第四章 贖罪の日々と、小さな変化
誠の新しい生活は、母・美津子の介護と、妹家族への献身的なサポートを中心に回っていた。
その姿勢は、かつての軽薄な青年の影を微塵も感じさせない、真摯なものだった。
梨沙は当初、誠のすべての行動を警戒した。
その優しさは、十五年前の罪を償うための、計算された演技に見えたのだ。
彼が何かをすればするほど、過去の夜の記憶が、心の奥で警鐘を鳴らす。
しかし、誠の献身は、言葉よりも雄弁だった。
彼はリモートワークの合間を縫って、美津子のリハビリに付き添い、陸と海の食事の世話をし、そして何より、海の繊細な心に寄り添った。
ある日の午後、梨沙がキッチンで次の日の準備をしていると、庭先から海の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
窓越しに目をやると、誠が芝生の上に座り込み、生まれつき足の不自由な海の小さな足を、手で優しくマッサージしていた。
「海ちゃん、このお兄ちゃんの指は魔法の指なんだ。こうやって優しくしてあげると、明日もっと元気になれるんだよ」
誠は、そう言って優しく海の足首を回し、指先を丁寧に揉んでいた。
海は、心地よさそうに目を細めている。
梨沙の夫・哲也は、海の障害を家庭の恥のように扱い、こんな風に労わろうとはしなかった。
梨沙は、その光景をただ見つめていた。
彼の手の動きは、あまりにも優しく、その眼差しは、海のすべてを受け入れている。
彼の優しさは、純粋で、何の計算もない、本当の愛情に見えた。
十五年間凍りついていた梨沙の心の奥底が、カラン、と小さな音を立てて砕けたような気がした。
その夜。
子供たちが寝静まり、美津子の世話も終えた後、梨沙は自室に戻る前に、リビングのソファで静かに肩を落としている誠の姿を見つけた。
彼はパソコンを閉じ、深く息を吐き、疲労を隠せない様子だった。
「お兄ちゃん、無理してない?」
梨沙は、気づけば優しい声で尋ねていた。
警戒心なく、心からの労いの言葉だった。
誠は、驚いたように顔を上げた。
「梨沙か。ああ、大丈夫だよ。ただ、ちょっと肩が凝って。慣れない介護って、意外と力仕事なんだな」
誠は苦笑いした。
彼の顔色は少し青ざめ、疲労困憊しているのは明らかだった。
梨沙は、ゆっくりと誠の隣に座る。
「…いいよ、私が揉んであげる」
誠は一瞬ためらったが、すぐにその申し出を受け入れた。
「ありがとう。助かるよ」
誠はソファにもたれ、梨沙に背を向けた。
梨沙は、彼の肩にそっと手を置いた。
その手のひらが触れた瞬間、誠の体がわずかに硬直したのがわかった。
「力、抜いてね」
梨沙は優しく声をかけ、誠の逞しい肩の筋肉を、指の腹で揉み始めた。
最初はぎこちなかったが、疲労で硬くなった筋肉が、彼女の小さな指の力によって少しずつほぐれていく。誠は、目を閉じて深く呼吸をした。
「…梨沙の手、温かいな」
誠が、絞り出すような声で言った。
「そう?…もっと、こう?」
「ああ。そこ。そこが一番辛かったんだ」
梨沙は、より体重をかけて深く揉み込んでいく。
誠の体から力が抜け、梨沙の指の動きに完全に身を委ねているのがわかった。
十五年前、力で彼女をねじ伏せた腕が、今、彼女の優しさに包まれている。
「梨沙、ありがとう。正直、疲れすぎて、誰かにこうしてもらうなんて…すごく嬉しいよ」
「いいの。お兄ちゃんが頑張ってくれてるから、私がこうしていられるんだもの」
その言葉は、梨沙にとっての贖罪の始まりでもあった。
兄の罪を、自分の献身で赦す。
そして、自分の中にある兄への複雑な感情を、純粋な兄妹愛という形で昇華させたい。
そう思っていた。
しかし、肩を揉み終え、手を離そうとしたその時、誠が急に振り返り、梨沙の手を掴んだ。
「梨沙…」
誠の目が、戸惑いと、抑えきれない情熱の光を帯びていた。
握られた梨沙の手のひらが、彼の体温でじわりと熱を帯びる。
「ごめん、もう行かなくちゃ」
梨沙は、反射的に手を引こうとした。
まだ、この感情に正面から向き合う準備ができていない。
しかし、誠の握る力は、優しく、しかし確かなものだった。
「もう少しだけ。このままでいさせてほしい」
その誠の懇願は、十五年前の独善的な力とは、まるで違うものだった。
梨沙は、手を振り払えなかった。
ただ、その温かい大きな手に、自分の手を重ねた。
リビングには、二人の高鳴る鼓動だけが響いていた。




