〈3A・0・1〉 リルケの詩集『ドゥイノの悲歌』
天才詩人であったリルケは、人間(とくに男性)の本質をよく見抜いていた。少し長くなるが、リルケの代表作のひとつである『ドゥイノの悲歌』(ライナー・マリア・リルケ著/手塚 富雄訳(岩波文庫))から引用してみよう。
「第三の悲歌」と「第六の悲歌」から抜粋する。タイトルの( )内は、何について述べているかわかりやすくするために、著者が追記した。リルケが何を伝えたかったのかニュアンスだけでも感じ取っていただければうれしい。
『ドゥイノの悲歌』 「第三の悲歌」 (血の記憶)
愛するものを歌うはよい。しかしああ、あの底ふかくかくれ棲む
罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別なことだ。
恋する乙女が遥かから見分ける愛しいもの、あの若者みずからは、
その悦楽の王について何を知ろう。しかもこの暴主は、しばしばその孤独な若人の 内側から、
乙女がこの愛する者を和らげうる前に、ときとしては彼女さえ存在せぬように、
ああ、いかに奇怪なものをしたたらしながらその巨大な頭をもたげたことだろう、
夜を呼び起こして果てしない擾乱へと駆り立てながら。
おお、血の河神、怖ろしいその大戟、
おお、ねじくれた法螺貝を吹きどよもす胸底からの暗い息吹よ。
【説明】
血の河神 性(と破壊、攻撃)の象徴。世代から世代へ流れ続ける血を支配する根源的な威力である。ここでは、その性の象徴を、ギリシャ神話の海神ネプチューンの姿に見立て、あの三叉の大戟を持たしている。
それとはまったく別なこと 性に駆られていることが、愛する人を歌うことにはならない。
この暴主 躁状態の中で吹き荒れる激しく強い衝動。性衝動、破壊衝動、攻撃衝動。
朝風に似て歩みもかろくすがしい乙女よ、おんみの出現が
かれをかほどまでに激動さしたと、おんみはまことに信ずるのか。
まことにおんみによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからのつよい 襲いが
その感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。
かれを揺すぶれ、目覚ませよ……しかもおんみはかれを暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできないのだ。
たしかに、かれは脱出しようと欲している。重圧の鎖を切って
おんみのなつかしい心に身をよせ、そこを隠れ処として、かれは自己をとりもどし 自己をはじめる。
だが、かつてかれが自己をはじめたことがあるだろうか。
【説明】
古くからのつよい襲い 血のなかの河神的なもの。その由来は太古的なものである。
自己をはじめる 衝動等に支配されない真の自己のあり方を開始する。
眠りつつあるかれの内部には、なんの見張りもなかった。眠りつつ、
しかも夢におそわれ しかも熱にうなされる。怖ろしいものらとかかりあう。
新参の者としてためらいながら巻きこまれてゆく、
いよいよ延びはびこる心象の蔓草ともつれあいからみあって、
早くも奇異なさまざまの生の図柄が、呼吸もふさがるほどの繁茂が、野獣のような
疾駆の形姿が、そこに現出する。いかにかれはそれに身をゆだねたことか。 愛したことか。
愛したのだかれは、おのが内部を、おのが内部の荒野を、
その鬱林を。そこには崩れ落ちた声なき岩塊が磊々(らいらい)としてよこたわり、
かれの心の若木は、その亀裂からうす緑して頭をのぞかしてふるえているだけだった。愛したのだ、この風景を。しかもそこからかれはさらに進んだ、
おのれ自身の根に沿い、さらにそれを突き抜けて
かれ自身の小さい生誕を遠く越えた強力な起原の場にはいる。愛しながら、
かれはこのより古い血のなかへ、峡谷の底へ向った。
そこにはあの怖ろしい怪獣が、われわれの祖たちの血に飽きてよこたわっている、
そして、そこに棲む
ものすごいものすべては、すでにかれ、この若者を知っていて、目くばせした、
かれの気持はとうによく知っているとでも言うように。
いや、怪獣は微笑をすら送ったのだ……母よ、
あなたでさえこれほど甘やかな微笑をみせたことはなかった。どうして
かれはその怪獣を愛せずにいられたでしょう、それがかれにむかってほほえみかけた以上は。あなたへの愛に先き立って
かれはそれを愛したのでした。なぜならあなたがかれを身ごもっていたときから、
その怪獣は、胎児のかれを浮かべている液体にすでに溶けこんでいたのですから。
見よ、われわれは野の花のように、たった一年のいのちから
愛するのではない、われわれが愛するときわれわれの肢体には
記憶もとどかぬ太古からの樹液がみなぎりのぼるのだ。おお乙女よ、
このことなのだ、愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つのもの、
やがて生まれ出ずべきただ一つの存在ではなくて、
沸騰ちかえる無数のものであったのだ。それはたったひとりの子供ではなく、
崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底にひそむ
父たちなのだ、過去の母たちの
河床の跡なのだ。 雲におおわれた宿命、
または晴れた宿命の空のもとに
音もなくひろがる全風景なのだ。このことが、乙女よ、おんみへの愛より前にあったのだ。
【説明】
新参の者 幼い者は、河神とのかかわり合い、性のことには新参者であるが、一足一足その中へ巻きこまれて行く。
延びはびこる心象の蔓草…… 以下すべて性に目ざめた内面の形象化である。
愛したのだ…… かれはむしろこの性の世界を喜び迎えて愛したのである。
かれの心の若木は…… すさまじい光景のなかに、かれの心、つまり純粋な心情の芽生えは、まったく押しひしがれてしまったわけではないが、わずかにうす緑に生い立つだけである。
起源の場 個人の生誕を越え、種属、もしくは生命一般の生起の根源のエネルギーの住む場。つまりは深い性の谷である。
あの怖ろしい怪獣 この怪獣は、前出の河神と同一物と見られよう。もっとも、ここは地下的に捉えられた起源の場であるから、内容は同じでも、外観の違う別の存在とも見られる。それほど論理的に言っているわけでもない。
胎児のかれを浮かべている…… この怪獣との関係は、胎内にいた時からだ。
たった一年のいのちから愛するのではない 本悲歌の「愛する」という言葉は、その意味の根底においては「存在する」と同じだと、クロイツは言っている。元来、リルケにおける「愛する」はそうなのであるが、この箇所などでは、それが言葉の上でもあてはまる。
雲におおわれた宿命、または晴れた宿命…… 雲があると晴れているとにかかわりなく、性の全風景は宿命的なもの、すなわち生きとし生けるものがそこから逃れることのできないものである。動物のように善悪の彼岸に立てば、「晴れた宿命」という景観があるかもしれない。
そしておんみも、みずからは知らぬまに、おんみを愛する若者の内部に、
太古をいざない揺り起こしたのだ。すでにこの世を去った
人々の感情がどんなに激しくほとばしり出たことだろう。おお、先の世の
女たちの、おんみへの嫉妬。過去の男らの
暗鬱な情熱が、おんみを愛する若人の血管のうちに燃えさかる。死んだ子らさえ
目をさましてまたもおんみのうちにやどろうとする……おお、ひそやかに、ひそやかに
昏迷の若人にやさしくおんみのさまをしめせ、おんみのたのもしい日々の仕事の
いそしみを。
園ちかくかれをみちびけ、暗黒の夜々の重みに
打ち克つ力をかれにあたえよ……
ひきとめよ、かれを……
【説明】
太古をいざない揺り起こした…… 以下、個人の愛に、人類の過去の情熱のすべてが再現するさまを言う。少女にたいする愛においてさえそうである。女が女にたいする嫉妬、男が男にたいする恨み、すべてが再現する。過去において充分な生の機会を与えられなかった死んだ子らさえ、この際ふたたび胎内にやどろうとする。
ひそやかに、ひそやかに…… 今まで、生と性との苛烈なさまを述べ、少女さえ、自分では知らずにそれを誘発することを言った。その少女にたいし、つつましく、ひそやかではあるが、そのやさしさ、日々の着実ないそしみによって、男性をひきとめてくれ、との願いを発する。「ひそやかに、ひそやかに」という語のひびきに、今まで述べられてきた苛烈さにたいして、それがどんなにかよわいものであるかを、詩人は充分承知していて、しかもこの願いを言う切なさが感じられると思う。「日々の仕事」の「日」は次行の「暗黒の夜々」に対立する概念でもある。混沌にたいする秩序である。
第三の悲歌
【解析】
これは、太古からの血の記憶のことを述べた内容である。リルケは自分自身の個人的体験から超主観的に、男性たちのなかに脈々と流れている血の記憶について述べている。しかしながら、ここでの記述の主旨について考えると、形は異なるものの女性たちの中にも同様のものが存在することは直観的に把握できるだろう。
『ドゥイノの悲歌』 「第六の悲歌」 (英 雄)
いちじくの樹よ、すでに久しい以前からおんみはわたしに意味深いのだ、
いかにおんみは花期をほとんど飛び越えて、
遅疑することなく決意した果実のなかへ、
世の声高い賞賛もうけず、おんみの清純な秘密を凝集することか。
……しかしわれらは遅滞する、
ああ、われらには花咲くことが栄光なのだ、そしてやっと最後に期を逸し
意図に反してとぼしい果実の内部に入りこむ。
しかと足を踏みしめて、みなぎる心情が熾烈な火花を発するほどに
強い行為のうながしに充たされる者はきわめて稀だ。
おそらくそれは英雄たちと、うら若くして彼方へ行くべく定められた者たちだけだ。
死という名の園丁は、その人たちの血管をわれらのそれとは別様にたわめているのだ。
それらの人々はかなたへと突進する、自分自身のほほえみに
先駆して。ちょうどカルナークの優雅な浮き彫りの絵にある一連の駿馬が
凱旋の王に先駆しているように。
【説明】
花期をほとんど飛び越えて いちじくの樹は、花が人目につかず、実をつける。それを花期にみれんをもたないで結実へ向って決意したというのである。
清純な秘密 人に知られぬ純粋で固有な存在の使命
意図に反してとぼしい果実の内部に…… 自分が結実しようと思ってではなく、運命に裏切られた感じをもって結実する。常凡の死をとげること。
死という名の園丁 いちじくの連想で園丁と言う。ここの死は、死して大きい生を獲得するというような、高い意味における死。そういう死を思うことが真実の生を育てるのである。それによって英雄たちの血管の出来が違う(生きる態度が違う)。
ほほえみに先駆して…… まず行為があり、次に自己の存在を完成したというほほえみが来る。
カルナーク 上部エジプト、ナイル河畔。ルクソール近傍の村。リルケは1911年、同所とその寺院を訪れている。
英雄は、早世した人々にふしぎなほど近似している。持続は
かれの心を誘わない。かれには上昇が存在なのだ。たえまなく
かれは自己を拉し去って、われわれがつねに見ているのとは異なる
不断の危難の星座のなかに踏み入る。そこに列なったかれを見分けることのできる
ものはほとんどいない。しかし
われわれ常凡のものについては暗鬱に緘黙をつづけている運命は、にわかに霊感の
ひびきを発して
かれを歌い、かれの世界の疾風怒濤に讃歌を添える。
聞け、たぐいないかれの雄たけびを。たちまちその声は闇に遠ざかり、
流れる風とともにわたしの身うちをつらぬくのだ。
そのとき、どんなにわたしは高まるあこがれから逃れ出ようとすることか、おお、
いまもこの身が少年なら、少年に帰れるなら。
未来をはらむ両腕に頭をささえ、サムソンの物語を読むことができるなら。
初めはうまずめであったその母親がやがて一切にひとしいあの英雄を生んだ物語を。
【説明】
上昇 たとえば噴水がほとばしり、樹が実をつけるなど、存在の使命を成就すること。それはよどむことの反対で、つねに高まっているのである。英雄のそれは、ほとんどつねに死と結ぶ。
不断の危難の星座…… たえざる危険の連続が、英雄の生活原理(生活秩序)でもあり、栄光でもある。しかし凡人は、そのあり方を解しえない。
運命は…… 運命はわれら常凡の者を黙殺し、それを顕彰するなんの歌もうたわない。ということは、われわれが、なんら特別な運命に遭遇しないということである。しかし英雄においては、たとえば彼が悲劇的運命に逢ったということは、運命が彼を顕彰し、彼をたたえる歌を高らかにうたったことになる。
たちまちその声は闇に遠ざかり…… 英雄はすぐに現世を去る。その声もあの世から風とともにひびいてくるのである。
未来をはらむ両腕に…… 少年の腕には、未来のあらゆる可能性がひそんでいる。それに読書中、少年はサムソンと一心同体になっているから、少年の腕は、やがて未来に異教徒ペリシテ人の神殿を倒す腕でもある。サムソンは、旧約聖書「士師記」第13―16章参照。
おお母よ、かれはおんみの内部にあるときからすでに英雄だったのではないか、
おんみの内部にあるときから
かれの断乎たる選択はすでに開始されていたのではないか。
無数の生命が胎内で湧き立ち、かれたらんとした。
しかし見よ、かれだけが取るべきを取り 捨つべきを捨てた 選んだ、なしえた。
そして後にかれは列柱を打ち挫いたが、おんみの胎内の世界から
より狭い世界へ躍り出たとき、すでにかれはその事業にひとしいことをおこなって
いたのではないか。そしてそこで、さらに
かれは選びつづけ行いつづけたのだ。おお、英雄の母たち! 奔流の始源!
おんみら峡谷よ! そこへ心情の高い懸崖から少女らが
嘆きつつ身をおどらして
跳び入ったのだ、未来の息子への犠牲として。
なぜなら、英雄こそは愛のあらゆる滞留地を踏み破って突進したのだから。
そこでの体験の一つ一つが、かれをいとおしむ心臓の鼓動の一つ一つが、かれを
高め、かれをかなたへ押しすすめた。
だがそのさなかにも、すでにかれはそれらのものと訣別して微笑の終局に立って
いたのだ ひとり異なるものとして。
【説明】
断乎たる選択 自己の存在のより高い可能性を選択するのである。
より狭い世界へ…… 母の胎があらゆる可能性をはらんで無限であり、それにくらべれば現実の世界は、限定されていて、より狭い(「第八の悲歌」参照)。
峡谷 「第三の悲歌」の「かわいた河床」ではなく、英雄という奔流が流れている谷である。
未来の息子への犠牲として 英雄を生み、英雄の母であることは、世の常の母子の関係と違って犠牲である。サムソンも、「生まれたときから神にささげられて」いて、母のものではない。英雄は自己の使命を果たすために、母を離れる。そういう運命をになうところに、母となる者の犠牲がある、「心情」の窮まりから、「嘆きつつ」母という谷間へ飛び入るという表現には、少女が母となる運命に飛び入る危機感がよく出ている。
愛のあらゆる滞留地を踏み破って…… 愛は滞留地をつくりたがる。しかしそこを越えて進む。この愛は母の愛からはじまって、他の異性たちやその他との愛をも意味するだろう。
微笑の終局に…… 愛するひとたちと微笑を交わしたりする地帯のはずれととも取れるし、永遠的な微笑が生まれ出る終着駅(真のあり方の場)とも取れる。とにかく、それから先は、通常の人とかかわりのない孤独、死の世界となるのであって、英雄はそこでひとり自己の使命を果たす存在となるのである。
第六の悲歌
【解析】
真空点(すべての人々の精神世界の最深部に潜んでいる存在)を見た者は、その後、生きているあいだになすべき自分の使命は何かということを明確に自覚する。リルケの場合は、(詩という表現方法によって)この世に存在する自然的なものを謳うことであり、20世紀の天才数学者エルデシュの場合は、数学を前進させることだった。人間らしい生々しさをもつ神々がたくさん出てくる神話、例えば、ギリシャ神話、インド神話、日本神話などの神々はほぼ間違いなく実在したモデルがいて、それが紆余曲折を経たのち神として昇華されて後世に伝わったと考えて差し支えないだろう。「第六の悲歌」で言っている英雄とは、サムソンの例からもわかるように、主に神話の登場人物のモデルとなった人間、すなわち、真空点を見て使命を自覚し行動力があって、その成就に生涯を全うした人々のことを指している。そのような人々は、通常の人間であれば求めるだろう快楽や安寧というものを顧みず、使命を果たすこと一点に生命エネルギーを集中させるため驚異的な成果を生み出すことが多い。また当然その生き方は、常凡の人とはまったく違う生き方になるから多くの人々の興味を引きつけ伝承の対象となりやすい。時とともにこの伝承は人々の理想や願いと練り合わさって神話となる。ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔をもつ英雄」では、こうした神話に登場する人物たちが生き生きと描かれている。




