第3話 山登り前に、お触り禁止です!
村の宿屋の窓から差す朝陽が眩しい。吹き抜けてくる初夏の風も気持ちが良い。
だというのに、奇妙な呪文のようなものが、起き抜けの耳に届いてくるのはなんだろうか。
「ポムウルフが314159匹、ポムウルフが314160匹、ポムウルフが314161匹……」
ゆっくりと瞼を持ち上げると、青年の背が見える。
「ポムウルフが314162匹、ポムウルフが314163匹、ポムウルフが314164匹……」
(……ポムウルフ?)
最近、近隣諸国で流行っている小型狼型の魔物のことだ。魔物と言っても大人しく、人に従順な性格のためペットとして飼われている。もふもふでふわふわして、ぽむぽむしていて可愛らしいので、女性にも人気だ。
呪文のようなものを発する声の主……ベッドの上で背を向けて眠るイクシオンに声を掛けることにした。
「イクシオン将軍、見た目に似合わずポムウルフがお好みですか?」
すると彼の背がびくりと反応する。
しばらく待つと、こちらに寝返りを打ってきた。
(あ……)
心臓がドキンと跳ねる。
藍色の髪がさらりと揺れる。子どもの頃に比べると精悍さが増した、綺麗な顔。炎のような赤紫の瞳がこちらを覗いてくる。
「ラフィーネ姫、起きていたんですか?」
「ええ」
「眠れましたか?」
「はい。疲れていたのか、よく眠れました」
彼の長い指にすっと顎を掴まれる。ドキンと心臓が跳ねた。
昨日とは違い、不躾な印象は強くなかったので、無理に振り払うことはしなかった。
だが、そのせいか相手の行動が助長されてしまったようだ。
「なんでしょうか?」
私が戸惑いながら返すと……
「……もう起きたから、少しぐらい良いか」
イクシオンの言葉の意味が分からない。
戸惑っていると、彼の整った顔が近づいてきた。
ぎゅっと目を瞑ると、唇の端に柔らかなものが触れてくる。
(このままキスするのかしら?)
けれどもキスはしなかった。
「ラフィーネ姫……もう少しだけ、俺の……」
……このまま口づけなしに先に進んでしまうのだろうか?
彼の手が太腿に差し掛かろうという頃、私は思い切って声をかけた。
「あの、イクシオン将軍」
「はい、なんでしょうか?」
中断したが、昨日程彼の機嫌は悪くない。
心臓が落ち着かなかった。
しかしながら、妾とはいえ、初めて結ばれる相手とはキスをしてから次に進みたかったのだ。
「昨晩お願いした……口づけは……していただけないのでしょうか?」
羞恥で顔が赤らんでしまい、イクシオンを直視することが出来ない。
彼が息を呑むのが分かる。
しばらく答えを待つと……
「口づけは……まだダメだ」
……まだダメ。
(それは妾になったばかりで、まだ私に女性としての関心がないからということ?)
女性に困っていないと言っていたし、そもそも自分は妾に過ぎないのだ。
ロクス王国には、本命の女性だっているのかもしれない。
想像したら、なんだか哀しい気持ちになった。
(私に拒否権はないのかもしれないけれど、今からこのまま、こんな気分で先に進みたくない)
話題を転換することにした。
よく見ると、彼の目の下に隈が見える。
そういえばポムウルフを数えていたが、眠れなかったからだろうか?
「イクシオン将軍は、眠れなかったのですか?」
「……徹夜で仕事とかザラなんで気にしないでください」
胸元にあった彼の顔が離れる。
興が覚めたのかもしれない。
少しだけ距離を置かれた。
「ポムウルフを数えられていたので……その、好きなのですか?」
「別にポムウルフが好きなわけじゃありません。色々と耐えてたら眠れなかったんです。まあ、ポムウルフは、ちょっとばかし貴女に似ているので嫌いではないですが……」
彼の発言にびっくりしてしまう。
「……似ていますか?」
「はい」
愛玩動物として飼われているポムウルフ。
愛らしい見た目ではあるが、魔物に似ていると言われて、喜んでいいのか悲しんで良いのか反応に困った。
「その……他の女性たちは魔物に似ていると言われたら喜ぶのでしょうか?」
「『ポムウルフ、可愛い』って、皆きゃあきゃあ騒いでるし、贈り物にすると喜ばれますが……似ていると他の女性たちに言ったことはありませんね。貴女に言ったのが初めてです」
なぜかイクシオンが照れているように見えて、ますます反応に困った。
(からかわれた? 褒め言葉ではないのでしょうね。私の国であるアモル王国に恨みがあるシオンは……私を貶めるのが楽しいのかもしれない)
それにしても女性への贈り物なんて苦手な印象が強かった彼も、大人になって抵抗はなくなってしまったようだ。
なんだか胸の内がもやもやして、ふうっとため息をついてしまう。
「将軍、お忘れかもしれませんが……昔から、からかわれるのは好きではありません」
低い声が出てしまったと思った。が、相手からの反応がない。
ちらりとイクシオンに視線を向けると……
(な、なんなの?)
……大人の男性を例えるのは失礼かもしれないが、泣きそうなポムウルフのような顔に見えた。
だが、目を擦って改めて彼の顔を見ると、不愛想な表情を浮かべている。
(気のせいのようね……)
その時。そっと彼の長くて節だった指が近づいてきたかと思うと、首筋に触れてきた。
(あ……)
先ほどまでとは違って優雅な所作だ。今は武人だが、そもそもが公爵家の人間だったと思う。
そのまま抱き寄せられてしまい、驚いて小さな悲鳴を上げてしまう。
「きゃっ……今度は、な、何を……」
「今のポムウルフに似てるっていうのは……」
耳元で彼の色香のある声音で囁かれると、鼓動が落ち着かない。
相手の腕の力が強くて、離れることも出来なかった。
「似てるっていうのは……?」
「ポムウルフに似ているって言うのは、ラフィーネ姫が、かわ……」
「かわ……?」
ますます彼の腕の力が強くなり、身体が密着してきて落ち着かない。
「姫がかわ……」
「……かわ……?」
……昨日の謁見の間での出来事といい……不遜な態度で交渉を持ち掛けてきたかと思うと、言葉に詰まるところがあるのはなんなのだろうか?
彼の言葉を待つ。
すると……
「……変わった女だな、と」
……何を期待していたのだろうか? すっと冷静になった。
(魔物みたいで変わっているということだったのね……)
やはり、貶めたかったのか。
「そうですか。では、朝の準備をしないといけないので、離れていただけますか?」
予想外に低い声が出てしまう。
イクシオンの腕の力が緩んだ。
また彼が、涙するポムウルフのような表情を浮かべていた気がした。
だが、思い違いだろうと、するりと力を失くした彼の腕の中から逃げ出した。
「……可愛いって……俺は……なのに……」
イクシオンが背後でぶつぶつ何か呟いていたが、あまりに小さな声なので、残念ながら聞き取れなかった。
そもそも聞きたくなかったので、私はさっさと旅支度を始めたのだった。
※※※
南にあるアモル王国の首都から、北にあるロクス王国の首都へと向かっている。二つの国の間にはアルパイン山がそびえたっていた。
魔力の源泉が少なくなってきている昨今、消耗の激しい転移魔術や魔法を使えるほどの高位の魔術師は少なくなってしまい、その技術は失われつつあった。
そのため、馬や徒歩で国境のある山の山頂を目指している。
隣国の騎士団のコートと派手なドレスは目立つということで旅装に着替えた。
馬は村の借り物だということで、置いて行くことになり、山の麓までは徒歩で向かうことになったのだ。
行きとは違って、アモルの滞在許可証を手にしたイクシオンは、敵国の村の中でも悠々自適だ。
村を出る前に、行商人の男に出会った。顔を布で隠しているが、他所の国の者かもしれない。
「そこの色男さん、そちらの綺麗な奥様に何か買っていきませんか?」
隣を歩いていたイクシオンが反応して、勢いよく商人の方を振り向く。
「貴方もそう思われますか? そうでしょう、綺麗な妻――」
なぜか嬉々として身を乗り出していた彼を横目に、商人に真実を伝える。
「わたしはこの方の妻ではありません」
「あれ、てっきり奥方かと……じゃあ、恋人同士ですか?」
「違います、恋人でもありません」
きっぱり答えると、行商人が我々二人を眺めて面白そうな顔をしていた。
隣の美青年に視線を移すと、なぜかひどく落ち込んでいるように見える。だが、すぐにいつものイクシオンの不愛想な表情へと戻る。
「商人、この宝石、こんな村で売られるようなものじゃあないな」
二粒の赤紫色のアメジストのようにも見えるイヤリング。
「おや、お目が高い。これが高価なものだとお判りになるなんて」
「それを貰おうか」
「まいどあり」
「袋は要らない」
イクシオンは行商人と交渉をはじめた。
アモルやロクスをはじめとした周辺諸国では、同じ通貨であるソーニャを使用しているため、売買の際に問題が生じることはない。
とても高価なものだということは分かった。
大事そうにイクシオンは懐にしまう。
(イクシオンの暮らすロクス王国にいる恋人や妾への贈り物かしら?)
少しだけ胸がもやもやするのはなぜだろか。
「ラフィーネひ……様、行きましょうか」
買い物が終わって、立ち去り際、商人がぽつりと口を開いた。
「それは竜の鱗と言われています」
……竜の鱗。
「竜か。今となっては架空の生き物だろう」
イクシオンの眼差しが鋭さを増した。
「おやおや、そうとは限りませんよ。噂は知っているでしょう? 南西にあるオルビスはずっと竜に支配されていると言われているし、南東にあるグランテにも時折竜が飛んでいるという。東の華龍国なんて名前そのままだし、島国である和国にだって目撃情報がある。いないのは、大陸の北であるこの周辺諸国だけですよ」
やけに詳しい行商人だ。
「今は、竜に詳しい男がアルパイン山にいると言いますよ。貴方の身体についても何か分かるかもしれませんね」
その言葉にイクシオンが行商人を振り返る。
だが、もう次の瞬間にそこにはいなかった。
「いない」
しばらく呆然としていたが、気を取り直して村の出口に向かって歩く。
「イクシオン将軍、先ほどの行商人、魔法使いか魔術師でしょうかね……?」
「どうでしょうね……」
イクシオンは何やら考えごとをしていた。
だが、出口近くの池のほとりの近くで立ち止まる。
村人たちは農作業に出ている頃だろうか。人はいなかった。
陽の光が、きらきらと水面を反射している。
花びらがひらひらと舞い散っており、どこか幻想的だった。
「どうなさいましたか?」
イクシオンを覗き込むと、懐から何かを取り出す。
すると、彼の手が耳に伸びて来た。
「きゃっ……何を!」
彼が耳に触れてきてくすぐったい。
耳朶にちょっとした重みを感じる。
しばらくすると離れた。
ふと、片耳に手をやると、ひんやりと硬質な何かが触れる。
(あ、これは……)
「もっと高価な宝石は、国に準備してあるので、今はこれで。もう片方は俺が持ってるんで」
先ほど購入したイヤリングと思しきものが、耳に装着されているのが水面に映っていた。
突然の贈り物に、心臓が落ち着かない。
「ありがとうございます……だけど、誰にでも……こういうことをしているのでしょう?」
綺麗な宝石を貰って嬉しくないはずはないのに、素直じゃない言葉が出て来た。
彼は何も語らない。
しばらくして、拳を握りしめているのが分かった。
「……貴女にだけです」
「え?」
「同じ装飾品をそれぞれに持つのは貴女にだけだと言っている」
それだけ言うと、彼は先を歩きはじめる。
私は慌てて声を掛けた。
「あの……」
「抱えるか背負わなくて良いですか? 山の麓までもう少しだけ歩かないといけないですが」
「大丈夫……です」
私はそっとまた耳に触れる。
ちょうど彼のそばに紫色のシオンの花が揺れ動く。
甘やかな香りが鼻腔を突いてきた。
ふと、護衛騎士を勤めてくれていた頃の彼の姿が脳裏に浮かぶ。
『ラフィー、疲れたんじゃないんですか? ほら、俺が背負ってあげますよ』
私はぎゅっと竜の鱗の形をしたアメジストの粒を握った。
(シオン……)
変わってしまったと思っていたけれど……
不器用な優しさを持った少年は、まだ彼の中で生きているのかもしれない。
「じゃあ、さっさと行きますよ」
「はい」
そうして……二人して国境であるアルパイン山に向かう。
そこで、彼の秘密の一端に触れ、距離を縮めることになるのだった。




