過去と現在
2025年6月15日、日曜日。久留米市荒木町の栄光学園には、昨日から続く雨のせいで、重く澱んだ空気が満ちていた。校舎のガラス壁は、曇天を映し出し、まるで塾全体が深い霧に包まれているかのようだ。捜査本部の一角で、篠原朔は塾のネットワークの深層へと潜り続けていた。神崎悟のPCに残された謎の「ゴーストコード」、そして監視カメラのノイズとWi-Fiログの異常な履歴。それらは全て、この塾に隠された「闇」を指し示している。
山下刑事は、朔の隣で報告書を睨みつけながら、焦燥感を募らせていた。物理的な証拠が皆無に等しい中、朔が引き出すデジタルな情報だけが、事件の糸口となる唯一の光だった。朔は、山下の視線を背中に感じながらも、その集中力を途切れさせない。彼の意識は、塾のサーバーへと深く、深く没入していく。
朔がまずアクセスしたのは、生徒の成績データだった。過去15年分の全国統一模試、定期テスト、そして塾内テストの膨大な数値が、彼のディスプレイに羅列される。それは、生徒一人ひとりの努力と、その結果が冷徹に数値化された、栄光学園の「歴史」そのものだった。朔は、そのデータの中から、不自然な成績の変動や、特定の生徒に偏った高得点など、「異常値」を検出するアルゴリズムを走らせた。
やがて、ディスプレイに、複数の生徒の成績データがハイライト表示された。その中には、かつて朔自身が塾にいた頃、彼が発見した「ある不正行為」の痕跡に酷似するパターンが含まれていたのだ。特定の時期に、Sコースの生徒の模試成績が、不自然なまでに高く修正されていた。そして、その修正が、通常ではありえない方法で、つまり正規のシステムログに残らない「裏口」から行われていたことが、データから示唆された。
朔の指が止まる。彼の脳裏で、15年前の記憶が、濁流のように押し寄せ始めた。あれは、彼がSコースの特待生として、まだこの塾にいた頃のことだ。彼は、塾のオンラインシステムに入り込み、Sコースの生徒たちの成績データにアクセスしたことがあった。その時、彼が見つけたのは、特定の生徒の模試成績が、不自然に高く修正されているという、信じられない事実だった。それは、一人や二人ではない。複数の生徒のデータが、巧妙に、しかし確実に上げられていたのだ。
当時の朔は、その事実を、担当講師である森下健一に報告した。森下は、朔の報告に耳を傾け、その表情を曇らせた。しかし、数日後、森下は朔にこう告げた。「朔、君が見たものは、システムの誤作動だ。この件は、もう忘れなさい」。その言葉には、森下の内心の葛藤と、そしてそれを口にすることを許されない、ある種の「圧力」が滲んでいた。朔は、森下の目が、何かを「隠している」ことを感じ取った。
朔は当時、未熟ながらも、そのデジタルな才能はすでに突出していた。彼は、自らのハッキングスキルを駆使し、その不正が、塾長である坂本龍二の指示によって行われたものであることを突き止めていたのだ。それは、塾の合格実績を水増しするための、組織的な不正だった。彼は、その証拠を坂本に突きつけようとした。しかし、その直前、坂本から直接呼び出された。坂本は、穏やかな笑顔で朔を褒め称え、その才能を高く評価すると同時に、「この塾の未来のために、時には見て見ぬ振りをすることも必要だ」と、遠回しに、しかし明確に警告したのだ。朔は、その時、この「栄光学園」という場所が、彼の想像以上に深く、汚れた「闇」を抱えていることを悟った。彼の正義感は、その巨大な闇の前に、無力なまでに打ち砕かれた。
その一件以来、朔は塾での居場所を失ったかのように感じた。彼は周囲からさらに孤立し、人との関わりを極力避けるようになった。デジタルな世界だけが、彼が真に信頼し、自由に振る舞える場所だった。彼の「コミュニケーションは苦手」という性質は、この時の経験が大きく影響していた。彼は、人間の言葉が、いかに簡単に「嘘」や「隠蔽」の道具となるかを知ってしまったのだ。
そして今、朔は、当時の不正が、今回殺された神崎悟が開発していたAI採点システムによって、自動的に検出されるようにプログラムされていたことを知った。神崎は、過去の不正を暴こうとしていたのだ。そのAI採点システムは、塾の深部に眠る「ゴーストコード」を掘り起こすための「鍵」だった。
朔は、次に講師の勤務記録へとアクセスした。そこには、森下健一、浅井美咲、そして神崎悟の勤務時間、担当生徒数、個別指導の記録などが、詳細に記録されていた。そして、そのデータの中に、朔は、ある奇妙な関連性を見つけ出した。
森下健一の勤務記録と、過去の成績改ざんが行われた時期が、不自然なほどに重なっていたのだ。特に、不正が行われたとされる時期に、森下がシステムにアクセスした不審なログがいくつか見つかった。それは、正規のアクセス権限ではありえない、通常ではありえない時間帯やIPアドレスからのアクセスだった。それは、彼が不正な手段で、塾のシステムに「裏口」から侵入し、成績を操作していた可能性を示唆していた。
朔は、さらに深く掘り下げた。森下健一が担当していたSコースの生徒の中には、過去の不正で成績が改ざんされた生徒が、複数含まれていた。そして、その生徒たちの多くは、その後、難関大学へと進学し、栄光学園の「合格実績」として、塾のパンフレットやウェブサイトに大々的に掲載されていたのだ。
「森下…」
朔の唇から、微かな声が漏れた。彼の脳裏で、森下健一の顔が、あの時の不自然な笑顔と共に蘇った。彼は、塾長である坂本の指示を受けて、あるいは自らの保身のために、不正な成績操作を行っていたのではないか? そして、その不正が、神崎のAI採点システムによって暴かれることを恐れ、神崎を殺害したのか?
山下刑事が、朔の隣で唸り声を上げた。彼の目もまた、朔のディスプレイに映し出された、森下健一に関する異常なログに気づいていた。
「これは…森下講師が、過去に不正に関与していた可能性があるということか?」
山下の声には、驚きと、そして確かな確信が混じっていた。彼は、朔がなぜ、ここまでこの事件に深入りするのか、その理由を、今、完全に理解した。朔自身が、この塾の「闇」を、過去に経験していたのだ。
「可能性ではない。これは、不正の痕跡だ」
朔は、冷徹な声で答えた。
「森下は、過去の不正がAI採点システムによって暴かれることを恐れていた。彼のPCのログには、神崎のAI導入が『自分のキャリアを脅かす』という言葉が残されていた」
山下は、神崎のPCから復元された、森下と神崎のメールのやり取りを思い出す。森下は、AIの導入が講師の仕事を奪うと強く反発していたが、それは建前だったのかもしれない。真の理由は、彼自身が関与した「過去の不正」が暴かれることへの恐怖だったのだ。
次に朔は、塾の生徒間のやり取り、特にオンライン学習システムのチャットログや、塾内のSNSのようなプラットフォームの履歴にアクセスした。そこには、Sコースの生徒たちと、AコースやBコースの生徒たちの間の、見えない「壁」が、言葉の端々から感じ取れた。Sコースの生徒たちの優越感、AコースやBコースの生徒たちの劣等感と、そこから生まれる嫉妬や反感。そして、成績格差による、陰湿ないじめの痕跡も、チャットログの奥底に隠されていた。
あるBコースの生徒が、チャットでこう書き込んでいた。
「Sコースの奴ら、どうせコネか金だろ。本当の実力じゃねぇくせに」
別の生徒は、
「また〇〇が模試でA判定だって。あいつ、前はBだったのに急に伸びすぎじゃね? なにか裏があるんじゃねぇの」
そういった不満や疑念の声が、塾のネットワークの片隅に、まるで「ゴースト」のように漂っていたのだ。そして、その不満の矛先は、時に、成績が不自然に伸びたSコースの生徒たちへと向けられていた。彼らが、不正の「受益者」だったのだ。
朔の脳裏には、過去の記憶と、現在のデジタルな証拠が、複雑な螺旋を描いて絡み合っていくのが見えた。神崎は、この塾の「闇」を、AIという名の光で照らし出そうとしていた。その闇は、坂本塾長の「合格実績」への執着から生まれ、森下講師のような人間が、その片棒を担ぎ、そして、生徒たちの間に、いじめという形で歪んだ感情を生み出していたのだ。
夜が深まり、久留米の街は、深い霧に包まれ始めた。栄光学園の校舎は、その霧の中に、まるで全てを飲み込むかのように、沈黙して佇んでいる。朔は、ディスプレイに映し出された、森下健一に関する異常なログを凝視した。そのログは、彼が犯人である可能性を強く示唆していた。
しかし、同時に、朔の心には、別の疑問も浮かび上がっていた。森下は、本当に単独で犯行に及んだのか? あるいは、彼を操る、さらに大きな「闇」が、この塾には潜んでいるのではないか? 15年前、朔自身を諦めさせた、あの巨大な力。それは、坂本塾長の存在なのか、それとも、この塾そのものが持つ、見えない「システム」の歪みなのか。
朔の指先が、キーボードへと伸びる。次に彼が解読すべきは、森下健一が隠そうとした「真実」であり、そして、この栄光学園という「迷宮」の最深部に隠された、真の「ゴーストコード」の正体だった。彼の孤独な戦いは、まだ終わらない。そして、その戦いの先には、彼自身の過去と、この塾の未来が、絡み合ったまま、彼を待ち受けている。
神崎悟の死と、15年前の「不正」の残滓が、彼の脳裏で螺旋を描くように絡み合い、真犯人の輪郭を浮かび上がらせていた。山下刑事は、朔が解読するデジタルな「闇」の言葉に、息を呑みながら耳を傾けていた。
朔は、神崎のPCから復元した、あのAI採点システムのコードに再び集中した。それは単なる採点プログラムではなかった。そのシステムには、驚くべき機能が搭載されていた。不正行為を自動的に検出する機能だ。生徒の解答パターン、学習進捗の不自然な飛躍、模試における異常な得点変動。それら全てをAIが解析し、人の目には見えない、しかし確実な「不正の兆候」を警告するアルゴリズムが組み込まれていたのだ。
朔の指が、その不正検知モジュールのコードを追いかける。そして、そのモジュールが参照するデータベースの中に、特定の生徒の過去の成績データと、そのデータに対する「手動での修正履歴」を発見した。それは、まさに朔自身が15年前に発見した、あの「成績改ざん」の痕跡だった。神崎は、この塾に長年潜んでいた「闇」を、自身のAIで暴こうとしていたのだ。そのシステムが稼働していれば、特定の人物の、あるいは複数の人物の過去の不正が、白日の下に晒される可能性があった。それは、栄光学園の「合格実績」という虚飾を打ち砕き、塾の根幹を揺るがすほどの破壊力を持っていた。
朔は次に、講師たちのデジタルな痕跡を深く掘り下げた。特に、神崎のAI採点システムの導入に反対していたとされた、森下健一と浅井美咲のデータに焦点を当てる。彼らが表向きに語っていた反対理由の裏に、別の「闇」が隠されていることを、朔はすでに直感していた。
まず、朔は浅井美咲講師のPCに残されたデータにアクセスした。彼女のPCから復元された神崎とのメールのやり取りは、山下刑事の聴取では語られなかった、より深刻な内容を含んでいた。当初、彼女はAI導入に理解を示していたが、次第に焦燥感を募らせていく。
「神崎先生、お願いです。この件は、もう少し慎重に進めていただけませんか。私の…私の人生がかかっているんです。」
そのメールの後に続くのは、断片的なメモのデータだった。
「あのAIが、私の過去を暴く…? そんなはずは…。」 「もし、あれが明るみに出たら、私は終わりだ。」
朔は、浅井の過去の経歴に関する情報を、塾のデータベース、そして外部の公開情報と照合した。すると、決定的な矛盾が見つかった。彼女は、公式にはとある難関国立大学の卒業生として採用されていたが、その大学の卒業名簿には、彼女の名前は存在しなかったのだ。彼女は、自身の学歴を偽って栄光学園の講師となっていた。
神崎のAI採点システムは、その高度な解析能力によって、浅井の現在の指導内容や生徒の反応、そして彼女の過去の学力データを総合的に判断し、その「経歴詐称」を検出する可能性があった。例えば、特定の専門分野の知識に著しい偏りが見られたり、彼女が指導した生徒の成績に、過去の経歴からは説明できない不自然な傾向が見られたりした場合、AIはそれを「異常」として警告するだろう。浅井にとって、神崎のAIは、自身のキャリアと人生を賭けた「虚偽」を暴き出す、まさに「死神」のような存在だったのだ。
朔は、浅井のPCから、事件直前に神崎に送ろうとしていた、しかし未送信のまま残されたメールを発見した。そこには、神崎に対する必死の懇願と、そして明確な「脅迫」の言葉が綴られていた。
「神崎先生、どうか思いとどまってください。もし、私がこの塾を追われることになったら、先生が開発中のシステムについても、全てを公にします。先生の『理想』も、台無しになりますよ。」
それは、浅井が自身の秘密を守るために、神崎の「理想」を人質に取ろうとした、絶望的な試みだった。このメールが、神崎との口論の引き金となり、そして殺意へと発展した可能性は十分にあった。しかし、山下刑事の聴取で、浅井はこのメールの存在を頑なに否定していた。彼女の偽りの顔の裏で、恐怖と焦燥が渦巻いていたのだ。
次に、朔は森下健一講師のデータに焦点を移した。彼は表向き、AI導入が講師の仕事を奪い、教育の本質を見誤ると強く反発していた。しかし、朔が発見した神崎のPCのログには、森下の言動とは全く異なる、「秘密のやり取り」が隠されていた。
神崎のPCの深層に隠された暗号化ファイル。それを朔が解読すると、そこには、森下の「家族に関するデリケートな情報」が保存されていたのだ。それは、森下の息子の私立大学入学に関する「裏口入学」の疑惑と、それに伴う多額の「不正な寄付金」のやり取りに関する、具体的な証拠だった。そして、その情報が、森下と神崎の間で密かに共有されていた履歴があった。
それは、神崎が森下の「弱み」を握っていたことを明確に示していた。森下は、決してその不正が外部に漏れることを許されない立場だった。彼の家族、彼の名誉、そして彼の築き上げてきたキャリアの全てが、その秘密によって脅かされる。神崎は、この情報を盾に、森下に対してAI採点システムの導入に「協力」するよう圧力をかけていた可能性があったのだ。
神崎のPCには、森下から送信された、脅迫とも取れるメールも残されていた。
「神崎、その件をこれ以上、深く探るな。もし私の家族に何かあったら、お前はただでは済まない。私は、お前の『理想』など、木っ端微塵にしてやることもできるのだぞ!」
森下の表向きのAI反対の理由は、自身のキャリアと教育理念を守るため、という建前だった。しかし、その真の理由は、神崎に握られた「家族の秘密」が暴かれることへの、具体的な恐怖だったのだ。彼は、神崎のAIが、自分の不正を暴くだけでなく、その発端となった自身の家族の秘密までも暴露するのではないかと恐れていた。
朔は、塾のネットワーク全体を再度スキャンし、過去の膨大なデータを、新たな視点で解析し直した。塾長・坂本龍二のPC、事務員のPC、そして生徒たちのオンライン学習履歴。全てが、絡み合った螺旋のように、事件の闇へと繋がっていく。
坂本塾長のPCからは、森下の息子が入学した私立大学への「高額な寄付金」の記録が、いくつかの不審な取引と共に発見された。それは、塾の経費として計上されていたが、その金額と時期は、森下の息子がその大学に入学した時期と奇妙なほどに合致していた。坂本もまた、この「不正」に深く関与していた可能性があった。彼もまた、神崎のAIが、塾の「栄光」の裏に隠された「闇」を暴くことを恐れていたのではないか?
久留米の夜は、深く、そして重い沈黙に包まれていた。栄光学園の校舎は、その闇の中に、無数の秘密を抱え込んだままだ。朔は、ディスプレイに映し出された、浅井美咲と森下健一、そして坂本龍二の間に横たわる、複雑な人間関係と、それぞれの「ゴースト」を見つめる。
神崎悟は、この塾の「闇」を、AIという名の光で照らし出そうとしていた。しかし、その光は、それぞれの心に潜む「秘密」を暴き、それが、彼を死へと追いやったのだ。浅井の「虚偽」、森下の「家族の秘密」、そして坂本の「栄光への執着」。それら全てが、絡み合った螺旋のように神崎を締め付け、そして、誰かが、彼を「沈黙」させた。
朔は、自身の脳裏で、あの15年前の不正の記憶が、今、神崎の死と完璧に重なり合うのを感じていた。彼は、この事件の真犯人を特定し、その「闇」を白日の下に晒すことを誓った。それは、彼自身の「贖罪」であり、そして、かつての無力な自分を乗り越えるための、唯一の道だった。
彼の指先が、キーボードへと伸びる。次に彼が解読すべきは、この複雑に絡み合った人間の思惑と、デジタルな痕跡の狭間に隠された、真の「殺意」のコードだった。この塾に潜む「ゴースト」は、一体誰なのか。そして、そのゴーストは、何を隠そうとしているのか。朔の孤独な戦いは、まだ終わらない。