第50章:月の記憶《後編》
【SIDE:赤木影綱】
幸せな時は長くは続かない。
最初から、そのようなことは分かっていた事だ。
紫を愛しく思える己の気持ち。
この刹那的な幸福感も、愛情も……夢のようなものだ。
その日、夕刻には御館様との合流が近づき、陣の撤収準備に入っていた。
俺の率いる隊のほとんどは既にこの神社から動き始めていた。
「影綱殿、撤退準備が終了しました。あと、ここに残っているのは数十人程度です」
「そうか。我らもそろそろ、ここを出よう」
俺がしんがりを務め、既に出立した本隊の指揮は高久に任せている。
こちらには紫姫とがいるために、御館様との合流を急いでもらったのだ。
「紫、そろそろ我らもここを去る。そなたも悪いがついてきてもらうぞ」
「……はい」
紫を再び縄で縛り上げるのは可哀そうだが、これも仕方のない処置だ。
本当ならば、ここに置いていきたい。
彼女を戦の交渉の道具にはしたくないのだ。
だが、捕らえてしまった敵国の姫を解放するわけにもいかない。
俺達が山を降りようとした時だった。
慌てて、こちらに兵のひとりが駆けよってくる。
「あ、赤木殿!!」
「どうした?慌ただしいな」
「て、敵兵がこちらにっ!」
「何っ?どの方向からだ!?」
俺は急いで、辺りが見渡せる方へと移動する。
山の上に立つこの神社を取り囲むように敵兵が迫りつつあった。
「敵は数百程度、こちらを囲みように四方から攻め込んできております」
「こちらの動きを読んだのか。高久たちは?」
「そちらは既に包囲を抜け出しているかと。ですが、我々は取り囲まれたようですな」
御館様との合流を目前にしてこれか。
「だが、この陣形はおかしい。こちらには姫がおるのだぞ?姫の命が惜しくはないのか。いや、違うな。これは、こちらに姫がおる事を知らぬか」
そうでなければ、このような陣形をとるはずがない。
「皆の者に伝えよ。戦の用意だ。打って出るにせよ、守るにせよ。戦になる」
「はっ!」
戦わなければ生き残ることはできない。
この戦力差ではそれも難しいかもしれないが。
「……紫、社に戻っておれ。ここは危ない」
俺は縄を刀で切り、身動きをとれるようにしてやる。
「で、ですが、影綱様は!?」
「主戦力は高久に預け、既にこの場を去っておる。この戦力で戦うしかあるまい」
残っている兵の数は少ないが“しんがり”としての役目を果たそう。
「紫よ、これが最後の時になるやもしれぬ」
「そんなっ!?」
俺の言葉に驚き、しがみついてくる彼女。
「……武士としての生きる意味。死ぬ覚悟はいつでもできている。いつ、どう死ぬか。俺はそれを初陣の時から考えていた。ここがそうなのかもしれぬな」
「影綱様。私は……貴方様を失いたくはないのです」
俺も同じだ、紫と出会い、俺は……生きて幸せな日常を紫と共に過ごしたい。
いつのまにか、そんな平和なひと時を望んでいた。
「俺は武士だ。戦って死ぬ、それこそが武士の誇りであり、矜持でもある」
「それでも、私は……ぅっ……」
涙を浮かべている紫を愛しく思う。
せめて、もう少し時があれば……いや、これこそが俺達の運命であったのかもしれない。
「影綱様、こちらに投降してもらえませんか。私が彼らとお話します、そうすれば……」
「武士として、敵に投降するなら死んだ方がましだ。そなたは逃げよ。例え我らが敗北しても、そなたの身は守れるであろう」
「……いや、嫌ですっ。私は……私はっ……!」
「辛い思いをさせたな。紫よ、そなたと出会えたことは俺にとって大いに意義のある事だった。ここは戦場になる。この機に逃げればいい。生きのびろよ、紫」
俺は社に紫を戻し、別れを告げて扉を閉める。
「影綱様!影綱さま……ぅぁっ、あぁあああ……」
嗚咽を漏らし、涙を流す紫姫の泣き声が扉の向こうから聞こえた。
「……すまない、紫。無事に生き延びてくれ。それだけが願いだ」
これで、もしも俺に何かあっても、彼女が危険にさらされることはないはずだ。
戦の用意をする皆と共に俺は敵の軍に立ち向かおうとしていた。
「どうにも、弓兵の数が足りませぬ」
「仕方あるまい。元々、我らはしんがりだ。襲われれば劣勢になるのも同然だ」
「敵方に動きあり、ふもとの方から神社へと迫りつつあります!」
俺達は覚悟を決めて戦を仕掛ける事にした。
「しかしながら、場所としてはこちらの方が有利だ、守りを固めよ。弓兵、前へ!」
「影綱殿。北側にかかる道を岩でふさぎました。これで敵の進軍も遅れましょう」
「時間稼ぎでも、一度に攻め込まれる事は防げるはずだ。我らの数は少ない、戦力を集中させよ」
俺は刀を抜き、こちらに迫りつつある敵を睨みつける。
「戦力の差は歴然……敵の軍勢を食い止めることはできぬだろう」
だからと言って、諦めるつもりもない。
「皆の者、臆するな。武士としての覚悟を決めよ!」
「はっ!」
時は夕刻、西日を背にすれば相手の視覚を奪う事もできる。
他の者達と共に、俺は敵兵達に向かう。
「――我は赤木影綱!かかってこい!」
俺にはまだ生きなければいけない。
御館様のために、守るべき者ために。
俺は戦って活路を切り開く――。
そして、勝ち目のない戦が始まった。
俺達はこちらに攻めてくる兵を次々と切り捨てていく。
「ぐわぁ!?つ、強い、奴は何者だ?」
「な、なんだと……がはぁ!?」
弓が敵兵を貫き、牽制をする中、山を登ってくる兵を討つ。
敵兵に刀で切り捨てながら、俺は叫ぶ。
「高台という地の利は我らにある、続け!」
俺はこれまで幾度も戦を経験してきた。
なのに、俺は恐れている。
戦う事に恐れなど抱いたのは初陣以来だ。
俺は何とも言えぬ恐怖を抱いていた。
……自らが死ぬかもしれないことに。
武士として戦い死ぬのは誇りだ、そこに恐怖はない。
ならば、なぜ……俺は死ぬのが怖い?
分からない、この気持ちは何だ……俺は何に怯えてる。
刀と刀が交錯しあいながら、斬り合う。
『……影綱様、私は貴方を失いたくはないのです』
紫の言葉を思い出した。
そうか……俺が恐れているのは、死して彼女にもう会えなくなる事か。
死ぬことに恐れなどなかった俺が、紫と会えなくなるから死を恐れるだと?
傑作だな、敵国の姫を愛し、今まで自らが抱いてきた信念も揺らぐとは……。
「――まったく、人を愛すると言うのは命がけだなっ!」
何としても生き残ろう、紫にもう一度、会うために――。
「ぐあぁ!」
「遅いっ。その程度では俺の首は取れぬぞ!」
何人も斬り倒しても、きりはない。
こちらは劣勢、数の勢いで押し切られれば敗北は必至。
「赤木殿、このままでは……」
「臆するな、まだだ。ここで耐えよ。今、引けば囲まれるだけだ」
今ならば、まだ辛いが耐えられる。
山の傾斜が敵の進軍を遅らせ、こちらに立ち向かう相手はそれほど数が多くない。
刀を振り回しながら、俺は呟いた。
「高久、お前がいてくれれば、この劣勢をどうにかできたかもしれぬな」
常に策を考えるのは頭のいい高久の役目であった。
智将として俺を支え続けてくれた事を今になって自覚する。
「愛する者のために死を恐れ、今さらながら友の力を自覚する。死に際って言うのは、生きる事を改めて考えさせられるな」
未だかつて、こんな風に考えながら戦をしたのは初めてだ。
目の前に死を意識しているゆえに、か。
「……ふぅ、余計な事を考えるな。今は敵にだけ集中しろ」
俺は自分に言い聞かせて、刀を握り締める。
その時だった。
「――がぁっ」
俺に敵兵の打ち放たれた弓矢が右肩に突き刺さる。
「影綱様!?」
「くっ、ぅっ……かすり傷だ、まだ戦える」
俺は弓矢が抜きさると、血が溢れながらも敵に向かいあう。
痛みは麻痺しているようで、腕はまだ動く、やれるはずだ。
俺はまだ死ぬわけにはいかない。
敵兵を切り捨て、前へと進み続ける。
「こんな所では死ねない!」
生きる事を切望する。
己を生かすために他者を殺す、これが戦だ。
俺は今、“生きるための戦い”をしている。
「――うぉおおお!」
俺は雄叫びをあげながら、敵兵へのいる方へと突撃して行った。
どれほどの時が経ったのだろうか、いつしか夜になっていた。
そして、俺は己の命が潰える最後の時を迎えていた。
何とか劣勢をはねのけた我らの軍は、社の方へと戻っていく。
「影綱殿、敵は一時後退しました。こちらも負傷者はいますが、まだ戦えます」
「……そうか、増援がきてくれた上に夜になったからな。一度、引いても奴らは数がある。いずれ攻めてくるだろう。その前に……ぐぅっ……夜戦の体制を整えて……」
「傷が深いのです、無理はなさらないでくだされ」
負傷した俺は身体を何人かに支えられながら山道を登っていた。
血で染まる自分の胸を押さえる。
胸に突き刺さった弓はまだそのまだ。
山道を登りきると、陣を張っていた社が見えてくる。
「着きました、影綱殿。すぐに手当てをします」
俺は社の近くにある桜の巨木の下に座り、鎧を脱ぎ棄て、弓矢を引きぬく。
手当てをされるが、傷も深くひどい。
誰が見ても致命傷だった、もう長くは持たない。
「俺は……死ぬのか」
夜になり、不気味なほどの静けさが山を支配する。
負傷や疲労が見える兵達も数は減ったが、半数以上は残っている。
皆、よく戦ってくれた。
この劣勢を戦い抜いた彼らを将として生かしてやりたい。
「……くっ」
痛みに耐えながら、桜を背にしていると、花が舞うのがよく見える。
花が散るように、俺もここで命を散らせる。
「せめて、最後の時は……」
俺は桜の花を手で受け止めながら呟く。
「紫の顔をもう一度、見たい」
それは叶わぬ夢だろう、そう思っていた。
……だが、俺は夢を、見ているらしい。
「か、影綱様っ、影綱様!!」
俺に駆けよってくる紫の声に俺は顔をあげる。
薄れゆく意識の中で、俺が見たのは……。
「影綱、さまぁ……死なないでくださいっ……」
月に照らされ、大粒の涙を瞳から流し、嗚咽を漏らす女子の姿。
あの紫が俺を抱きしめて泣いてる。
「……紫……なのか……?」
俺は死に際に都合のいい夢でも見ているのだろうか。
会いたいと思っていた紫に、また再び会えたのだから。