黒純は不利な戦局を益々極め、自ら勝期を捨てたようなものである。

 だが――

 黒純は、既に元居た位置にはいない。

 必殺の一撃の速度には到底適わないが、又文の踏み込みの、その速度を超えて、黒純は後方に疾走していた。

 こうなれば、又文は壱の太刀を振り下ろせない。

 敵前逃亡――それはどれだけの恥だろう。流石に又文にもその選択肢は予想出来なかったようである。

 ――然し、違う。

 又文が追う。その構えは維持したまま。

 ――違うのだ。殺戮機械よ。

 黒純が逃げる。だがその速度は徐々に衰えてゆく。

 ――その愚かさを引きずったまま。

 又文が追いついた。そして、そのまま、

 壱の太刀を振りおろす。

 ――通常。人間というのは静止した状態では動けない。壱の太刀の恐怖というのは、どこまでも精密で狙い澄まされた不可避の側面。

 ならば――果たして、加速から振り下ろされたその一撃は、その完全さを僅かに欠いていた。

 それは、それこそほんの僅かでしかなかった。誰であろうとその隙をつくことなど出来やしないし、その技は破られることはないだろう。

 だが、何にだろうと例外というものは存在するのだ。

 執念に執念を重ね、又文は狂気の技を手に入れた。要するに、又文ならば自身の技を凌駕し得る。それは妄念のなせる業。

 なれば、同じく妄念によって繋ぎ止められた黒純にも、それは可能であって然るべき――!!


 一瞬の内のターン。

 その塵ほどの隙の中に、黒純は一歩を踏み込んだ。

 直ぐさま魔刃が振り下ろされる。

 あらゆるものを叩き切る。最速にして剛力の一撃が襲い掛かる。

 黒純はそれを躱そうとしない。

 どころか片手に携えた半身を持ってしてそれを受け止めようと云う魂胆だろう。

 無駄だ。

 そんなことは分かり切っている。

 神の一撃の前に、そのような鉄くず、何の障害にもなりはしない。

 ガ。

 ガガガ、ギ。

 鉄を裂く、嫌な音が森の中に響き渡る。

 しばしの静寂の後、血の赤色が夜空の黒を染め上げた。

 無惨な腸を撒き散らして、

 膨大な無念を抱きながら、

 大和黒純は死んでいる。

 幾ら黒鈴の姫でも肉が離れるほどに両断された傷までは背負えない。

 だから、その死は絶対的だった。

 それは、


 ――壱の太刀が、止められていなかったらの話。


 黒純は右手に携えた妖刀の半身を、又文の刀に向かって付きだした。

 壱の太刀は間違いなくそれを両断していただろう。

 妖刀の、腹で受けようとしたのならば。

 勿論、弾いた訳ではない。その速度は、既に見極められる域にはなかった。

 そう、大和黒純は、妖刀を、縦に突きだしたのだった。丁度折れ目が相手の剣を受け止めるかのように。

 流石に竹割りのようには行かぬ。妖刀は中心から二つに分かれたが、神の一撃は鍔に罅を入れた辺りで静止したのだった。

 そして左手に忍ばせていた折れたもう一つの半身――刃先を取り出し、又文の心の臓に突き立てた。


 静寂の後、又文の、血の赤色が夜空の黒を染め上げた。


「合いてぇなぁ――」

 永劫にも思えた一瞬の静寂の後、草むらに仰臥した又文は静かにそう云った。

 その目はどこか遠くを見ていた。

「薬屋ってのはね、主殿――」

 肩入の男――黒純は云った。

「人を救うためにいるのでサ」

 それは、或いは、いつからか独白になっていたやも知れぬ。

 又文は心地よさそうに嗤って、動かなくなっていた。

「某の仕事は妄念に憑かれた者を殺すことでねぇ。今回の依頼主は主殿の約束をした相手――千代殿の母君で」

 だが、まだ息はあったのだろう。千代という名前にだけは辛うじて反応した。

「千代殿は、主殿のいない間に近隣の城主殿に目を付けられたそうで。で、その馬鹿殿に連れて行かれそうになった。だがねぇ、千代殿は主殿と結ばれることしか考えられないと、そう云って――そこの城主に殺められたそうで」

 既に相手がこの世に在らぬと知りもせず、決して約束を違えぬ為に修羅となった男。恐らくは、喩え生きていたとて幸せは得られぬだろう。その妄念は解き放つことこそこの薬屋の勤め。

 又文は先程、何故に斬り合いを望んだ。それは或いは、既に人生に疲れ果て、この結末を望んだ故かも知れぬ。

 ああ、ああ――と虚しい声が、宙に響く。

「拙者は、強さを求めて、強さを極めて、何をしたかったのだろうなぁ」

 又文の頬を血に混じり涙が伝う。

「そんな目的に取り憑かれたばかりに――拙者は、拙者は……」

 無念、とその口が呪いを吐き出した。

 その時だった。

 どうやら下の村の方が騒がしい。

 家が燃え、襖は破かれ、そして――住民達が斬り合っている。

 あちらこちらに血が撒き散らされ、死体が次から次へと量産されてゆく。

「ここは――睡狂の村だった。皆、強さを求めることに狂っていたのだ」

 黒純は刀を抜く。

 襤褸襤褸になっていた芥屑の妖刀は、いつの間にか元の形に戻っていた。

 神導匠沙羅二尺三寸一分「凶歪」――その妖刀たる所以はそれである。

 血を吸うことにより、破壊されたという事実すら歪め、その凶々しさを露わにする。黄泉帰る刀である。

「それでは某はここら辺で。もう一仕事ありますんで」

 そういって、黒純は元来た道を下ってゆく。

「汝――、一人で」

 死にかけた男は、呪いが解けたその口で、最後になるかも知れぬ言葉を、一言一言紡いでゆく。

「安心なすって下せぃ。主殿が仰った通り、某も妄念に憑かれたもので――少し眠れば、全てが解決いたしやす」

 木乃伊取りが木乃伊か、否、木乃伊が木乃伊取りか――又文の口が開く。

「人を救うという妄念で人を殺す者――中々楽な仕事じゃあないでサぁ」

 手に携えた凶歪――妖刀が魔性の輝きを帯びる。また血が吸えると悦んでいるのか。

「それでは、最期に、依頼がある――黒純殿」

 死に損ないの男は口を開く。

「千代を――千代を殺した男を、殺してはくれぬか――」

 それは、最強を極めた男にしては、あまりに弱々しかった。

 本当に、この男は何の為に強さを求めたのか。去来する虚しさは二人に共通していた。

「それは、出来ない相談で」

 男は薬屋である。病を持たない者は治療出来ない。

 それはただの殺人である。そこに僅かばかりの楽はない。

 否、黒純は所詮の所殺人者に過ぎない。然し、それならば大抵の侍は罪人である。戦に出たのであるなら人を狩らねば死すだけだ。

 だが、黒純はただ、人を救い得る殺人者であるだけである。

「そうか――」

 その呟きは限りなく短く、そして長かった。

「――でも」

 何かを堪えて、歯を食いしばって、黒純は云う。

「その方が、病にかかっているならば、それは某の仕事で」

 そう云うと、黒純は去っていった。

 何やら暖かい雨が幾つか、顔の上に降ってきたような気がしたが、それだけであった。

 もう、空も、森も、何もかも見えない。

 又文は、きっとこの世から断絶された狭間にいるのだ。

 もう、声も出ない。

 いざ死んでみると、無念は驚くほど沢山あった。

 生きている内には決して思い至らなかったこと。忘れてしまったこと。そして知っていながらに越えられなかったこと。

 ――ああ、千代。千代。

 最期の静寂に、思う。

 ――これでよかったのか。これでお前に会えるのだろうか。

 現世と、幽世の狭間にて、思い悩む。

 ――でも、お前は、良い娘だったからなぁ。

 流れぬ涙に心を濡らす。

 ――拙者は、殺し過ぎた。


「ならば、主殿は幸運で御座いましょう。妄念途絶えず果たし合いに死ぬるならば、主殿はつまりまでやっとうに果てることが出来ましょう。修羅に墜ちては血が休まることなどありますまい」


 男の言葉を反芻する。

 ――そうとも、拙者は飽く迄やっとうに命を捧げた修羅でしかない。ならば、

 ――修羅へと墜ちるのも道理であろう。

 幸運と云えば幸運なのか。この先に続くのも血生臭い殺し合い日々。やっとうの腕を極むならばそこは天上ぞ。

 ――だが、

 そうとも。

 ――お前は、本物の天上へいくのだろうなぁ。もう、逢えぬものかなぁ。

 そうして、又文は剣に捧げた人生を振り返った。

 剣に生き、剣を極め、剣に殺し、剣に死ぬ。

 その人生に悔いはない。ない筈なのだ。その筈が――

 ――どうも、拙者は、お前がいないと駄目みたいだなぁ、千代。

 やってくるのは際限のない後悔のみ。

 何故、己はこれほどまでに剣に狂ってしまったのか。

 例えば、変らずの農民であったとしても、貧しくとも千代と一緒であったのならば――

 そんな日々はもう二度とこない。

 二度とこないのだ。

 どれだけ抗おうと。

 どれだけ願おうと。

 愛する女と生きることも、

 幸せな生活を送ることも、

 どころか、女の仇を討つことすら出来はしまい。

 生きてさえいれば、たとえどれだけ無謀であっても、どれだけの苦渋を背負っても、仇を討つことくらいは出来たのではないか。

 ああ。

 ――そうか、だから、拙者は。

 そんな血生臭い男に、幸せなど望めるわけがなかろうに。

 ――考えれば、拙者に与えられたコウフクは、既に剣でしか有り得なくなっていたのか。

 ならば。

 ――この道も、確かに少しばかりの楽はあるかもしれんなぁ。

 泣きたくて、泣きたくて、されど涙は出ない。出る体がない。

 段々と周囲は暗くなってゆく。

 酷く、寒い。

 そうか、でも、確かに。

 ――少なくとも、もう拙者には、悩むことなど何一つないのだな。

 その思考を最期に、男――又文の世界は途切れた。

 その先に、何があったのか、生きているものは誰も知らない。





 後日、下界では、山奥にあった隠れ里が一つ消えたとか、信憑性のない噂がまことしやかに流れていた。

 肩入を着て、二尺越えの刀を携えた、薬屋の男の話は誰の耳にも入ることはない。

 だが、それは或いは聞いたものは噂を流す前に消えているというだけの話かも知れぬ。

 そして、序での話ではあるが、ある地方の城内が、少しばかり騒がしくなっているようでもある。


文学臭くライトノベルを書こう! と意気込んで、何故かこのような作品に仕上がりました。一部極めて陳腐な箇所もありますが、それは自分の愛する陳腐さですので目を瞑って頂ければ。連載としてプロットを組んだ作品でしたが、多忙の為実現は難しいということで短編扱いにさせて頂きました。

書き終わって一言。

『泥のような醜さには一寸の美学がある』と思います。

ただ残念なのは、それを具現化出来ない自身の未熟さだけです。

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