第62章:恋と愛
【SIDE:篠原唯羽】
最近、鬱陶しい事がひとつある。
「唯羽は恋をするべきよ、恋をした方がいい」
それは忌々しい椿の存在だ。
「人を驚かせるのが好きだな。……お前、どこにでも現れすぎだ」
「嫌ねぇ。人を幽霊みたいに言わないでよ?」
「似たような分際でよく言う」
私の部屋の窓を開けたら、そこに人の顔があれば誰でも驚く。
夜の涼しい風をいれようとしたら、椿がそこにいたのだ。
「よいしょっと。相変わらず、汚い部屋ね。これが女の子部屋だと思いたくない」
「うるさい。勝手に入ってくるな」
窓枠を乗り越えて椿は部屋にあがりこんでくる。
まさに神出鬼没、椿は手におえない。
「何の用だ?お前から私に会いに来るなんて……」
「……私と唯羽は表と裏、表裏一体の関係でしょ。どちらかが会いたいと思えば会えるし、会いたくないと思えば会えない」
「嘘つけ。会いたくないと願ってもお前は現れるだろう」
私はため息をつきながら目の前の椿に向き合う。
「……最近の唯羽は変わってきたね」
「どこがだ?私は変わらないよ、今も昔も何も変わらない」
感情らしい感情がない私には変わる事なんてない。
「そんなことないよ。今までの唯羽とは違う。影響を与えてるのは……元雪かな」
彼女は部屋の片隅に置いてあるぬいぐるみを手にする。
それはヒメ経由で私に渡ってきたものだ。
かまってくれないと拗ねるウサギ、通称“かまウサ”のぬいぐるみ。
柊元雪がゲームセンターで取ってきたものらしい。
「かまってくれないと拗ねるウサギのように、唯羽も元雪にかまって欲しい~っ♪」
「……部屋から出ていけ」
「あははっ。その通りでしょ?大体、元雪が紫の恋人だって言うのがムカつかない?」
「別に。彼らはそうなる運命だった。惹かれあい、恋をしたのも運命だ」
影綱と紫姫、ふたりの前世からの願いと約束でもある。
結ばれる事が運命。
誰にもその恋を邪魔することはできない。
「椿……10年前に私に失われた記憶があると言ったな」
「そうだっけ?私は自分の言った事を基本的に覚えてないからね」
「お前にこそ無責任と言う言葉をあげよう」
私は頭を抱えたくなる。
彼女に何かを聞こうとした私がバカだった。
「そんなに知りたいの?10年前に何があったのか?」
「……そうだ」
「それは誰のためなわけ?」
彼女はぬいぐるみをいじりながら私に問う。
こちらをつぶらな瞳で見つめるウサギのぬいぐるみ。
「……自分のためだ」
「はい、う・そ!嘘つきはいけないんだよ、唯羽?」
「誰も嘘なんてついてない」
「自分に嘘をついてる。本当は元雪のためなんでしょ?10年前の真実を知ってどうするの?唯羽自身が傷つく事になってもいいんだ?真実を知ることが正しいわけじゃない。真実は誰かを傷つけるかもしれないよ?」
椿はぬいぐるみを可愛がるそぶりを見せて言う。
「私自身が?」
「そうだよ。そして、唯羽は思い出せない」
「なぜ、そう言いきれる。これでも記憶力は良い方だ」
「そういう問題じゃないの。だったら、思い出してみれば?思い出せないはずだから」
柊元雪と遊んだ記憶はある。
ヒメと3人で数日間だが、とても楽しい日々を送っていた。
けれども、10年前のあの日の記憶だけは、もやがかかったように思い出せない。
「……思い出せない?」
「ほら、みなさい。私の言った通りじゃない。何を不思議そうに言うのかな。思い出せるはずがない。だって、唯羽はその記憶を自ら封印しているのだから。貴方は呪いをかけたんだ、自らにね」
「封印?呪い?何の事だ?」
私は椿に詰め寄ろうとすると彼女は立ちあがって、
「さぁ、何でしょう?答えは唯羽が恋をすれば分かるよ」
「椿、お前はなぜ私に恋をさせようとする?」
「……恋をすれば唯羽は“本物”になれるから。それが私の望みでもあるの。恋せよ乙女ってね」
微笑みを浮かべる椿は気がつけば目の前からいなくなる。
理解不能な発言はいつものことだ。
私は開けっぱなしの窓を閉めてため息をつく。
「アイツは本当に分からない事ばかり言う」
椿の存在が私の心を乱す、恋をしろなんて無理だ――。
祝詞の勉強を始めた柊元雪の指導が朝の日課だ。
「早朝からこんなボランティアをする私は何て優しいんだろう?」
「自分で言うな。感謝はしているけどな。あと、その台詞はネトゲをやめてから言ってくれ」
朝早くからネトゲをしながら、柊元雪の指導をする。
彼は覚えが早いが、それでも祝詞を覚えるのは難しい。
「ちなみに言っておくが、私は祝詞を暗記していない。詳しく聞かれても実は困る」
「そのわりには詳しいよな」
「言ったはずだ、私の父も神主をやっている。小さな頃に親の仕事を見ていたら、自然と覚えた。それだけだよ。ヒヤリング、というべきか。耳から聞いた言葉は覚えやすいだろ」
「あぁ、祝詞って歌みたいなものだからな。そういう覚え方もあるのか」
嫌でも耳が覚えてしまった。
こういうのも生まれ持った環境だろう。
何も特別な事ではない。
「読みにくいんだよな。なんて読んでいいのか、たかまのはら……?」
「難しく考えるな。歌の歌詞と同じ感覚で読んでみるといい。私に貸してみろ」
私は彼から紙を一枚奪うと、その祝詞を読み上げ始める。
「高天の原に神留まります 皇が睦 神漏岐 神漏美の命以ちて八百万の神等を 神集へに集へ給ひ議りに議り給ひて我が 皇御孫の命は 豊葦原の瑞穂の国を安国と 平らけく 領ろし召せと 言依さし奉りき」
「すげぇ。この漢字だらけの文章を良くすらすらと読めるものだ」
「漢字を漢字として読むから難しく思える。読み仮名のひらがなを読めば分かりやすい。あとはどこで区切るかだな。この大祓詞は代表的な祝詞だ。覚えておくといい」
「素人に祝詞は難しいよ。でも、唯羽の声って綺麗だから聞き惚れるよな」
私は柊元雪の言葉にドキッとする。
「な、何を言う。変な事を言うな」
「いや、褒めてるんだってば。照れてるのか?」
「どこがだ……まったく。ほら、さっさと読め」
私は彼に紙を返すと、唇を軽く尖らせる。
本当に柊元雪は調子に乗ると変な事ばかり言うんだ。
「……私の声は綺麗か。まったく、褒められるのは嫌いじゃない」
でも、なぜか彼に褒められると心の奥底が温かくなる気がした。
「……はぁ」
私はなまり気味な身体をたまには動かそうと散歩をしていた。
朝食を食べ終えてから適度な運動をする。
近所の公園までやってくると意外な人がそこにいた。
「おや、唯羽さんじゃないか」
「貴方は……誠也さん?」
「おはよう。一週間ぶりくらいかな。キミも散歩かい?」
「はい、そうです。誠也さんはこんな所まで?」
柊元雪の実家からだとここまで距離がある。
「あぁ。休日だからね、いつもよりも長い距離を散歩しているんだよ」
彼は後ろを指さすとそこには女の人と大きな犬がいた。
「ワンっ!」
「こら、ファンティーヌ。吠えちゃダメでしょう?」
「あれはセント・バーナード?」
大型犬だが、人にも懐く賢い犬だ。
ファンティーヌと言う可愛い名前が似合う小型犬ではないけども。
「あれは僕らの飼い犬だよ。この子の散歩をしている。こちらは僕の妻だ」
そう言えば、誠也さんは結婚しているんだったな。
私は会った事がない相手だ。
彼女は私に気付くと笑みを見せた。
「はじめまして、柊麻尋だよ。貴方、もしかして唯羽ちゃんでしょ?」
「え、えぇ、そうですけど」
「やっぱり、そうだ。ユキ君から話は聞いてるわ」
ユキ君と言うのは柊元雪の事らしい。
彼女は明るい笑顔がよく似合う。
「……麻尋さん、ですか」
「うんっ。あ、そうだ。私、唯羽ちゃんとお話がしてみたかったの。今、時間はある?」
「あります」
「よかったぁ。和歌ちゃんとはお話した事あるけど、前からよく話にでてくる唯羽ちゃんの事も知りたかったんだぁ」
彼女は犬のリードを誠也さんに手渡す。
「誠也さんはファンちゃんと遊んできて」
「……そうするよ。突然だとは思うが、麻尋の話相手になってくれるかい、唯羽さん」
「それはかまいませんけど、私と話なんてしてもつまらないと思います」
誠也さんは「そんな事ないさ」と言って、犬を連れて公園内を散歩し始める。
「ファンちゃんは可愛いワンちゃんでしょ?」
「えぇ、大きい犬ですけどね」
「でも、人懐っこくて可愛いんだよ」
麻尋さんとの出会いが私を変える事になるなんて――。