第70章:心の解放
【SIDE:篠原唯羽】
柊元雪の異変。
私と遊びに出かけても、どこか違和感が付きまとう。
普段の彼らしさがなかったり、妙な優しさを私に向けたり。
まるで私を恋人扱いする彼に戸惑わされている。
その異変の原因。
椿が絡んでいるのだと、薄々、気づき始めていた。
「唯羽?聞いてるのか、唯羽?」
「……ん、あぁ、柊元雪。ごめん、聞いていなかった」
「どうしたんだよ、ボーっとして」
誰のせいで考え事をしていると思ってる。
「考え事をしていただけだよ。それで、何か言ったのか」
「そろそろ、帰ろうか?って言ったんだよ。他にどこか行きたいところは?」
「いや、もういい。あまり外に出ると疲れるだけだ」
映画のあとはウインドウショッピングを適当にしていた。
それなりに楽しんではいたけども、今の彼は何を企んでいるのか分からない。
いや、何も考えていないのかもしれない。
何か目には見えない者に操られているような……。
異変に気付きながらも、何もできない事が辛い。
友達なのに。
どうして、私はこんなにも無力なんだろう。
「暗い顔をして、俺とデートは楽しくなかったか?」
「映画は盛り上がっていたし、面白かったよ。こういう風に出かける機会もなかったから、すごく新鮮ではあった」
男の子とどこかに出かける経験もほとんどない。
私にとっては初めてのデートらしいデートと言っても良い。
柊元雪の恋人はヒメだ、彼らは互いを愛し合っている。
その思いを目の前で見続けているだけに、今の行動には疑問がある。
どう考えても、彼の本意ではないと分かっていた。
私がどうするべきなのかも。
しばらくして、今の私たちが住んでいるヒメの家までたどり着く。
夕暮れ時の空の下。
私は柊元雪を助けるために賭けにでることにした。
「ここに用があるのか?」
「少し気になる事があるんだ、ついてきてくれ」
「いいよ、どこにでも」
にこやかな柊元雪。
彼を連れてきたのは神社の本殿だった。
この時間なら人もほとんどいない。
誰も近付かないように扉を閉める。
「こんな所でふたりっきりか。雰囲気としては悪くない」
「あいにくと、そんな甘い雰囲気を作る気はないよ」
「……それは残念だ。俺は……唯羽をとても気に入っているし、自分のものにしたいとさえ思っている」
今の本殿は誰もいない密室に近い。
私に近付いてくる彼の手が私の手を押さえ込む。
「本当に唯羽は無防備だね。誘ってるのかい?」
今の彼は彼であって彼ではない。
本当の柊元雪なら冗談でもそんな事を言うはずがない。
魂の色も、何も変わらないのに別人みたいだ。
それでも、彼に優しくされて、こんな風に囁かれても嫌悪はない。
むしろ、どこか心地よささえ感じていた……。
「なぁ、柊元雪……私は今日、とても楽しかったよ。普段と違った日常を味わえた」
「それはよかった。唯羽に楽しんでもらいたかったからな」
「あぁ。本当に楽しかった。まるでお前の恋人みたいで、嬉しくもあった。感情の少ない私がそう感じていたんだ」
楽しかった、と言える良い一日だった。
私にとっては、本当に……楽しい時間を体験できた。
けれども、この時間はあってはいけない時間でもあった。
私は大事なヒメを裏切るつもりはない。
そして、柊元雪もまたヒメを心の底から愛している。
「柊元雪、私はお前を信頼している。こんな私でも、ただ一人の親友だから……」
何も言わない彼はただジッと私を見つめていた。
……ごめん、柊元雪。
今の私にはこれくらいしか、お前を救う方法を思いつけなかった。
「お前が好きなのは私じゃない。ヒメだろう。目を覚ましてくれ」
「目を覚ます?何を言ってるんだ、俺は……唯羽が好きなんだ」
「……それはまやかしの感情だ。冗談でも口にしてはいけないんだよ、柊元雪。本当の自分を取り戻してくれ」
これが椿の仕業なら解除する方法も、単純なんだ。
「どうせ、すべてが終われば覚えていないだろうから、先に言っておくよ。柊元雪」
「……唯羽?」
「これは、私のファーストキスなんだ」
ゆっくりと、誰もいない本殿で私は無理やりに柊元雪の唇を奪う。
重なり合う唇に、心臓が高鳴る。
「んぅっ……ぁっ……」
どこかの童話のように王子様がお姫様にキスをすれば目が覚める。
椿がかけたのは“恋の呪い”。
特定の相手を意識し、好きになったように錯覚する。
今の柊元雪が別人のように見えるのは椿のせいだ。
ごめん、ヒメ。
柊元雪を救うためだから。
この瞬間だけは、愚かな私の行為を許してほしい。
甘い雰囲気も、ムードも何もない私のファーストキス。
ただ、心を満たす高揚感はそこにあって。
私の心には彼とのキスは忘れれない思い出として刻み込まれていた。
やがて、キスを続けていた唇を離す。
そして……柊元雪は“自我”を取り戻した。
椿の呪いが解けたんだ。
「ん……あれ?」
「目が覚めたか、柊元雪」
「唯羽?何で唯羽がここに?ここって、神社の中か?」
「何をボーっとしていたんだ、寝ぼけているのか?」
私は何も分かっていない彼の様子にホッと安堵する。
キスで目覚めるなんて単純な方法で解ける呪いだ。
けれども、呪いを解いた私の心は複雑だ。
「あれぇ、なんで俺はここにいたんだ?ここに来た覚えがないぞ。記憶が……何だか頭がぼんやりして思い出せない。何だろう。ここ数日の記憶も変だし……ハッ、まさか記憶喪失!?」
「違う、ただの夏休みボケだ。無駄に怠惰にすごすなら、朝の鍛錬も増やした方がいいかな」
「それはやめてください」
すっかりといつもの柊元雪だった。
先程の違和感のある彼じゃない。
「ボケるのはいいが、最近、ヒメがかまってくれないと拗ねていたぞ。彼女のご機嫌でも取りにいった方がいいんじゃないか」
「マジで?」
「それすら自覚がないとは夏休みボケがひどいな。心ここにあらず、大事な恋人を無視状態だったぞ」
「うぐっ。反省するよ。明日からしっかりします」
彼にとってのこの数日間はなかったことになっているはずだ。
私に向けてきていた好意も、愛の言葉も、覚えてはいない。
それでいい。
10年前と同じく何もかも、記憶から消えてしまうけども、それしか彼を救えない。
「……あのさ、唯羽。変な事を聞くけどいい?」
「変なことなら聞くな」
「そう言うなって。何だか、変な夢を見ていた気がするんだ。俺さ、唯羽と……」
「それ以上は言わなくていい。それはただの夢だよ。目が覚めたら、待っているのは現実だ」
今日のデートも、すべては彼にとって夢のようなものだ。
私だけが覚えていればいい。
「さっさと、ヒメに謝ってこい。拗ねてたからな」
「お、おぅ。そうします。ホント、夏休みって変なボケ方をするよなぁ」
彼はふに落ちない所もあるだろうが、この時間を思い出せるはずもない。
不思議そうに本殿を出ていく彼の後姿を私は目で追い続ける。
「……まったく、世話をやかせる」
独り言をつぶやきながら、静かにため息をつく。
私は先ほどまでキスをしていた自分の唇を指で撫でる。
「まったく、ホント……ここ数日の柊元雪には調子を狂わされたよ。私に優しくしたり、恋人にしか見せない笑みを見せたり。あんなのはヒメに見せる彼であって、私に見せている彼の姿じゃない。それを分かってるはずなのに」
だけど、彼に優しく微笑まれたのも、デートをリードされたのも初めてだった。
恋人気分、その行為の一つ一つにドキッとしたりして。
こんなにも心が満たされていたのは久々のことだった。
それゆえの反動、楽しい思い出を思い出すだけで胸が締め付けられて辛い。
彼は何も覚えていない、それだけなのに。
どうして、その事実にこんなにも胸が痛むのか。
「幸せな記憶を思い出すと……胸が苦しい」
思い出が楽しければ楽しいほどに、寂しさがこみ上げてくる。
幸せな記憶を思い出すたびに、辛くて仕方ない。
柊元雪にかけた椿の呪い、それは本当は“誰”に対しての“呪い”だったのか。
「うそだ、どうして私は……泣いてる?」
瞳からこぼれ落ちる涙の滴。
私は自分が泣いてる事実に動揺する。
「――私は……柊元雪の事が……好きなのか?」
この10年、失い続けてきたはずの感情。
それは恋愛感情、人に恋をすること。
私にはいつのまに、その感情を取り戻せていた――。