第75章:花の記憶《中編》
【SIDE:赤木椿】
影綱のもとに嫁いで、6年の歳月が経っていた。
子はできぬとも、幸せな日々を過ごせている。
影綱は若いながらも実力をつけて、優秀な武将となっていた。
父上だけでなく、皆からも一目置かれる存在。
私は妻として彼を支えていた。
身体に抱える病は悪化しても、影綱が傍にいてくれることは安心できる。
彼がいてくれれば、死は怖いものではなくなったから。
「影綱様。父上から聞いたわ。また戦になるそうね」
「そのようだ。冬が終わり、雪解けを待ち、春になれば隣国と戦う事になるだろう。今度の戦は、御館様も本腰を入れている。今までの小競り合いではなく大きな戦になるやもしれぬ」
いつもと違う戦の予感、私は影綱に抱きしめられていた。
この温もりを私は失いたくない。
「この程度の戦で命を落とさないで」
「あんずるな。椿をおいて死ぬわけにはいかないな」
「そうよ。私よりも先に死なれては困る」
私よりも先に逝くことは許さない。
貴方には私の最後を見届けて欲しいのだから。
妻として彼の傍にい続けることの幸せ。
生きる事に絶望をしていた私の最後の希望。
影綱を失えば、今の私は生きる理由を見失う。
「……生きて、帰ってきて」
私は胸に不安がよぎり、彼に身を寄せる。
「影綱様。愛しているわ」
幼き頃からの想い。
影綱を愛する気持ち。
例え、この身体が持たない日が刻一刻と近づこうとも。
私は最後まで彼だけを愛し続ける。
そう決めた。
影綱も同じ気持ちであると言う事を確信していたから。
だから、疑いもしていなかったのだ。
まさか、彼が私以外に想いを募らせる相手と巡り合う事を。
永久に私だけを愛してくれると信じていたから――。
数ヵ月後、春になり、影綱は父上と共に隣国へと戦に向かった。
私は彼の帰りを待ちわびる。
桜が散る姿は儚くて綺麗だ。
屋敷の庭に植えられた桜の花が散り始めた。
そんな頃に、私は思いもしなかった報告を受けることになる。
「う、嘘よ。そんな……!?」
「……嘘ではありません、椿姫様。影綱は戦で受けた傷がもとで戦死しました」
苦痛の表情を浮かべながら、私に説明をするのは狩野高久だ。
影綱の腹違いの弟でもある彼は、影綱と親しい友人だった。
「……“兄上”は武士として、立派な最後でありました」
淡々と説明をする彼に私は衝撃を受け、動揺する。
「影綱様が……亡くなった?嘘よ、絶対にそんなことはない」
「椿姫様。落ち着いてください」
「いやっ、ぁああ!?そんなはず、ないわ」
呆然と立ち尽くす私にかける言葉がない高久。
涙はこぼれなかった。
彼の死を受け止めきれずにいる自分がいたから。
「待って、高久。先日、隣国とは和平を結んだと聞いたわ。それはどういうことなの?影綱様を殺されたのよ?父上だって、高く評価してくれていた家臣でしょ!同盟関係なんて結ぼうとするわけが……」
そんなことが許されると思うの?
「影綱様を殺した隣国と同盟になる必要があると思うの?どうして、仇を討たないの?滅ぼしてしまえばいいじゃない!」
「……それは兄上の意思ではありません」
影綱様の意思?
「兄上はこれから先の世の変わりようを心配しておりました。強き力に立ち向かうために、国を守るために。そのための同盟関係です。己の死が同盟の妨げにならないように、そう最後に御館様に遺言を残されております」
影綱は武将として、国を、家を守るために死の寸前まで……。
「けほっ、がっ……ぁっ……」
「椿姫様っ!?」
私は大きく咳き込むと、足から床に崩れおちる。
「……ぅっ……影綱、様」
最後の希望を失った。
病に侵され、そう長く生きる事もできない身体。
絶望の淵から救ってくれた影綱が、私よりも先に逝くなんて思いもしなくて。
残されてしまった私はどうすればいいの?
死が迫りくる最後まで、恐怖におびえなければいけないの?
「お身体にさわります。部屋で休まれた方がよろしいのでは……」
「そう、するわ」
高久がいなくなった屋敷はひとりっきりだった。
もう、影綱様がここに帰ってくることはない。
「私を……ひとりにするなんて……」
許さないって言ったのに。
「影綱様……」
散りゆく桜を睨みつけながら、私は彼の名を呟く事しかできなかった。
影綱の死後から二年の月日が流れた。
赤木の家は高久が継いだので、私は家を出て、再び父上の下に身を寄せた。
最愛の夫の死。
私にとって、影綱の死は魂を引き裂かれるよりも辛い事だった。
抜け殻のように、生きる気力を失い、病も悪化する。
死を間近に感じても、それが怖いとは思わなかった。
死ねば、あの人の傍に行く事ができるのだから。
だけど、そんな私の気持ちすら、討ち砕くような噂を耳にした。
「影綱様が隣国の姫君と恋をしていた?」
「あ、あくまでもお噂です。椿姫様」
ある日、屋敷を世話する侍女たちが変な噂を話していたので、無理に聞き出した。
ひさしぶりに聞いた影綱の名前。
けれど、それは良い噂ではなかったのだ。
「噂話であり、亡き影綱様の評判をおとしめるつもりでは……」
「噂でもよい。知っている事をすべて、話せ」
私の態度を恐れる彼女達から聞き出した噂。
それは私にさらなる絶望を与える事となる。
影綱様は隣国での戦の最中に、敵国の姫を捕らえた。
そして、その姫に恋をしたというのだ。
姫の名は紫、年は一五のまだ若い女子だ。
影綱様の判断で生かされた彼女は影綱様を慕い、恋に落ち、その死を嘆いた。
今は彼の亡くなった場所に新しく神社を建立しているらしい。
「……影綱様を想い、悲しみにくれる敵国の姫がいる?」
噂は噂、実際のところはどこまでが真実かも分からない。
だが、隣国との同盟を結ぶきっかけともなった事だけに、真実味はある。
「影綱様は紫姫を好きになったの?」
私以外の誰かを愛するつもりはないと言った。
生涯、自分は側室を持たぬ、と。
それなのに、なぜ?
分からない、何も分からない。
影綱……死の間際、最後に誰を想って貴方は死んだの?
影綱は私を裏切り、よその女に恋をした。
私はそれを許せなかった。
私が子を産める健康な身体ではなかったから?
彼の本当の気持ちは……私には向いていなかったの。
何も信じられない、彼の想いも、自分の気持ちでさえも。
さらに一年の月日が流れて、私は屋敷に閉じこもるようになっていた。
「……椿、何をしておる」
「父上?ひさしぶりですね」
父上が屋敷に顔を出したのは桜の花の蕾が芽吹き始めた頃。
大名としてさらに勢いを増して、勢力を拡大しつつある。
忙しい彼が自ら私の所に足を運ぶのは稀なことだった。
「邪教に魅入られていると高久から聞いておったが、本当のようだな?」
「邪教?これはそんなものではありませんよ」
部屋に飾られた十字架の飾り。
影綱の死後、私はある異国の神を信仰していた。
神に祈れば、心の底から救われる。
裏切りも、悲しみも、すべてから解放されるのだ。
空っぽになってしまった私の心を埋めるように……。
「邪教信仰。我が娘として、そのようなものにすがるとは……」
「父上には分かりませぬ。救われたいと願う私の気持ちなど、分かるはずがありません」
「異国の邪教に救いなどない。目を覚ませ、椿。まもなく影綱の三回忌であろう」
時が流れるのは早い、あれからもう三年も経つのか。
「父上、私にはもう時が残されておりません。最後のお願いがあるのです」
「願いだと?」
「はい。影綱様の亡くなった土地に行ってみたいのです。今は大きな神社が建立されていると聞いてます。隣国とはいえ、今ならば行き来することはできるはず。私がまだ、立って動けるうちに、この目で見ておきたいのです」
私の言葉に思案する父上。
無茶な願いだとは分かっているが私にはどうしても叶えたい事だった。
やがて、彼はある決断をくだす。
「いいだろう。赤木高久を護衛につける。それでもよいな?」
「えぇ、ぜひとも。高久は影綱様の死を間近で見ていた者ですから」
「手はずは整えておこう。だが、椿、ひとつだけ言っておく」
「何でしょうか?」
父上は私をしっかりと見つめて言うのだ。
私に、言葉を刻みこむように。
「もしも、“誰か”を傷つけるような事があれば、ワシも許さぬぞ」
「……なぜ、そのようなことを?」
「邪教を信仰する者は何をするか分からん。例え、実娘だとしてもだ。何か事を起こせば覚悟はしておけ」
「邪教だと、恐れる必要はありませぬ。御心配せずとも、何も私はしませんよ。私はただ神に祈るだけ。ただ救われたいだけなのです。まもなく、私自身に訪れる死の間際まで、孤独でい続けるのはあまりにも苦痛ですから」
己の死を受け入れても、辛いものは辛い。
影綱が生きてさえいてくれれば、その寂しさは味わなかったかもしれない。
希望のなくなった私には何かにすがるしかなかった。
父上のいなくなり、私はひとりほくそ笑む。
「あははっ。やはり、神様はいるのね。私に最後の機会を与えてくださった」
乾いた笑い声だけが響く室内。
私は笑みを浮かべて胸が高鳴るのを感じていた。
「……影綱は私の大切な人だった。その彼を想い、死を嘆くのは私だけでいい。紫姫が悲しみ嘆くのは許せない」
私以外の誰も、彼を愛する事を許さない。
影綱も、また彼女に惹かれていたというのならば……。
私はその“想い”を壊す――。
「影綱を愛するのは私だけでいい。影綱……貴方が最後に誰を想って死んだの?私?それとも……紫姫?どちらなの?」
もし、彼の最後の想い人が紫姫だとしたら。
私の事など忘れ、彼女に惹かれていたのだとしたら。
「――私は“紫姫”を殺す」
影綱との想いの全てを終わらせるために――。