第2話 ゴミ屋敷の掃除と、裏庭に落ちていた「大型犬」
廃屋(これからの我が家)に足を踏み入れて、最初に私がしたこと。
それは、ため息をつくことでも、絶望することでもない。
――現状把握だ。
「……うん、思ったより重症ね」
エントランスホールの中央で、私は腕組みをして頷いた。足元には、長年の埃が雪のように積もっている。
天井の隅には立派な蜘蛛の巣がハンモックのように張り巡らされ、壁の漆喰はところどころ剥がれ落ちて中の煉瓦がむき出しになっていた。
普通なら「汚い」と顔をしかめる場面だろう。
だが、私の建築オタクとしての目は誤魔化されない。
(床材は黒檀ね。磨けば素晴らしい光沢が出るわ。壁の煉瓦も、焼きがしっかりしているから強度は十分。……つまりこれ、ただの「汚れ」よ!)
素材は一級品なのだ。
磨けば光る原石を前にして、職人の魂が燃えないわけがない。
「よし、まずは掃除! 寝る場所を確保しないと!」
私は持ってきたトランクから、道具を取り出した。
王都の道具屋で特注した、柄の長い箒。そして、雑巾代わりの古布。
つなぎの袖をまくり、頭には手ぬぐいを巻く。
公爵令嬢としての面影は、もはやどこにもない。今の私は、ただの「解体&リフォーム業者」だ。
「そぉれっ!」
バサッ、バサッ!
豪快に箒を振るい、蜘蛛の巣を払い落としていく。
舞い上がる埃に咳き込みながらも、私は止まらない。
床板が腐って穴が開いている場所を見つければ、すかさずしゃがみ込む。
「ここはいったん埋めないとね……【創造】!」
庭から拾ってきた手頃な石ころを穴に詰め、魔力を通す。
私のスキルは、無機物の形状を変化させ、結合させることができる。
石ころは飴細工のように形を変え、床の穴にぴたりと嵌まり込んだ。さらに表面を周囲の床板に合わせて木目調に加工すれば――。
「はい、補修完了!」
所要時間、わずか十秒。
プロの大工さんが見たら「ふざけるな」と怒り出しそうな荒業だが、とりあえず平らになればいいのだ。
そんな調子で、一階のホールと、それに続く居間(リビング)の掃除だけで数時間が経過した。
窓から差し込む光が、夕焼けのオレンジ色に変わり始めている。
「ふぅ……とりあえず、人が住めるレベルにはなったかな」
私は額の汗を拭い、満足げに室内を見渡した。
埃まみれだった床は、本来の黒檀の輝きを取り戻しつつある。
割れた窓ガラスは、とりあえず板切れで塞いでおいた。風通しは悪くなるが、夜風が入ってくるよりはマシだ。
「さて、次は水ね。井戸が生きていればいいんだけど」
掃除をすれば喉が渇く。私はバケツを手に、屋敷の裏手へと向かった。
到着した時に水の音が聞こえたから、井戸か湧き水があるはずだ。
裏庭に出ると、雑草の海の中に、石組みの古井戸が見えた。
そして――その井戸のそばに、見慣れない「大きな影」が落ちていた。
「……え?」
最初は、熊かと思った。
あるいは、この辺りに生息するという魔獣か。
私はとっさに箒を構え(武器としては心許ないけれど)、恐る恐る近づいていく。
しかし、近づくにつれて、それが獣ではないことがわかった。
「――人?」
そこには、一人の青年が倒れていた。年齢は二十歳前後だろうか。
泥と血に汚れた灰色のマントを羽織っている。身体つきは軍人のようにガッシリとしていて大きいが、顔色は紙のように白い。
「ちょっと、大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄った。
仰向けになった青年の顔を見て、息を呑む。
(なにこのイケメン……!)
泥だらけでもわかる、整いすぎた顔立ち。切れ長の目元に、通った鼻筋。濡れたような黒髪が額にかかっている。
王宮の夜会で見たどの貴公子よりも、野生的な色気があって美しい。
いや、見とれている場合じゃない。
彼の腹部には、何かに切り裂かれたような傷があり、服が赤黒く染まっていた。
「う……っ」
私の声に反応したのか、彼がうっすらと瞼を開ける。
その瞳は、吸い込まれるような深い蒼色をしていた。
「……て、んし……?」
「はい?」
「俺は……死んで、天国に……?」
彼は朦朧とした意識でそんなことを呟いている。
残念ながらここは天国ではなく、魔境アストラの廃屋だ。そして私は天使ではなく、つなぎを着て箒を持った元悪役令嬢である。
「しっかりして! 死んでませんよ! ここはお化け屋敷の庭です!」
「……み、ず……」
「水ね、待ってて!」
私は井戸の釣瓶を確認する。ロープは切れかかっていたが、【創造】で一瞬にして繋ぎ直す。
勢いよく水を汲み上げ、手ぬぐいを浸して彼の口元に絞ってあげた。
冷たい水が喉を通ったことで、少しだけ生気が戻ったようだ。
「……助かった。ありがとう」
彼は深く息を吐き、重たげな身体を起こそうとして――ぐらりとよろめいた。
「きゃっ、危ない!」
私はとっさに彼の身体を支える。
ずしり、と重い。筋肉の塊のような重さだ。
「無理しちゃダメです。怪我をしてるんでしょう?」
「……ああ、不覚をとった。魔物の群れに囲まれてな。仲間を逃がすために殿を務めたんだが……気づいたら、ここへ迷い込んでいた」
彼は自嘲気味に笑った。
どうやら、傭兵か冒険者のようだ。
「とにかく、こんなところで寝ていたら風邪を引きます。屋敷の中へ運びますから、肩を貸しますね」
「いや、俺は重いぞ。君のような華奢な嬢ちゃんに……」
「大丈夫です。私、これでも日曜大工で鍛えてますから!」
私はグッと足に力を入れ、彼の大柄な身体を引きずり起こした。
前世で4×8(シハチ)板のコンパネを何枚も運んでいた私を舐めないでほしい。
***
なんとか彼を居間まで運び込み、私が掃除したばかりの床(一番綺麗な部分)に寝かせた。
持参した傷薬で手当てをし、保存食の干し肉をスープにして飲ませる。
温かい食事をとって、ようやく彼は落ち着いたようだった。
「生き返った心地だ……。俺はアレクセイ。しがない傭兵だ」
「私はマリエルです。……えっと、ここの新しい領主、みたいなものです」
「領主? こんな廃屋の?」
アレクセイと名乗った青年は、目を丸くして周囲を見回した。
穴の空いた天井。ツギハギだらけの床。板で塞がれた窓。
「……物好きなんだな」
「失礼ね。今はまだボロ屋ですけど、明日には快適なログハウス風ヴィラになりますから!」
私が胸を張って宣言すると、彼はポカンとした後、クックッと喉を鳴らして笑った。
「ははっ、面白いお嬢さんだ。……いや、マリエル様か」
その笑顔は、さっきまでの張り詰めた空気を一瞬で溶かすような、人懐っこいものだった。
まるで、警戒心を解いた大型犬みたいだ。
「笑わないでくださいよ。……それより、今日はもう遅いです。アレクセイさんも、身体が動くようになるまではここに泊まっていくといいわ」
「いいのか? どこの馬の骨とも知れない男を」
「怪我人を放り出すほど落ちぶれてはいません。それに……」
私はチラリと、部屋の隅にある壊れたソファに目をやった。
「ちょうど、『実験台』が欲しかったところなの」
「実験台?」
「ええ。これを見てて」
私はソファの残骸――脚が折れ、座面が破けた粗大ゴミに近づいた。
先ほどの掃除で出た木屑や、庭の草をかき集めて、ソファの上に積み上げる。
アレクセイが「何をする気だ?」という顔で見ている。
ふふん、驚くがいい。
「――【創造】!」
魔力を解き放つ。光が集束し、壊れたソファとゴミの山を包み込む。
私の頭の中にある設計図は、『身体を包み込む、雲のような寝心地のベッド』。
木屑は柔らかな繊維に変わり、折れた脚は強固なフレームへと再構築される。
光が収まると、そこには――。
ふかふかのクッションが敷き詰められた、真新しいカウチベッドが鎮座していた。
「なっ……!?」
アレクセイが目を見開いて絶句している。
「魔法……? いや、今の光は……錬金術か?」
「私のオリジナル魔法よ。さあ、どうぞ。床よりはずっと寝心地がいいはずです」
私が促すと、彼は恐る恐るそのベッドに腰を下ろし、そして――ずぷん、と沈み込んだ。
「……!!」
驚愕の表情。そして次の瞬間、とろけるような顔になった。
「なんだこれは……柔らかい。まるで、母親の腕の中にいるような……」
「ふふ、即席にしては上出来ね」
どうやら気に入ってもらえたようだ。
アレクセイはベッドの感触を確かめるように何度も撫で、それから私を真っ直ぐに見つめた。
「マリエル。……君は、魔法使いなのか?」
「元公爵令嬢で、今はただのDIY好きよ」
「DIY……? よくわからないが、すごいな」
彼は真剣な眼差しで、私の手を取った。
「ありがとう。命を救ってもらっただけでなく、こんな極上の寝床まで……。この恩は、必ず返す」
その手は大きくて、熱いくらいに温かかった。
大型犬っぽいな、と改めて思う。尻尾があったら間違いなくブンブン振っているだろう。
こうして。
私の辺境スローライフ初日は、「ゴミ屋敷の掃除」と「謎の大型犬イケメンの保護」という、予想外の成果で幕を閉じたのだった。




