1~少年の事情~
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先に出会ったのは少年、名前は梅岡世良。車の衝突事故による被害で夜中この病院に運ばれてきた。
世良の体の傷は酷く、全身複雑骨折、右腕の神経麻痺、その上右目には、視力に影響するかも知れないほどの大きな傷を負っていた。
その日、ベテランの先生が殆ど帰ってしまっていたため、代理として俺は世良の手術に助手として立ち会うことになった。
その当時まだ世良は五歳にもなっていなかった。正直手術が成功するかは五分五分。
一時間半という長時間の手術の末に世良は一命を取り留めた。
「せんせいありがとう」
俺と手術を担当したベテラン先生に世良は言う。
「早くみんな来ないかな。ママとパパとお姉ちゃんよろこぶよ」
世良は笑う。
しかし、世良の無事を喜んでくれる家族は既にこの世には居なかった――――
事故で世良を残して後の三人は死んでしまった。
即死だったそうだ。
数日後病室を訪れると、世良の顔からは表情が消えていた。
俺は毎日世良の病室に通った。
世良の担当医になったのもあるが、このままほっておいたら消えてしまうような気がして、心が死んでしまうと思ったから。
世良は毎日窓の外を眺めていた。何も面白いことなど無いのに、毎日毎日、眺めている。
その間も世良の表情に変化は見られない。
自分がもどかしくなる。医者のくせに目の前のこの幼い少年さえ助けられないなんて、なんて自分は無力なんだと。
「相模先生。梅岡君どうですか」
俺にそう聞いてきたのは俺よりもずっと先輩の看護師、笹川紀子さん五十六歳。ややふっくらとした体形の女性だ。
「何も変わりませんね。毎日毎日、何が面白いのか窓の外をずっと眺めているだけです」
「そうですか。心配ですね。このままだと傷の回復よりも先に心が折れてしまう」
「はい。治そうと思う気持ちがないと傷の治りも遅くなりますからね。それにこのところ食事も余り食べていませんし」
食事の方など見ようともせず、ずっと窓の外を眺めているのだ。
このままでは非常に不味いのだが、患者本人のやる気がないとどうにもならない。
「私達の方でも頑張ってみますので、相模先生もお願いします」
「分かりました」
そうは言ったものの俺には、どうしたら世良が表情を取り戻す事が出来るのかさっぱり分からないのだった。なにしろ俺は、世良が何を好きで、何が嫌いなのかさえ知らないのだから。
そのまま俺が何もできないまま、日に日に弱っていく幼い子供を見ているだけだった。
今日も世良は窓の外を眺めている。
入院前よりも随分と痩せてしまった手足。青白く扱けてしまった顔。今も光を取り戻さない目。それらを見ているうちに俺は耐え切れなくなって、聞いてしまった。
「一体君はなにを見てるんだ」
そよそよと開いた窓から入る風にうたれながらも世良は動かなかった。
答えを待ち続けていると、細く色あせてきている唇を開いた。
「空を見てるんだよ」
空を、と繰り返す。
視線はまだ窓の外に向いている。
「ぼくのパパは絵描きだったんだ」
独り言のように呟く。
「ぼくはまだ小さいからパパがかく絵はよく分からなかったけど、空の絵だけは好きだった。とってもきれいだったんだよ」
その言葉の節々に僅かに感情が見られた。
「おうちにいっぱいあるけど、今のぼくじゃ取ってこられない。だから、代わりにこの空を見てたんだ」
「俺が取って来てあげようか」
「えっ。ほんとう?」
がばっと振り向いた世良は微かに目を見開いていた。久しぶりの表情らしい表情。
「いや。家の鍵とか持ってないからどうやって入るのかとか考えてないんだけどね」
「鍵ならぼくが持ってるよ。ママはお仕事してたし、パパは絵をかきによくどっかに行っちゃうから、ぼく用の鍵をもらったんだ。今もちゃんと首に下げてるよ」
ほら、と世良は鍵を俺に見せる。そのままその鍵を俺に渡してきた。俺はその鍵をしっかりと握った。
「分かった。いっぱいは持って帰ってこられないけど一枚だけなら持って帰って来られるよ」
「じゃあ。空と花畑の絵を持ってきて。パパとママとお姉ちゃんで行ったお花畑の絵」
分かったよと世良の頭を撫でる。
「じゃあ今から行ってくるから、他の先生には上手く言っといてくれ」
「わかった。いってらっしゃい」
俺は世良の病室を出ると、なるべく他の先生に見つからないように、急いで車に向かった。