蛇口の向こう側
東京の安アパートで一人暮らしを始めた私。古びた蛇口を捻るたび、水の音に混じる微かな嗚咽が、私の孤独を侵食し始める。それはやがて懇願に、そして絶叫に変わり、錆びた水道管の闇を通して、私の日常と倫理観を静かに、しかし根底から覆していく。
上京して最初の住処に選んだのは、都心から電車を乗り継ぎ、さらに駅から徒歩十五分という、利便性の地図からはみ出したような場所に建つ、木造二階建てのアパートだった。築年数は、大家の曖昧な笑顔から察するに、おそらく私自身の年齢よりも上だろう。壁紙には前の住人の生活が染みのように残り、歩くたびに床は軋み、隣室の咳払いさえ筒抜けになる。そんな、プライバシーという概念が希薄な空間で、私の新しい生活は始まった。
広告代理店の末端で働く毎日は、消耗の連続だった。朝は満員電車に押し込まれ、日中は理不尽な要求と終わりの見えない修正作業に追われ、夜は疲れ果てて、ただ眠るためだけにこの四畳半の箱へと帰ってくる。友人や恋人と呼べる存在は、このコンクリートジャングルにはまだいない。唯一、私がこの部屋を「自分の城」だと認識できる瞬間は、夜半、全ての仕事を終え、小さなキッチンのシンクに向かう時だけだった。
古びた金属製の蛇口。捻ると、まず「ごぼり」と錆びた管が喘ぐような音を立て、一瞬の間を置いてから、銀色の水が吐き出される。そのありふれた光景、ありふれた水の音だけが、私がこの巨大な都市の循環系に、かろうじて接続されている証のように思えた。グラスに水を満たし、それを一気に呷る。喉を通り過ぎる冷たい感触が、一日の疲労をわずかに洗い流してくれる。その瞬間だけは、確かに、私が私であるという実感があった。
異変の兆候は、梅雨入りを告げる気怠い雨が、アスファルトを黒く濡らし続けていた夜に、訪れた。その日も私は、終電間際にアパートへ滑り込み、コンビニ弁当の空虚な味を胃に収めた後、無意識にキッチンの蛇口へと手を伸ばしていた。いつものように、レバーを捻る。ごぼり、という管の呻き。そして、迸る水の音。
その時だった。
水の流れが生み出すホワイトノイズの、その奥。鼓膜の表面を撫でるというよりは、もっと内側、頭蓋の奥で直接響くような、微かな「何か」を捉えた。それは音と呼ぶにはあまりに不確かで、空気の震えに近い、繊細なものだった。私は蛇口を捻ったまま、息を殺して耳を澄ます。
(……うぅ……)
聞こえた。間違いない。それはまるで、遠くで誰かが、声を押し殺して泣いているような、そんな音だった。嗚咽。それも、ひどく苦しそうな。
(隣の部屋か……?)
壁の薄いアパートだ。隣室の住人が、恋人と喧嘩でもしているのかもしれない。あるいは、悲しい映画でも見ているのか。私はそう結論付けようとした。だが、その音の聞こえ方は、壁の向こうから漏れてくるそれとは、明らかに異質だった。音は、壁からではない。蛇口から、水の流れそのものから、立ち上ってくるように感じられたのだ。
試しに、蛇口のレバーをそっと戻し、水の流れを止めてみる。ぴたり、と音は消えた。シンクの上に残った水滴が、ぽつり、と落ちる音だけが、静寂を際立たせる。再び、ゆっくりとレバーを捻る。チョロチョロと頼りない水流。それに合わせて、また、あの嗚咽が聞こえる。水の勢いを強めると、嗚咽もまた、水の轟音に掻き消されそうになりながら、より切迫した響きを帯びるようだった。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。布団の中で、キッチンの蛇口が、まるで闇に浮かぶ巨大な耳のように思えてならなかった。管の向こう側、このアパートの床下や壁の中を、蜘蛛の巣のように巡る水道管の、その暗闇の先で、一体何が起きているというのか。
翌日からは、私の日常に、新たな「儀式」が加わった。水を流すたびに、耳を澄ますのだ。朝の洗顔、歯磨き、トイレの後。そして、夜のシャワー。水が流れる場所であれば、どこからでも、その「声」は聞こえてきた。それは、若い女の声のように思えた。最初はただ「うぅ……」と漏らすだけだったのが、数日が経つ頃には、より具体的な言葉の断片が聞き取れるようになった。
「……やめて……」
「……痛い……」
「……誰か……」
掠れ、途切れ途切れの、懇願。それは、常に水音と共にある。水を止めれば、世界はまた元の沈黙に戻る。まるで、水という液体が、こちら側と「向こう側」を繋ぐ、唯一の媒介であるかのようだった。
私は、水を流すのが恐ろしくなっていた。シャワーを浴びていると、頭上から降り注ぐ湯の音の全てに、女の苦痛が混じり込んでいるように思える。無数の針となって、私の肌を刺すかのようだ。トイレを流す時の、タンクに水が溜まっていくあの音も、今では拷問のBGMにしか聞こえない。私は次第に、水を極力使わない生活を送るようになった。飲み水はコンビニで買うミネラルウォーター。顔を洗うのも、歯を磨くのも、ペットボトルの水で済ませた。食事は外食か、調理の必要ないものばかり。部屋は次第に不潔になり、私自身の身なりも構わなくなっていった。
会社の同僚から「最近、疲れてるんじゃないか?顔色が悪いぞ」と心配された。私は曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。この奇怪な現象を、誰に話したところで、信じてもらえるはずがない。「疲れ」や「ストレス」の一言で片付けられるのが関の山だ。その事実が、水道管の闇から聞こえる声以上に、私を深い孤独へと追いやった。この広大な東京で、この恐怖を分かち合える人間は、誰一人としていないのだ。
一週間が過ぎた頃、私は限界を感じ、ついに大家に電話を入れた。震える声で、できるだけ冷静を装いながら、事情を説明する。
「すみません、あの……水道から、少し、奇妙な音がするのですが。女の人が泣いているような……」
受話器の向こうで、大家の老婆は、面倒臭そうに、長く息を吐いた。「あんた、若いのに、疲れてるんだねぇ」その声には、同情よりも侮蔑の色が濃かった。「うちのアパートは古いからね。水道管が鳴ることは、たまにあるよ。でも、そんな気味の悪い話は、今まで一度も聞いたことないねぇ。気になるなら、業者を呼んでもいいけど、原因がなけりゃ、出張費はあんた持ちだよ?」
取りつく島もない、とはこのことだった。私は無力感に打ちのめされながら、電話を切った。
もう、自分で確かめるしかない。この声の正体を、この手で突き止めなければ、私の精神は持たないだろう。
その晩、私は意を決して、キッチンの前に立った。心臓が、肋骨の内側で激しく暴れている。私はゆっくりと、震える指で、蛇口のレバーに触れた。そして、ほんの少しだけ、それを捻る。
チョロチョロチョロ……。
か細い水流と共に、あの声が聞こえてくる。だが、今夜は、少し様子が違った。
「……お願い……」
その声は、これまでよりも、はっきりと、私の耳に届いた。
「……開けて……ここから、出して……」
それは、紛れもない、助けを求める声だった。管の向こう側、暗く冷たい水の牢獄に囚われた誰かが、私に、解放を懇願している。これは幻聴などではない。狂気でもない。厳然たる「現実」なのだ。
私はゴクリと、渇いた喉を鳴らした。恐怖と、そして、奇妙な使命感が、胸の中でせめぎ合っていた。もし、私が彼女を助けられるとしたら?この蛇口が、唯一の出口なのだとしたら?
「どうすればいいんだ……?」
私は、思わず声に出していた。すると、まるで私の問いに応えるかのように、声が返ってきた。
「もっと……もっと水を流して……流れが、私を、外へ……運んでくれる……」
そうだ、そうなのかもしれない。強い水流が、彼女を管の中から押し出してくれるのかもしれない。私は、わずかな希望に、震える指で、レバーをさらに捻った。水の勢いが、少し増す。
「ああ……ありがとう……もう少し……」
声には、安堵の色が滲んでいた。私は、その声に励まされるように、さらにレバーを捻り、ついに蛇口を全開にした。
ゴオオオオオオオッ!!
凄まじい轟音が、狭いキッチンに響き渡る。銀色の奔流が、シンクのステンレスを激しく叩き、飛沫を上げて跳ね返る。その瞬間、声は、歓喜から一転、凄絶な絶叫へと変わった。
「やめて!やめてやめてやめて!痛い!痛い!水が、水が多すぎるの!潰される!溺れる!!溺れてしまう!!!」
鼓膜を突き破るような金切り声。それは、水が持つ暴力的なエネルギーそのものに、肉体を打ち据えられているかのような、生々しい苦痛の叫びだった。私は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、反射的に蛇口のレバーを押し戻した。
ぴたり、と水が止まる。
絶叫も、同時に、消えた。
静寂が戻った部屋で、私の心臓だけが、警鐘のように激しく鳴り響いていた。シンクの中に溜まった水が、ちゃぷり、と小さな音を立てる。私は、その水面を見つめながら、呆然と立ち尽くしていた。
どういうことだ。一体、どうなっている。
助けを求めるから、水を流した。
だが、水を流せば、彼女は絶叫する。
これは、罠だ。
私を試しているのだ。私の良心を、私の罪悪感を、弄んでいるのだ。私が蛇口を捻るたび、彼女は私の手によって、救われ、そして苦しめられる。その矛盾した状況を、彼女は、管の向こう側で、楽しんでいるのではないか。
その考えに至った瞬間、背筋を、氷のように冷たいものが駆け上った。恐怖と同時に、私の中に、これまで感じたことのない、黒く、淀んだ感情が芽生えるのを感じた。それは、怒りであり、そして、歪んだ好奇心だった。
私は、もう一度、蛇口に手を伸ばした。
今度は、ゆっくりと、慎重に、まるで精密機械を操作するように、レバーを捻っていく。
チョロチョロ……。
「……ありがとう……優しいのね……」
安堵した、甘えるような声。
さらに、少しだけ捻る。
「……ああ……気持ちいい……満たされていく……」
恍惚とした、吐息混じりの声。
さらに、ほんの僅か、力を込める。
「……う……ぁ……?待って……少し、多い……かも……」
戸惑いと、怯えの滲む声。
そして、さらに、一ミリだけ、レバーを押し込む。
「いやっ!やめて!言ったでしょ!多いって!お願いだからやめて!!」
悲鳴。
私は、その声の変化を、まるで指揮者がオーケストラの音色を操るかのように、楽しんでいる自分に気づいた。蛇口のレバー一つで、私は、見えざる彼女に、天国と地獄の両方を与えることができるのだ。私は神にでもなったかのような、全能感を覚えていた。孤独なアパートの一室で、誰にも認められず、消耗するだけだった私が、初めて、他者の感情を、その命運すらも、完全に支配している。
私は、泣いていた。
なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。それは、彼女への同情からくる涙ではなかった。大粒の涙が、後から後から溢れてきて、頬を伝う。嗚咽を漏らした。だが、その嗚咽は、悲しみからではなく、もっと別の、名状しがたい感情の高ぶりからくるものだった。それは、あまりにも強烈な、自己肯定の感覚だった。
ああ、そうか。彼女は、私を煽っているのだ。私の心の最も暗い部分を、最も醜い欲望を、見透かした上で、それを引きずり出そうとしている。そして、私は、まんまと、その挑発に乗っている。いや、乗りたかったのだ。心の底から。
私は、ゆっくりと顔を上げた。キッチンに備え付けられた、安物の小さな鏡に、自分の顔が映っていた。その口元は、歪んだ弧を描いていた。それは、喜びの表情だった。だが、それは、誰かと笑い合うような、暖かな喜びではない。それは、幼い子供が、蟻の行列を気まぐれに踏み潰し、その小さな世界の混乱を眺めて楽しむときのような、無邪気で、純粋で、そして底知れぬほどに残酷な、【幼い喜び】の形をしていた。
私は、自分の意志で、再び蛇口を全開にした。
「ああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
轟音に負けないほどの絶叫が、管の向こうから響き渡る。だが、もう、私の心は少しも痛まなかった。その絶叫は、私の歪んだ全能感を証明する、祝砲のようにさえ聞こえた。
水は、流れ続けている。無駄に、大量に、シンクから溢れ、床へと広がっていく。階下への水漏れなど、もうどうでもよかった。
ああ、聞こえる。今日も、彼女の啼き声が。
蛇口の向こう側から、私を呼んでいる。
私の「慈悲」を、そして、私の「加虐」を、求めて。
そして私は、喜んで、それを与え続けるだろう。
この乾いた都市で、私たちが、互いだけが、唯一の存在理由なのだから。