第51章:桜の記憶《後編》
【SIDE:紫】
私は影綱様の事を愛していた。
身も心も、魂すらも……彼に惹かれている。
けれど、私達の関係が幸せになる事を運命は許してはくれなかった。
影綱様は私に逃げろと告げて戦に出ていってしまった。
外から聞こえる戦の音に私は身を震わせて、社で大人しくしていた。
もう、周囲には誰もいない。
逃げようと思えばいつでも逃げられるけども、私は逃げずにここにいる。
影綱様が御無事に戻ってくる事を神様に祈りつづけていた。
夕刻から始まった戦も、夜になると静かになった。
「影綱様……影綱様……」
彼は無事なのだろうか。
不安が脳裏をよぎりながら、私は影綱様を待ち続ける。
突然、外で人の往来が激しくなり、この社の扉が開かれた。
「お主は……!?紫姫、ひとりか?」
「た、高久様?どうして、貴方様がここに?」
影綱様の話では既に移動して敵陣を抜け出していたはずなのに。
「ここが敵襲を受けたと聞いて戻ってきた。影綱はどこにいる?」
「影綱様は戦になって……あ、あちらに……」
私は影綱様達が向かった先を指さす。
「あちらに向かったのだな。よし、そなたはここで待っていろ。皆の者、行くぞ!」
「おーっ!」
高久様たちが戻ってきてくれたおかげで、戦況は急変する。
増援により劣勢だった戦もひとまずの終わりを迎えた。
やがて、次々と社に負傷した兵が戻ってくる。
「皆、傷や疲れもあるだろうが、手当てを終えた者から、順に下山せよ。ここは敵に囲まれているが、我らが退路を押さえている。せっかく生き残れた命だ。急げよ!」
高久様が再び社に戻ってきた。
私は焦る気持ちを抑えながら、彼に尋ねる。
「高久様。か、影綱様は……?」
「姿が見当たらない。どういうことなんだ。影綱に限って死ぬわけがないのに」
首を横に振る高久様も苦痛に表情をゆがめる。
心配されているのが見てとれる。
「……高久様。影綱様を見つけました」
「何!?どこだ!?」
「まもなく、こちらに到着されます。ですが……」
兵の一人は私達を愕然とさせる一言を囁いた。
「ですが、影綱様は深手を負っております。傷の具合は悪く、下山までは持たないかと」
「……なん、だと!?」
高久様は顔を強張らせた。
私も力が抜けたように膝から崩れ落ちる。
「う、嘘……影綱様が……?」
負傷されたと聞いて私は血の気が引く。
手先が震えて、何も考えられない。
運ばれてきた影綱様は胸を矢で射られて、血を流していた。
「ひどい怪我!?……影綱様!!」
桜の木にもたれる彼は深手を負い、今にも命が潰えそうだった。
彼は私の姿に驚いて「なぜここに?」と呟いた。
「……影綱様、しっかりしてくださいませ!」
「紫、なのか?なぜ……逃げなかった」
「逃げられるはずありません。私は……貴方様を待っておりました」
「逃げれば、無事に今までの日常に戻れたものを。だが、紫にまた会えるとはな」
私を腕に抱く彼は冷たく、私はその冷たさに胸が締め付けられる。
「……高久、来てくれたのだな」
「すまなかった。影綱達が孤立するまで、敵兵の存在に気付けなかった」
「お前のせいではない。敵の策に落ちた、それだけだ。退路は守っておるのか?」
「あぁ、包囲網は突破し、退路は確保している。だが……これでは……」
影綱様は高久様を見つめると、途切れ途切れの声で告げる。
「高久、今すぐ、隊を率いて撤退せよ。ここも長くは持つまい」
「分かっておる。既に負傷者は手当て次第に撤退させている」
「……そうか。ならば、高久に頼みがある。聞いてくれ」
影綱様は高久様の手を握り、“頼み”を語り始めた。
それはまさに彼の“遺言”なんだと私達は感じていた。
「高久よ。“紫姫”はここに置いていけ。彼女は戦の交渉に使わせてはならない」
「しかし、それでは……」
「戦乱にまぎれていなくなった、それでよいだろう。紫をこれ以上、巻き込みたくない」
「……分かった、そちらは何とかしよう」
影綱様は私の心配をしてくれていた。
こんな時でも、私を想ってくださるなんて……。
「次に御館様に伝えて欲しいことがある」
「御館様に?」
「こたびの同盟、必ずや結んでくださるようにお願いしてくれ。時代は変わったのだ。大勢を前に、隣国同士が小競り合いをしている場合ではない。俺の死が同盟の妨げにならぬように、俺が願っていたと伝えて欲しい。御館様、御家を守るためにな」
影綱様の言葉に高久様は頷いた。
同盟関係になる事を、本当に彼は望んでくれていた。
けれど、私達が敵対同士にならなくなっても、貴方様がいなければ……。
深手の彼に話す力がなくなっていくのを感じていく。
「……後は一つだけ。高久、お主の事だ。……今まで、俺を支えてくれてすまなかった。お主も“俺”を相手に支えてきたこと、思う事があったであろう。腹違いとはいえ、俺の“弟”なのだから。今まで狩野の名字を名乗らせ、辛い目にあわせたな」
影綱様と高久様が兄弟……!?
驚きを見せる私に高久は顔を俯かせた。
「影綱……今さら、何を……」
「幼馴染として、友として、初陣から常に共に戦いづけてきた。高久の支えなくして、俺はここまで生き残れなかった。本当に感謝している。俺の死後はお前が“赤木”を継げ。これから先は誰に遠慮することなく、“赤木高久”として、生きてくれ」
「そんな事を、誰も認めてもらえるはずが……」
「認めてくれるはずだ。父上も、御館様も。俺に万が一のことがあれば、赤木の名と、俺の隊はお主に引き継ぐように頼んである。おふたりとも認めてくれている」
高久様は「そんなことを」と動揺しながら、影綱様の手を握る。
「兄弟でありながら……今まで兄弟らしい事もできなかったな。だが、最後に俺は“兄”としてお主に兄らしい事をしてやりたかった。例え、母は違えども、お前は俺の弟なのだ。あとは頼むぞ、“赤木高久”。智将として、御館様を支え続けてくれ」
「……くっ、“兄上”。もっと、前から話をすればよかった」
「互いにな。だが、兄弟として話などせぬとも、我らはずっと友であった。後悔はない」
うなだれる高久様と満足げな影綱様。
このおふたりには長年にわたり、複雑な感情があったに違いない。
それでも、分かりあえていた……心の底から認め合えていたんだ。
「……高久、紫とふたりにさせてくれ。最後は、ふたりに」
彼は頷くとゆっくりと離れていく。
ふたりっきりになり、影綱様を私は抱きしめた。
溢れだした涙がこぼれてやまない。
「……影綱様……死なないでください」
「すまない。俺は……」
「嫌です、私を置いていかないでくださいっ」
彼の命のともしびが消える、それを肌で感じていたの。
「紫、俺はこの戦で初めて己の死を恐れた。武士として立派に死ぬことこそが誉れであると思っておったのに。その信念を揺らがせたのは紫なのだ」
「私が……?」
苦しそうに息を荒くしながらも私を強く抱きしめてくる。
「俺は……紫と別れる事を恐れ、死にたくはなかった。だが、願いは叶わず。うまくはいかぬものだな。されど、俺がそなたに会えた事で、俺は己の死を本当の意味で受け入れられる。ただの矜持だけではなく、生きる意味を知ったのだ」
私も同じ気持ち、貴方と出会い、こんなにも人を愛する気持ちを抱けたんだもの。
敵将と敵国の姫、想いを告げる事はしてはいけない。
それでも、悔やみたくないからこそ、私は想いを告げる。
とめどなく流れる涙、私は涙で視界をゆがませながら、
「貴方様をお慕いしております。愛しているのです」
「……紫、そなたは本当に可愛いな」
「影綱様……あっ」
彼は耳元で私に「俺も同じ気持ちだ」と囁いた。
私達はどうして、結ばれない運命にあったんだろう。
気持ちは同じなのに、立場が、戦が、私達を引き裂いた。
「……この三日、そなたと共に過ごせてよかった。このようなひと時を過ごせた事は俺の人生において、幸せだったよ」
吹く風に揺れる桜の大木、桜吹雪が舞う光景に目を奪われる。
「綺麗な月夜、桜の花が見事だ。来世と言うものがあるのなら、再び我らは巡り合いたい。また、こうして桜が見たい」
「はい……ぅぁ……私も、見たいですっ。来世も、一緒に……ぁっ……」
泣き崩れる私を影綱様は見つめている。
「生きよ、紫。生き続けてくれ。これから先、大変な時代を迎える。生き残れよ。それだけが俺の願いだ……紫……」
「……影綱様?」
「そなたに、出会えて……よかった……」
最後に私に彼は微笑みを浮かべていた。
やがて、彼の身体から力がなくなる。
ゆっくりと瞳を瞑る彼、私は何度も呼びかけるも応答はない。
「影綱様、影綱様……かげ、つな……さま……うぅ、ぁぁああ」
穏やかな表情で息を引き取った影綱様。
頬を伝う涙の滴、ただ彼の死を悲しむ事しかできなかった。
その後、高久様は影綱様のご遺言どおりに私を社に置いて去って行った。
社を攻めにきた兵たちにより、私は無事に保護されて城に戻る事ができた。
しばらく後には、私の国と影綱様の国は同盟を結ぶ運びとなった。
影綱様の想い、それは後の戦において私達を守ってくれる事になる。
私は彼の死後、あの神社を新しく建立してもらった。
彼との思い出を忘れないために。
椎名神社には何度も足を運び、今は亡き彼に思いを馳せた。
それから先、何度か縁談が舞い込んだが、私は全てを断った。
影綱様以上に誰かを愛せる事はないと思ったから。
私の心にはずっと影綱様しかいない。
あれから八年の時が経った。
冬になり、私は流行の病にかかり、体調を崩して屋敷で寝たきりの生活をしていた。
病は悪化の一途をたどり、余命いくばくもない事を日に日に感じていた。
「……紫姫様、御身体に障ります」
「いいの。雪が見たい……邪魔をしないで……」
私は従女の忠告を無視して、布団から起き上がると縁側に座る。
冬の寒さが肌を冷やす。
空からはひらひらと雪が舞っていた。
庭に降り積もる白雪を私は見つめる。
「影綱様……私も、そちらに……」
舞い落ちる雪は、あの日、影綱様と共に見上げた夜桜の花びらと同じよう見える。
まもなく、潰えるこの命、それでも不思議と私に恐怖はない。
だって、人生で誰よりも愛し続ける事の出来る人に巡り合えたんだもの。
彼の想いを抱いて死ねるのなら本望、短い人生ながらも悔いはない。
「とても綺麗です。あの夜を思い出しますね、影綱様」
私は口元に笑みを浮かべて、彼の名前を呼ぶ。
あの方が私の傍にいてくれる気がした。
「……影綱様。来世こそは必ず私と添い遂げてください。約束ですからね」
桜の花びらのような雪を見て、彼と過ごしたあの夜を思い出す。
「私も幸せでしたよ。貴方に出会い、恋をした事が……私の幸せでした、影綱様……――」
そして、瞳を瞑り、彼の微笑みを思い浮かべながら、私は薄れゆく意識の中で、充実した想いを心に抱いていた。
「……姫様?ひ、姫様!誰かっ!誰か医者を!!」
強い想いは時を超えるものだと、信じて――。
いつの日か、影綱様とめぐりあえる、その日が来る事を夢見ていた――。