第六章 最後の引き金
一線を越えかけることを何度か繰り返しながらも、梨沙の心の最後の扉は、固く閉ざされたままだった。
誠はその扉を無理にこじ開けようとはせず、ただ静かに、梨沙が自ら開けてくれる日を待ち続けた。
そんなある週末の夕方、夫の哲也が何の連絡もなしに、嵐のように帰宅した。
「帰ったぞ。出張が早く終わったんだ」
哲也の横柄な態度は、家族の穏やかな空気を一瞬で破壊した。
「なんだよ、その顔は!夫に文句か?俺が稼いでるんだぞ。お前の親父の家じゃなかったら、とっくに追い出してるところだ」
誠は、静かに状況を見守っていたが、その夜の食卓で、彼の怒りが爆発する。
哲也は、美津子の介護の苦労を笑い、さらに海の食べるものが偏っていることを、梨沙は母親として失格だと罵倒した。
「だからお前はダメなんだ。海がああなったのも、お前の育て方が…」
「やめて!海のことは関係ないでしょ!」
梨沙の叫びは、哲也の怒声にかき消された。
海は怯えて泣き出し、陸が小さな体で妹を抱きしめる。
誠は、静かに箸を置いた。
「出て行ってもらおうか、哲也」
低い声だったが、有無を言わせぬ力強さがあった。
誠は、静かに立ち上がり、哲也の前に立ちはだかった。
「あ?なんだと、お前!」
「聞こえなかったか?ここは、俺たちの家族が暮らす家だ。お前のような、家族を傷つける人間がいる場所じゃない」
誠の瞳は、静かに、しかし激しく燃えていた。
「俺は、梨沙の夫だぞ!お前に、俺を追い出す権利があるのか!」
「権利?家族を傷つけ、妻と子供の苦労を顧みない男に、権利などない。梨沙、お前はどうしたい」
誠は、哲也ではなく、梨沙に向かって尋ねた。
それは、彼女自身の意思を確認する問いかけだった。
梨沙は、泣き腫らした目で、しかしはっきりと答えた。
「…出て行って、あなた。もう、あなたのいる場所には、いたくない」
それは、梨沙が初めて自らの人生の主導権を握った瞬間だった。
哲也は悪態をつきながら、怒鳴り散らして家から出て行った。
嵐が去ったリビングで、誠は海を抱き上げ、優しく頭を撫でていた。
「大丈夫だよ、海。もう怖い人はいないよ。おじさんが、ずっとそばにいるからね」
その光景を見て、梨沙の胸の中で、凍りついていた過去のトラウマという最後の枷が、音を立てて砕け散った。
(この人は、私を守ってくれた。この人の温もりは、十五年前の罪を、完全に償ってくれた…)
その夜、すべての家事が終わり、母も子供たちも寝静まった深夜。
梨沙は、自らの意志で、誠の部屋のドアをノックした。




