第107章:桜が見た愛《後編》
【SIDE:赤木影綱】
紫姫を捕らえて一夜が経った。
本営に異変もなく平穏な時を過ごす。
「明日の夕刻には御館様達との合流を果たせるな」
「……紫姫の処遇も考えねばならん」
「高久に言われるまでもない。彼女の事は考えておる」
昨夜は紫姫と話す時間をとった。
最初のおびえもなくなり、笑みを見せてくれていた。
「紫姫は影綱には心を許しておるようだな」
「紫も心細く寂しいのだろう」
「呼び捨てにするほど、か。親しくなるのは構わないが、別れが辛くなるだけではないか。彼女は敵国の姫だと言うことを忘れるでないぞ。お前には椿姫様がおるのだからな」
高久に忠告されるが、俺の心は既に紫に向いていた。
彼女と過ごす時間は楽しく、心地よく、心が満たされる。
いつしか、椿のことを考える現実逃避に俺は紫にのめり込みつつあった。
「そうだ、影綱。今宵は満月、兵の皆に酒をふるまい、花見をさせたいと思うのだが、どうだろうか?どうせ、明日は合流。それまでの最後の息抜きをさせてやりたい。御館様との合流がなれば、すぐさま、また城攻めになるだろうからな」
「高久らしいな。普段は堅苦しいほど生真面目なくせに、そういう所もある。いいだろう、皆にも休息を楽しむように伝えよ」
隊の雰囲気を良くし、戦に備えるのも必要なことだ。
人情もある高久らしい提案に俺も賛同したのだった。
夜になり、青白い月が闇を照らす。
俺は紫と共に夜桜を眺めていた。
月明かりに照らされて、夜の桜は見事なものだ。
社の縁側に座り、ふたりして寄り添いながら桜を見つめていた。
「影綱様、どうぞ」
「あぁ。いい花見になりそうだな」
紫に酒を注いでもらい酒を飲む。
本当ならば、このような落ち着いた時を過ごせる立場ではない。
だが、俺は紫とのひと時の幸せを感じていたかった。
そして、何より、紫も俺を慕い、同じ気持ちでいてくれるのだ。
「影綱様。貴方に聞いてもいいでしょうか?どうして、人は戦をするのでしょう」
「なぜ?不思議な事を聞くな」
「私は戦が嫌いです。人が争い、血を流し合い、そして死ぬ。平穏な日々を暮らしたいと皆は思っていないのでしょうか?」
紫の想いは正しくもあり、理想でしかない。
「……姫様らしい考えだな。それが悪いとは言わないが。利私欲のため、矜持のため、出世のため、戦う理由は皆違うだろう。我らは御家のために戦っておる。大事な国を、そこに住む民達を守る。俺はそのために戦をしている」
戦うことに疑問を抱いた事などない。
俺は御館様のために、椿姫のために命をかけて戦い続けている。
「……戦いのない日はおとずれるのでしょうか?」
「その問いに答えるのは難しいな。俺にはこの世から戦がなくなるとは思えない。もちろん、そのような日々が来るのを紫と同じように望んではいる。そのためにも戦は必要になろう。戦を終わらせるための戦がな」
現実はそれほど甘くはない。
戦のない世など、果たして俺の生きている間に来るかどうか。
「いつか、誰も悲しむことのない世がくればいいのに」
紫が俺の肩にもたれかかってくる。
その小柄な身体を抱きしめる。
「紫は優しいのだな」
「そうなのでしょうか。私よりも影綱様の方がお優しいと思います」
「俺が?俺は優しくなどないさ」
「そんなことありませんよ。私を生かし、大切にしてくれています。だから、私は影綱様に……」
彼女が甘えるような仕草を見せる。
「……桜が綺麗です。私は桜が好きなんです」
花びらが風に乗り、舞い散る様を紫は眺めていた。
桜が好き、という言葉に俺は椿を思い出す。
『私は影綱様と桜が見たいのよ』
……今は椿の事を忘れていたい。
彼女の事が脳裏によぎるだけで、あの悲痛な表情を思い出す。
生きると言うことを、命が限りあると言うことを。
椿は俺に日々、突きつけさせる存在だ。
愛しくても、それと同じくらいに辛さを与える。
「……影綱様?どうなされました?」
「いや、何でもない。桜と紫に見惚れていた」
「そ、それは……ぅっ……」
顔を赤らめ、嬉しそうに微笑む彼女。
椿と違い、紫の傍にいると心が満たされていく。
辛さも悲しみも、苦しみも忘れて。
ただ、幸福だけを味わうことができる。
最低だな、俺は……。
椿を愛しているくせに他の女子を求めてしまう心の弱さ。
心の隙に入りこみ、俺の心を支配する紫という愛しき存在。
どうして、我らはもっと前からめぐりあえなかったのか。
いや、この考えは考えるだけ無駄か。
我らは敵国の将と敵国の姫同士、例え、出会う時間が違おうが、結ばれる運命にはない。
ならばこそ、このわずかとも言える時間は大事にしたい。
「影綱様。今宵だけでいいのです。貴方と同じ夢を見させてください」
紫もまた同じ気持ちを抱いていた。
一夜でもいい、この想いに身をゆだねあう。
唇を触れ合わせ、互いに心を、身体を求めあう。
「んぅっ……」
椿姫を裏切るような事はせぬと思っていた。
他に好きになるような相手などめぐりあうこともない。
それなのに、紫を愛してしまう心が芽生えた今は自分を抑えきれなかった。
朝になり、目が覚めた俺は隣で眠る紫の寝顔を見た。
「可愛らしいな、紫」
無垢な寝顔に俺も口元を緩ませる。
愛しき者の髪を撫で、起こさぬように立ち上がる。
まだ空は太陽が昇り始めたばかり、薄明るくなった頃合いだ。
「……朝か。紫と共にいれるのも残りわずかだな」
夕刻には御館様との合流も果たせよう。
そして、その時に紫をどうするのか、その処遇も決まる。
御館様は敵国の姫である紫の命を奪うような事はしまい。
和平を考えておられるのなら、和平をより有利な立場にするために利用されるはず。
そう信じたいものだ。
「……桜の花、か。椿が見たがっておったな」
俺は桜の木に触れる。
この木はこれから先も、移り変わる時代を見つめ続けるのだろう。
「俺はこれから先、誰を想い、生きていくのだろうか」
俺は桜にそう告げたのだった。
答えは既に出ていた、俺の視界には眠る紫の姿があったのだから……。