第64章:めばえ
【SIDE:柊元雪】
久しぶりに我が家に戻ってきた。
最近はずっと椎名家にお世話になっていたからな。
母さんから一週間に一度は戻ってこいと言われていたのだ。
だが、家に戻った俺に待っていたのは思いもよらぬ報告だった。
「は?ま、麻尋さんが妊娠した?」
「そうよ。8ヵ月後には私にとっては可愛い孫、元雪にとっては姪か甥が生まれるの」
母さんは嬉しそうに笑う。
「妊娠2ヵ月だって」
「そうなんだ。おめでたいことだけど、麻尋さんは?」
直接会ってお祝いの言葉を言おうと思ったけど、どこにもいない。
「それが、妊娠発覚してからどうにも、誠也と仲がうまくいっていないみたいなの」
「放っておけ、母さん。あ奴も現実に直視できておらんのだろう」
ソファーに寝転んで新聞を眺める親父。
先日の騒動でうざい髭がなくなり、すっきりした半面、何となく哀愁がただよう。
「現実って何だよ、親父?」
「子供ができた、ということだ。お前はまだ子供だから分からんだろうがな。子の親になる覚悟というのを誠也も身を持って体験しておるんだろう。だが、一人で悩まず、夫婦で悩むべき問題だということが分かっておらん」
「えっと、一応聞くけど……親父は麻尋さんに子供ができて嬉しいんだよな?」
「何を当たり前の事を言う。孫ができた事を喜ばない者はいないだろう。これでも喜んでおるよ。元雪もさっさと大人になって和歌ちゃんと結婚せい。そうして、和歌ちゃんに似た可愛い孫をワシらに見せろ。まぁ、あと5年は先じゃろうがな」
これからの事を考えたら、まだまだ先だっての。
あと、和歌似を名指しするな……俺に似たらどうだというのだ。
「元雪。麻尋なら、自分の部屋にいるわ。あの子と話をしてあげて」
母さんに言われて俺は一階の麻尋さんの部屋に行く。
部屋をノックすると「どうぞ~っ」と麻尋さんの明るい声が響く。
「あら、ユキ君?こっちに帰ってきてたんだ?」
「まぁね。母さんが一週間に一度は戻ってこいって言うからさ」
「あははっ。お義母さん、ユキ君が心配なんだよ」
「そういうものかな。それで、母さんから聞いたんだけど……妊娠したってホント?」
麻尋さんは外見的に特に変わった様子もない。
「うん。病院に行ってきたら本当に妊娠してたの。私も赤ちゃんできたんだ」
自分のお腹を軽く押さえながら、明るい笑みを浮かべて喜ぶ麻尋さん。
『子供を幸せにできない人が子供を産んじゃいけないの』
『早く赤ちゃんが欲しいなぁ。ねぇ、誠也さん?』
以前から子供を欲しがっていたようなので、本当に嬉しいんだろう。
「でも、よく分かったね?」
「それが、私も妊娠してるなんて思いもしてなかったんだ」
「兆候がなかったのに病院に行ってきたのか?」
「うん。この前、ユキ君が噂していた唯羽ちゃんに会ったんだ。その時に、ちょっとね」
いつのまに……唯羽と麻尋さん、人ってのはどこで接点があるか分からない。
「私、唯羽ちゃんから私の魂の色に違う色、つまり新しい色が見えるって言われたの」
「新しい色……それが子供の魂の色?」
「そうみたい。彼女は私に何かが見えたんだろうね。病院に行ってみたら、ホントに妊娠してたの。びっくりしたわ」
「魂の色にそんな見え方があるなんて驚いたな」
それ以上に驚いたのは唯羽が麻尋さんに、妊娠の事を告げた事だ。
魂の色と言えども、妊娠なんて可能性は100%じゃないはずだ。
誰かに期待をさせる事を告げるのは珍しい。
「でも、意外だ。唯羽はあまり他人に期待をさせることは言わないんだ」
他人に期待されても、失望された時の方を恐れるから。
魂の色が見える、それで彼女も過去に辛い事があったはずだ。
それゆえに、唯羽は誰かを期待をさせる事は言わない。
俺にとってはそれが意外だったんだ。
「へぇ。唯羽ちゃんのこと、ユキ君はよく分かってるんだね」
「友達だから。それなりに分かってるつもりだよ」
「そっか。……唯羽ちゃんが意識してる相手ってユキ君だったんだ?」
麻尋さんが意味深によく分からない事を言う。
「はい?俺がどうしたって?」
「ううん。何でもない。唯羽ちゃんは良い子なんだから、仲良くしてあげて」
ずいぶんと彼女は唯羽が気にいったらしい。
麻尋さんって気にいった相手にはとことん甘いからな。
「そうだ。それよりも兄貴とうまくいってないって?」
「うぅ、そんなにはっきり言うの禁止」
「……ごめん。マジで仲が悪いの?」
思っていたよりも麻尋さんに余裕がなかった。
兄貴もどうしちゃったんだ?
「違うのよ。誠也さん、子供ができたって言ったら喜んではくれたんだけど……何だか考え込んでしまって。昨日からお話をできないんだ。子供のこと、もっとお話ししたいのに。子供の名前とか……一緒に考えたいのに」
「兄貴が?心情的に何かあったのかな」
「分からない。あんな悩んだ顔をした誠也さん、初めて見たから……。あのね、ユキ君。その、こんなことを頼むのもどうかと思うんだけど、誠也さんの相談にのってあげてくれない?仲のいい弟なら本音を話してくれると思うの」
「へ?お、俺が?」
彼女は俺の手をぐっと掴んで真剣な顔をして頼み込む。
「……お願い。ユキ君。私たち、夫婦の危機を救って」
「そこまで深刻ではないような気がするけど……分かったよ。“お姉ちゃん”の頼みなら仕方ない」
「ありがと、ユキ君っ!」
妊婦に心労を増やすわけにもいくまい。
俺にとって大切な兄と姉のために。
ここは俺が何とかしてやろうではないか。
兄貴相手に真面目な話をするのは久しぶりだけどな。
「……兄貴、ここにいたのか」
俺の家からそう遠く離れていない公園。
兄貴はそのベンチに一人座って缶コーヒーを飲んでぼーっとしていた。
「ん?あぁ、元雪か。こっちに帰ってきていたんだな」
少しだけ探したけど、ここは兄貴が悩みがあるとよくいる場所でもある。
仕事で行き詰った時とか、今でも悩みがあれば訪れるのを知っていた。
俺はベンチの横の鉄棒にもたれる。
兄貴の視線には公園で遊ぶ子供たちに向けられていた。
「話は聞いたよ。麻尋さん、子供ができたんだって?」
「昨日、病院に行ってきたそうだ。唯羽さんが子供ができているかもしれない兆候を見つけたらしい。彼女はすごいな」
「唯羽も悩んで麻尋さんに話したんだと思う。ホントにできていてよかったよ」
俺の言葉に兄貴は苦笑いを浮かべていた。
「……本当に子供ができたんだな。麻尋との結婚から2年、交際から数えれば4年の付き合いがあるんだけど、あんなに喜んでいた彼女を見たのは初めてだ」
そういや、兄貴と付き合い始めたのは麻尋さんが18歳くらいの時だっけ。
親父の会社に入社して数ヵ月後、兄貴と付き合う事になって我が家に紹介された。
初めてあった頃は歳が近いお姉さんができたのを俺も喜んでたな。
「結婚2年目で初めての子供。いい流れじゃないの?」
「そうだな。結婚生活としては順調で、良い事だとは思う。麻尋は子供を欲しがっていたし、ずいぶん前から母親になりたがっていたからな。あの子の家族を望む気持ちは強いから」
麻尋さんは自分の生まれ育った環境の問題で、自分の家族を強く望んでいた。
子供の事は本当に嬉しかったんだと思う。
「僕の悩みは僕が人の親になるってことだ。子供の親になる。それを考えたら、つい考え込んでしまうんだ」
「兄貴は真面目だなぁ。俺にこんな事をいう資格はないけどさ。難しく考えすぎない方がいいんじゃない?」
「父さんにも言われた。人は生まれてきた子供をみれば、自然と親になれるものだってね。考え過ぎても仕方ないって」
俺は兄貴の横顔を見ながら言う。
「子供ができたこと……麻尋さん。幸せそうだったよ」
「あぁ、そうだな」
「人って、こんな風に世代を繋げていくんだよな。誰かを好きになって結婚して、子供が生まれて、成長を見守って……その子供がまた誰かと恋をしたりしてさ」
「どうした、元雪にしては変な事を言うな?」
俺は「変な事って言わないでくれ」と嘆いた。
俺だって、たまには真面目な話をしたりするよ。
「……兄貴、麻尋さんとよく話してみたら?今の悩みとか、いろいろとさ。それが夫婦っていうものじゃないのか。兄貴の事だから、今の時期に麻尋さんに悩みを話すと彼女の心労になると考えているんだろ?」
「そうかもしれない」
「その配慮はいいけど、麻尋さんはそんな兄貴の態度に不安になってるんだぜ。そりゃ、考えたりすることはたくさんあると思う。でも、今は……傍にいてやりなよ。麻尋さんも不安になったりするだろうし。兄貴の態度で傷つくこともある」
俺の言葉に彼は小さくため息をついた。
「……ダメだな、僕は。自分の事ばかり考えていた。そうだよな、不安なのは麻尋も同じなんだ。不安な気持ち、期待する気持ち。どちらも麻尋と話あうべきなのに」
「それを彼女も望んでる。一人で悩まず、夫婦で悩めって親父が言っていた」
兄貴はベンチから立ち上がると、空のコーヒーの缶をゴミ箱に捨てる。
「家に帰るよ。麻尋と話をする。今はすべき事はここで悩む事じゃない」
「そうしてあげて。麻尋さんも喜ぶよ」
「悪いな、元雪。面倒をかけた。するべき事を弟に教えられるなんて恥ずかしいな」
彼は苦笑いをしながら、俺に言うんだ。
「……自分の子供が生まれてくる。その事実は僕だって嬉しいんだよ」
公園ではしゃぐ子供たちを眺めて兄貴はそう言ったんだ。
いろいろと大変だろうけど、幸せな事だから今は喜んでいい。
「おめでとう、兄貴」
こうして、命は繋がっていく……。
これから先の未来へ続いていくものなんだな。