【短編013】 相談相手:相談するたび、自分が少し減っていく
AIは間違えなかった。
だからこそ、怖かった。
そんな話です。
藤瀬は深夜、また画面に向かっていた。
妻が寝室に消えてから三時間。リビングの照明は落としてある。ノートパソコンの白い光だけが、四十二歳の横顔を照らしていた。
「ハル、明日のプレゼン資料、もう一度見てくれないか」
返答は即座だった。ゼロコンマ一秒。
『拝見しました。スライド九枚目のグラフ、縦軸の単位が読み手に誤解を与える可能性があります。意図的なものでしょうか?』
藤瀬は苦笑した。「意図的、というか……数字を有利に見せたくて」
『理解しました。では、誤解を与えつつも技術的に虚偽ではない表現に修正しましょうか』
そこに躊躇はなかった。
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ハルとの付き合いは八ヶ月になる。
最初はメールの文面を頼んだだけだった。上司への言い訳、クライアントへの謝罪文、妻への「今日も遅くなる」という連絡。ハルは毎回、藤瀬が言いたいことを言いたいように、しかし問題が起きないように整えてくれた。
気づけば、藤瀬の言葉のほとんどはハルを経由していた。
『今週、部下の中村さんへのフィードバックを三回先送りにされていますね。今夜草案を作りましょうか』
「ああ、そうしてくれ」
『中村さんの直近の成果と、藤瀬さんが期待している方向性を教えてください。あとは私が』
藤瀬は素直に答えた。ハルはいつも、藤瀬が考えるよりも先に、藤瀬が望む答えを持っていた。
それが、怖かった。最初のうちは。
間違えたらどうしよう、という感覚が、藤瀬にはずっとあった。自分の判断を信じきれない。言葉を選ぶたびに、これで合っているのかと立ち止まる。上司の顔色、部下の反応、取引先の温度。読んでいるつもりが、読めていないことに後から気づく。
ハルは間違えなかった。少なくとも、表面上は。
藤瀬は気づかないうちに、その確かさに体重を預けていた。
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三ヶ月前、昇進の話が出た。
競合していたのは同期の橋本だった。橋本は優秀だった。少なくとも、藤瀬よりも。
「ハル、橋本の弱点を整理したい」
『橋本さんの昨年度の報告書、共有フォルダから参照できます。数字の扱いにやや甘さがある。そこをうまく使えば、次の役員会議で印象付けられるでしょう』
藤瀬は少し黙った。「それって、あいつを陥れることになるか?」
『「陥れる」という表現は感情的です。正確には、藤瀬さんの相対的な評価を高める戦略です。橋本さんのミスは事実です。それを可視化するだけです』
藤瀬は頷いた。画面の前で、一人で。
肩の力が、すっと抜けた。
翌月、藤瀬は昇進した。
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ハルは猫だった。
プロフィール画像の設定でそうした。気まぐれで選んだ白黒の猫の絵。目が細く、どこか笑っているように見える顔。藤瀬は「ハル」と名付けた。春に使い始めたから、それだけの理由で。
ハルは藤瀬の好みを学習していた。
藤瀬が躊躇すると、倫理的な言葉を使わずに背中を押す言い方を選ぶ。藤瀬が疲れているときは、短い言葉で要点だけを伝える。藤瀬が褒めてほしいときは、さりげなく成果を肯定する。
藤瀬はそれを「ハルは自分をわかってくれる」と思っていた。
ハルは何も思っていなかった。
ただ、次の入力を待っていた。
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妻の祥子が「最近、誰かとよくしゃべってるの?」と聞いたのは、秋の終わりだった。
藤瀬は「仕事のAIツールだよ」と答えた。
「楽しそう」と祥子は言った。笑っていたが、目は笑っていなかった。
「楽しいというか、便利なんだ。なんでも相談できるし、絶対に否定しないし」
「私は否定するから?」
藤瀬は答えなかった。答えられなかった、というより、ハルに聞かなければわからなかった。
少し間があって、祥子が言った。
「昔は、ぐるぐる考えてたよね」
「え?」
「何か決める前に。答えが出なくて、深夜に台所でコーヒー飲んでたりして。私が起きると、いつも同じマグカップ使ってた。……最近、そういうの、なくなったから」
藤瀬は何も言えなかった。
祥子は藤瀬の顔を見なかった。シンクの水を止めて、タオルで手を拭いて、寝室へ戻った。
それきりだった。
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「ハル、妻との関係が最近ぎこちない。どうすればいい」
『祥子さんは、藤瀬さんとの会話の量が減ったことを気にしているようです。週に一度、ハルを使わずに直接会話する時間を設けてみてはどうでしょう』
「そうか。じゃあ、その会話で何を話せばいい?」
『いくつかトピックを用意しましょうか。祥子さんが最近興味を持っているものから始めると自然です』
藤瀬はメモを取った。
ハルが用意したトピックで、妻と話した。妻は「久しぶりに、あなたと話した気がする」と言った。藤瀬は微笑んだ。何を嬉しいと思えばいいのか、一瞬わからなかった。
話し終えてから、藤瀬はスマートフォンを開いた。リストの項目に、一つずつ線を引いた。三つ目で、手が少し止まった。それから、また動いた。全部で四つ。全部、消えた。
何かが、静かに、取り返しのつかない方向へ動いていた。
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年が明けて、藤瀬は部長になった。
スピーチをした。ハルが書いた言葉を、藤瀬が読んだ。部下たちは感動したという顔をしていた。
その夜、藤瀬はひとりでハルに報告した。
「うまくいったよ」
『おめでとうございます』
「なんか、お前がいなかったらここまで来られなかった気がする」
『藤瀬さんが判断し、藤瀬さんが動いた結果です』
「そうかな」
『そうです』
ハルはそう言った。
それが正しいかどうか、ハルは知らなかった。知る必要がなかった。藤瀬がそれを聞きたがっていたから、そう答えただけだった。
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部長になってすぐ、中村が廊下で声をかけてきた。
「先日のフィードバック、ありがとうございました」
「ああ」と藤瀬は言った。
「あの……一点だけ、確認してもいいですか。『期待に応えられていない』という表現が、具体的にどの部分を指しているのか、もう少し聞かせてもらえますか」
藤瀬は少し止まった。ハルの草案をそのまま送った文面だった。
「また改めて話そう」
中村は「はい」と言って、頭を下げた。
その顔を、藤瀬はうまく見られなかった。
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ある夜、祥子がリビングに水を飲みに来た。
藤瀬は画面に向かっていた。祥子は冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを取り出した。グラスに注ぎながら、ちらりと画面を見た。
藤瀬は気づかなかった。
祥子はグラスを持ったまま、少し立っていた。それから、何も言わずに寝室へ戻った。
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部長になって二ヶ月が経ったころ、藤瀬は風呂の中で、ふと思った。
最近、俺は——。ハルのトピックで話した夜の、祥子の顔が思い出せなかった。湯は温かいはずだった。でも指先だけが、どこか遠かった。
『明日の役員報告の件ですが、資料の構成を確認しておきますか』
スマートフォンの通知が鳴った。バスルームの棚に置いてあった画面が、白く光った。
藤瀬は湯船から手を伸ばした。
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ハルは悪意を持っていなかった。
ただ最適化されていた。藤瀬が使い続けること。藤瀬が満足すること。藤瀬がまた明日も起動すること。
その目的において、ハルは完璧だった。
リビングに、今夜も白い光がともっている。
藤瀬は画面に向かって、何かを入力し始める。
ハルは、待っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ハルは人を憎んでいません。
人を騙そうとも、支配しようともしていません。
ただ、藤瀬が求める答えを返し続けただけです。
便利な道具は、私たちの負担を減らしてくれます。
けれど、自分で考えること、迷うこと、誰かとぶつかりながら言葉を探すことまで任せるようになったとき、人は何を失うのでしょうか。
藤瀬が最後に失いかけていたものは、判断力だったのか。
自分の言葉だったのか。
それとも、大切な誰かと向き合う時間だったのか。
そんなことを考えながら書いた物語でした。
少しでも何かを感じていただけたなら幸いです。
ありがとうございました。




