第26話 敵国将軍は、奪い返しますっ! イクシオンside
空が明るみはじめた。
朝の静謐な空気の中、池のほとりでは、イクシオンと「月の女神」が抱きしめ合って過ごしていた。
あの後何度か結ばれたものの、最終的に座って向き合う今の形に二人は落ち着いていた。
「……シオン……」
「姫様」
眼前にあるのは、あどけなさの残る美しい月の女神の顔。火照った頬に貼りつく金の髪を、イクシオンはそっと指先で払う。
潤んだ黄金色の瞳に見つめられると、ますますイクシオンの気分が高揚してしまう。
半開きになった彼女の小さな唇の中をしばらく犯し続けた。
唇同士が離れた後、しばらく見つめ合っていると、彼女が首にしがみついてきた。
「シオン……こうやって過ごせるのも貴方のおかげです」
ふわりと、彼女から甘い香りが届く。
あたたかくて優しく抱きしめられると、ひどく心地が良い。
(竜の赤ん坊になった時みたいだ……気持ちが良い)
……竜の赤ん坊?
そう言えば、師であるランベイル・ボードウィン卿と戦友である魔獣リンダとアルパイン山に向かった記憶がある。
その間、自分は竜の赤ん坊になっていて……だけど、二人じゃなくて、他の誰かが自分の世話をしてくれていたような……?
(一緒にいたのは誰だ……?)
だが、どうしても思い出せない。
イクシオンの脳裏に彼女の名前が浮かびかけては消える。
今夜初めて会ったはずなのに、知っている気がするのはなぜだろうか。
これまで出会ってきた女性たちとは違う何かを感じる理由も分からない。
「あの……」
イクシオンは繋がり合っている女性に対して声をかけた。
「今さらですが、俺は会った女性に対して、誰に対してもこんなことをやっているわけではなくてですね……」
言い訳がましいと思われただろうか。
だけど、彼女に軽薄な男性だとは思われたくなかった。
「はい、知っています。シオンが真面目な男性だと」
――なんて優しくて純粋な女性なんだ。
だからこそ、おかしな男の妾の立場でも甘んじることが出来るのかもしれない。
今しがた自分とおこなった行為を、彼女が別のシオンともおこなったのかと思うと、胸がきゅうっと締まって苦しくてしょうがなかった。
「シオンは、ずっと私と一緒に初めてを迎えたくて、真面目に生きていてくださったんですものね」
彼女の柔らかな笑顔が、なぜだか胸を苦しくさせる。
(そう。この人に対して、女性経験があるだとか見栄を張る必要はなかったのに、俺は――)
イクシオンははっとする。
この女性の前で見栄を張ったことなんて、あっただろうか――?
頭を振って、正気に戻る。そうして、純粋な笑みを浮かべる女神に伝えた。
「あの……姫様、こんなことを言うと迷惑かもしれませんが――もしかしたら、こ、こここここ、子どもが出来たかもしれません」
「そうかもしれませんね」
彼女はさらっと肯定してくる。
太古の姫の亡霊に対して、子どもが出来たかもしれないと伝えるのはおかしな話かもしれないが。
どぎまぎしながらイクシオンは素直な気持ちを伝えた。
「だから、ちゃんと責任はとりますから!!!!」
決死の思いのつもりだったが、女神はくすくす笑っている。
「はい、わかっています。ありがとうございます」
順番を間違ってしまったような気がしたのに……この世に女神は存在したのだ!
感動に打ち震えるイクシオンは、まるで揺り篭の中で揺られているような幸せに包まれていた。
ずっとこの人を抱きしめて、この人を護って生きていきたい。
だが、終わりは唐突に訪れた。
「もう朝方ですね。迎えが来ている頃です。私は行かないといけません」
やはり、月の魔法は夜が明けるまでだったようだ。
恍惚としていたイクシオンから、女神はずるりと逃げ出してしまう。
地面に落ちた下着を彼女が身につける様をぼんやりと見ていた。
外気にさらされた自身の器官を慌てて隠す。
(もうこれで、月の女神と会えるのも最後なのだろうか……)
彼がしゅんとしていると……
「はい、シオン」
声を掛けられて、はっとする。
目の前に何か掲げられた。
「モスフロックスの花……」
淡い赤紫色の花。
花に疎いはずの自分だが、なぜだか名前を知っていた。
『貴方の瞳の色と同じ綺麗な花で、私は大好きなんです』
頭の中に、何かがよぎった。
(なんだ……なんなんだ……)
あるはずのない記憶が打ち寄せてきているような。
「シオン、私のワガママをいつも叶えてくれてありがとう」
――いつも?
夜着を整えた彼女が走り去ろうとするので、慌てて手首を掴んだ。
「待ってください。もう会えないんですか? せめて、名前を……お名前を教えてください」
だけど、彼女は寂しそうに微笑むだけで名前を教えてはくれなかった。
「また戻ってきます、シオン。その時は、どうか私のことを好きになってくださいね」
月の女神の形をした霊は――そう言うと朝靄の中に消えてしまった。
あんなに優しい彼女を見たのは、アルパイン山の源泉に向かった時ぐらいで――。
(あんなに優しい……?)
何かを思い出そうとすると、自分の頭にも靄がかかったような感覚に陥る。
「姫様……」
名前は教えてもらえなかった。
それに、どうして彼女が終始切なげな表情を浮かべていたのか、最後まで理由は分からないままだった。
※※※
月の女神に童貞を奪われてから数日。
(世に言う一夜限りの関係というやつだったのか……しかも亡霊との……)
イクシオンは夢見心地のままだった。
あの晩、池のほとりで待ってみたが、ついぞ彼女が姿を現すことはなかった。
思い出すと、ため息ばかりが吐いて出る。
彼女の手がかりが、全くといっていいほどなかった。
誰かに女神の話をしたら、せっかくの大切な思い出を馬鹿にされそうで、問いかけることも出来ない。
「月の女神……」
記憶が白濁しているところがあるが、幸い仕事に支障はなかった。
今のところ問題なく過ごすことが出来ている。
そういえば、女神と交わった日の朝、屋敷内に現れた姉王シヴァが「こんな呆けた弟に話しても仕方がないか……」と捨て台詞を置いて去って行ったのだが、イクシオンはそれどころではなかった。
姉の不可思議な態度や、アルパイン山の欠けた記憶について、戦友リンダに聞いてみようかと思ったが、姉の命令で隣国アモルのお偉いさんの護衛に出かけているそうだ。記憶が混乱しているからか、アモルから誰が来ていたのかさえ想像もつかない。
「女神……今頃、天で幸せに暮らしているだろうか」
青空を見ながら、イクシオンは独り言ちた。
そんな将軍の姿を見て、部下に当たる騎士達はひそひそ話を展開する。
「イクシオン将軍、可哀想にな」
「ああ、本当。あれだけ将軍、自分の誕生日に姫にプロポーズしなおすって準備してたのに……」
「姫が倒れたっていう話があって、急いで屋敷に戻った日以来、イクシオン様、姫様の話をしなくなったもんな……数日ぶりに仕事しだしたと思ったら、ずっとあんな調子だし……」
「いやいや噂では、姫様が意識を失ったっていうのは、裏があるらしくて……単純に、将軍のことが嫌になった姫様が、呼びつけて別れを切り出した話を、リンダさんが気を遣ってそんな風に伝えたそうだぞ」
「うわあ、それは有りうるな」
「やっぱり、初夜でやらかしたんじゃないか……将軍は体力馬鹿だし、加減が分からなくて処女にやり過ぎたんだよ色々」
彼らの中では、イクシオンが姫にやらかして振られたという話で落ち着きはじめた。
「そもそも、せっかくの誕生日に、妻ならともかく妾って言われた姫様の気持ちを考えてみろって」
「あげくプロポーズもなしに、結局我慢できませんでしたじゃなぁ……」
「そりゃあ、急遽アモル王国に帰るわけだ、姫様も」
「しかし、わりかし虐められていたんだろう、義母やら宰相に……姫様、大丈夫かな?」
「めちゃめちゃ怖い内容の条件を女王陛下が、アモル王と宰相に書状でしたためたそうだよ」
「じゃあ安心か……しかし、シヴァ女王陛下から『姫のことを弟には絶対に話すな』って俺たち皆に緘口令が敷かれてさ。なんだかんだで、弟には甘いんだな、シヴァ様も」
「え? 俺には、『あの馬鹿弟に、可愛い義妹姫の話を耳に入れてやる価値もない』ぐらいに聴こえたけど」
姫が急にアモルに帰ったことも、騎士達の間ではイクシオンがどうせ至らぬことをしたのだろうということになっている。
当の本人だけが気づいていない。
「はあ、しかし『月の女神』か。月光姫と呼ばれているぐらいだからなぁ、彼女……」
騎士の誰かが放った言葉を、イクシオンが耳聡く拾った。
「お前達、まさか『月の女神』の正体を知ってるのか!?」
彼の反応に騎士達は戸惑う。
「将軍、頭打ったか、おかしな食べ物でも拾ったんですか?」
「命よりも大事な姫様なんだと思ってましたけど、俺たち……」
「単騎でアモルに行くって言ったのは、止めましたもんね、さすがに我々……」
皆が一斉によくわからない話をしだして困惑する。
ちょうど、その時。
「イクシオン将軍」
そんな中、女王の側近がイクシオン将軍を呼び出したのだ。
※※※
「イクシオン、聞いているのか? アモル王国についてだ」
玉座の間で、姉王に名を呼ばれたイクシオンは、はっとした。
(執務中に月の女神に想いを馳せるなんて、なんてダメな男なんだ俺は)
「お前がダメな弟だとは重々承知だが、頼みがある」
まるで心の中を読んできたかのように、シヴァは続ける。
かなり重たい口調だった。
「隣国アモルの王城を現在、魔獣の群れが襲ってきているらしい。リンダから応援の要請だ」
彼女の言葉をイクシオンが即断った。
「アモル? なぜ俺があの忌々しい国の応援に行かないといけないのですか? あの宰相の顔を思い出すだけで腹が立つというのに。アモルなど、魔獣の群れに襲われて、朽ちれば良い」
穿き捨てるように言ってしまった。
そう憎いのだ。
アモルなど。
忌まわしき子だと、呪われた子だと、そう言って、自分を虐げてきたあの国を。
「王の命に背くのか、イクシオン?」
アモルに友好的な態度をとる姉の考えが理解できない。
「姉上の命ならば、どれだけでも叶えて差し上げたいが――なぜ俺がアモルを助けなければいけない? それ以外の命令なら、どれだけでも聞いて差し上げますよ。応援させたいなら、騎士なり魔術師なりを派遣すれば良い。正直、魔物に乗じて、俺がアモルを崩壊させたいぐらいだ」
絶対に、自分を追放した国への援助などしない。
「そうか、姉上は、アモルの国王との仲は良かったですものね? 本当はロクスの女王にはならずに、あの気の弱い男と番いたかったのでしょう? 俺には到底理解できない」
嫌味のような口調になってしまった。
シヴァの目がすがめられる。
「……私だけではない。アモルには、お前の幼馴染の姫がいる」
――幼馴染の姫?
そんなやついただろうか。
アモル? アモルの王族に?
ふと、頭の中に、誰かの名前が浮かんだ。
「……ラフィーネ」
思わず、口にしていた。
ラフィーネ。
ラフィーネ。
(なんだ……この妙に馴染む名前は……)
だけど、そんな名前の女性いただろうか。
でも、なんとなく懐かしいのはなぜだろうか。
「イクシオン! 姫様のことを――!」
姉シヴァが歓喜の声を上げているが、また頭に靄がかかったようになる。
頭を振って、強い意志を込めて告げた。
「幼馴染か何か知らないが、子どもの頃のことなんて覚えてさえいない。とにかく俺はアモルには行かない」
あきらめたようにシヴァは続ける。
「分かった……事態は急を要する。お前ならば数日で山を越えられるだろうが、他の者たちだと倍以上はかかるだろう……魔術師や騎士らを応援に出す。その前に、アモルが滅びなければ良いが――」
鋭い眼光にイクシオンは射抜かれた。
「だが、後悔するのはお前だぞ、イクシオン?」
「アモルが滅びて後悔なんて、この先一生あり得ませんよ、姉上」
彼は踵を返す。
「――本当にお前は、忘れてしまったのだな……」
ため息を吐く彼女の声が頭の中にこびりついて離れなかった。
そうして、ラフィーネという名前も。
※※※
その後、イクシオンは王城でアモル行きの部隊の編成をして送りだした。
「どうして将軍が行かないのか?」と部下達が混乱していて、逆にイクシオンの方が困惑してしまったぐらいだ。
夜、一旦用事があって屋敷に帰る。
悠長かもしれないが、どうしてもアモルへの支援に乗り気ではなかった。指揮を副官に代わった方が良いのではと言われているぐらいだ。
(仕事に私情を挟みすぎているな……)
直接乗り込むのを断った以上は、せめて作戦位はしっかり立てないといけない。
(将軍職になった以上は職責に応じた仕事はきっちりと行うつもりだ……それが憎きアモル王国の擁護であってもな……)
イクシオンは苛立ちを隠せないままだ。
城へと戻る前、庭に出て池のほとりに向かう。
こんな時だからこそ、彼女の姿をもう一度見たかった。
新月だからか、周囲は濃い闇に包みこまれている。
「月の女神は、やっぱり満月の夜にしか現れないのかな……」
それにしても、なんで憎いアモルの王城に似せて庭を作ったりなんかしたのだろう?
忌々しいとは思わずに、懐かしさが胸を支配するのもどうしてだろうか?
月の女神との思い出のおかげだろうか?
ふと、あの情事を思い出す。
「本当に彼女は戻ってくるのだろうか?」
アモルが魔獣に襲われているというのに、自分はなんて薄情な男なのだろうか?
その時、頭の中に何かが閃く。
『シオン』
月の女神が自分の名を呼んできている錯覚に陥る。
「ラフィ……」
一体何なのだろうか?
王城で頭に浮かんで以来、浮かんでは消えてくる。
「知らない名前だ」
しばらく城に滞在しないといけない。
やたらと少女趣味な内装の屋敷に戻る。
一人で住むにはガランとした部屋の中、荷物を漁る。
その時、見覚えのない掌位の大きさの黒い箱がぶつかった。
「なんだ?」
中を開けると、出てきたのは――大小の……
「指輪?」
見るからに高価だと分かる、対の指輪。
ダイヤモンドがキラキラと輝いていた。
頭が軋む。
『もっと高価な宝石は、国に準備してあるので、今はこれで。もう片方は俺が持ってるんで』
誰に対して言った台詞だろうか?
ドクドクと激しく心臓が脈打ちはじめた。
耳朶に触れる。
どう考えても自分の趣味ではないイヤリング。
指輪を天にかざす。
「俺は、誰にこの指輪を渡そうとして……」
指輪の腕に彫られているのは……
「……ラ……フィ……」
頭の中で、白金にも見える金の髪を持った少女が声を掛けてくる。
『シオン』
イクシオンは瞠目した。
「ラフィー……ネ……」
黄金の瞳を持った、世にも美しい少女。
『シオン』
どうして忘れていたのだろうか。
自分の人生の半分以上を作り上げてきた女性。
自分という人格を成す一部。
彼女なしでは、自分は自分とは言えない。
彼女のそばに戻れるならと、どんな辛苦も舐めて、泥水を啜りながらでも生きてきた。
忘れるには、あまりにも存在が大きすぎる。
かけがえのない……
「……ラフィーネ……」
――唯一無二の彼女と、月の女神が重なった。
イクシオンの紫水晶の瞳から涙が溢れてきた。
――どうしようもなく大切な姫。
自分にとっては、彼女を想って生きてきた半生で。
彼女の記憶がない自分など、もうイクシオン・ロクスではないというほどに。
だけど彼女に拒絶されたら生きていける気はしなくて。
怖くて馬鹿な自分は、愛妾だと、本当に馬鹿なことを言って。
それでも、愛想を尽かさずに、「妻に」と、「愛している」と、告げるのを待ってくれていたのに……
彼女を失くしたら生きていけないからと、彼女との記憶を犠牲にしたはずなのに。
「ラフィ……」
すぐに頭の中が白い靄に覆われそうになる。
「消えないでくれ……忘れたくないんだ、ラフィのことを」
その時、ふと思い出す。
リンダが要人の護衛をしていると言った。
姉王もアモルに姫がいると知らせて来た。
アモルが魔獣に襲われているのだ。
せっかく命を救ったはずなのに、未来永劫、彼女に言葉を伝える機会を失うところだった。
「行かないといけない」
窓を開け、月のない夜空をイクシオンは見つめる。
「ラフィーネ……」
彼は窓の外へと身を投げ出した。
その日――灰色の煉瓦に囲まれたロクスの街の上空からアモル王国の方角に向かって、紫竜が空を駆けていく姿を目撃したと、民達は噂したのだった。




