表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

デジタルとアナログの手がかり

栄光学園の一角に設けられた仮設の捜査本部。その片隅で、篠原朔は、山下刑事から提供された簡易なワークステーションの前に座っていた。質素なデスク、安物のオフィスチェア。自宅の環境とは似ても似つかないが、彼の指がキーボードに触れた瞬間、周囲の喧騒は彼にとって意味をなさなくなった。彼の意識は、すでに栄光学園のネットワークの深層へと潜り込んでいた。

警察のデジタル捜査班は、神崎悟のPCに残された謎のアクセスログに手こずっていた。彼らにとってそれは、解読不能な「ゴースト」のような存在だった。だが、朔にとっては違った。そのログの断片は、まるでパズルのピースのように、彼の脳裏で瞬時に再構築されていく。15年前、彼自身がこの塾のシステムに潜り込み、あの「不正」の痕跡を見つけ出した時の記憶が、彼の指先と共鳴していた。

朔は、事前に山下刑事から手渡された、神崎のPCのイメージファイルを、自分のデバイスにコピーしていた。通常の捜査では許されない行為だが、山下は朔の「非合法スレスレのハッキング技術」が、この事件を解く唯一の鍵だと直感していた。朔は、そのイメージファイルを解析しながら、同時に塾の内部ネットワークへのアクセスを試みる。それは、塾のルーターを経由して、メインサーバーへの「裏口」を探る作業だった。

数分後、朔のディスプレイに、青白いコードの羅列が流れ始める。彼は、塾のファイアウォールを迂回し、正規の認証システムを欺くための、彼独自の「ゴーストコード」を送り込んでいた。それは、システムにとって「存在しない」かのように振る舞いながら、深層へと潜り込んでいく、まるで幽霊のようなプログラムだった。

「…入れた」

朔の唇から、微かな呟きが漏れる。彼の瞳が、ディスプレイの光を反射して、鋭く光った。彼は、栄光学園のメインサーバーへのアクセス権を獲得したのだ。そこには、生徒の個人情報、成績データ、模試の結果、講師の勤務記録、そして過去のオンライン学習システムの膨大なログが、まるで層をなす地層のように積み重なっていた。

最初に彼が向かったのは、神崎悟のワークスペースだった。彼のPCの残されたログデータは、警察にはただのノイズに見えたが、朔には、そこに隠された「意味」が見えていた。神崎が、死の直前まで行っていた作業。それは、オンライン学習システムのバグ修正という名目だったが、朔は、そのコードの中に、不自然な、そして見慣れないコードの断片を見つけ出した。

そのコードは、既存のオンライン学習システムとは全く異なる、新たなアルゴリズムを含んでいた。それは、生徒の学習データ、解答のパターン、そして全国統一模試の成績データを複合的に解析し、個々の生徒の「真の学力」と「潜在能力」を算出するようなものだった。さらに、特定の解答パターンや不自然な成績の伸びを検出し、「不正」の可能性を警告するモジュールまで組み込まれていた。

「AI採点システム…」

朔は、そのプログラムの正体を看破した。神崎は、単なるオンライン学習システムのバグ修正をしていたのではない。彼は、既存の評価システムに疑問を抱き、より公平で、より正確な「真実」を導き出すための、次世代のAI採点システムを独自に開発していたのだ。

朔は、そのAI採点システムのプログラム構造を、さらに深く掘り下げていく。すると、そのシステムの深層に、ある「リスト」が隠されているのを発見した。それは、過去の全国統一模試において、不自然な成績の上昇を見せた生徒たちのデータだった。そのリストには、日時、生徒ID、修正前の成績、修正後の成績、そして「修正者」のIPアドレスらしきものが記録されていた。それは、かつて朔自身が見つけた、あの「不正行為」の痕跡に酷似していた。

「まさか…」

朔の心臓が、微かに脈打つ。神崎は、15年前の不正に気づき、それをAI採点システムで暴こうとしていたのではないか? もし、このシステムが完成し、稼働していれば、塾長である坂本が長年隠蔽してきた「合格実績の水増し」や、特定の生徒の成績操作といった、塾の根幹を揺るがすスキャンダルが白日の下に晒される可能性があった。

山下刑事が、朔の背後に近づいてきた。彼は、朔が黙々とディスプレイに向かっているのを見ていたが、その集中力と、彼から放たれる異様な雰囲気に、声をかけられずにいた。しかし、朔の顔に浮かんだ微かな変化に気づき、口を開いた。

「どうだ、何か見つかったか?」

朔は、振り返らずに答えた。彼の視線は、まだディスプレイの奥に潜んでいた。

「…神崎は、AI採点システムを開発していた」

山下の眉間に皺が寄る。「AI採点システム? それが、どうした?」

「そのシステムは、不正を検出する機能を備えていた。そして、そのシステムが稼働していれば、この塾の過去の『不正』が暴かれていた可能性がある」

朔の言葉に、山下の顔色が変わる。彼は、朔がなぜこの事件に深入りしようとするのか、その理由の一端を理解した。朔自身が、この塾の「過去の不正」を知っているのではないか?

「不正だと? 何の不正だ?」

「全国統一模試の成績改ざん。特定の生徒の成績が、不自然に修正されていた形跡がある。それは、神崎のAI採点システムが、自動的に検出するようにプログラムされていた」

山下は息を呑んだ。それは、彼らが現在追っている殺人事件の動機に直結する可能性があった。神崎が、その不正に気づき、あるいはそれをシステムで暴露しようとしたために殺されたとしたら…。

朔は、さらに解析を進める。神崎のPCから見つかったデータは、彼が他の講師たち、特に森下健一と浅井美咲と、このAI採点システムについて激しく衝突していたことを示していた。

森下健一は、AIの導入が講師の仕事を奪うと強く反発していた。彼のPCのログには、神崎との激しいメールのやり取りが残されていた。森下は、新しいシステムが講師の「経験と勘」を軽視していると主張し、その導入に強く反対していた。しかし、その反発の裏には、別の理由があるのかもしれない。彼自身が、過去の不正に関わっていた可能性は? 彼の指導する生徒の成績に、不自然な操作があったのか?

浅井美咲講師は、当初はAI導入に理解を示しているようだったが、その後のログでは、神崎に対する不信感が顕著になっていた。彼女のPCには、神崎のAI採点システムが、自身の「経歴詐称」を暴く可能性があったことを示唆するような、焦燥感に満ちたメモが残されていた。彼女は、特定の難関大学出身ではないにも関わらず、それを偽って栄光学園の講師となっていた。もし、AIが彼女の過去の学力データを解析し、その矛盾を検出することができれば、彼女の講師としてのキャリアは終わりを告げるだろう。

朔は、塾のネットワークをさらに深く探索する。すると、メインサーバーのアクセスログに、定期的に行われている「バックアップ」の記録とは別に、不審な「削除済みデータ」の痕跡を発見した。それは、通常のシステムからは見えない、しかしデジタルな「残滓」として、サーバーの片隅に残されているデータだった。まるで、意識的に消されたにも関わらず、その「影」だけが残っているかのようだった。

「削除されたはずのファイル…これだ」

朔は、その痕跡を辿り、削除されたデータを復元しようと試みる。それは、非常に高度な技術を要する作業だった。犯人は、徹底的に痕跡を消そうとしたのだろう。だが、デジタルの世界において、完全に「消去」するということは、極めて困難なことだ。必ず、どこかに「ゴースト」のような足跡が残る。

復元されたファイルは、いくつもの暗号化されたデータと、破損した画像ファイル、そして意味不明な文字列の羅列だった。朔は、それらを一つずつ解読していく。それは、過去の不正と、現在の殺人事件を繋ぐ、見えない「鎖」だった。

山下刑事は、朔の隣で、彼がディスプレイに表示している複雑なデータを見つめていた。何が起こっているのか、全てを理解することはできない。しかし、朔の指先が紡ぎ出すコードが、事件の闇を少しずつ切り裂いているのを感じた。

「おい、篠原。お前は…何を追っているんだ?」

山下の問いに、朔はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳は、疲労の色を帯びていたが、その奥には、冷徹なまでの探究心が宿っていた。

「ゴーストコードだ」

朔は、そう呟いた。

「この塾に、15年前から潜んでいる、見えない、しかし確実に存在する『不正のコード』。神崎悟は、それを暴こうとしていた。そして、そのコードに触れたために、殺されたのかもしれない」

山下は息を呑んだ。この事件は、単なる講師間の軋轢や、金銭問題に端を発する殺人ではない。それは、この栄光学園という場所が、長年にわたって隠蔽してきた「闇」が、今、神崎の死をきっかけに、再び蠢き始めたのだ。そして、その闇の核心には、デジタルな「ゴーストコード」が潜んでいる。

朔の指が、再びキーボードへと伸びる。彼は、この栄光学園という巨大な「螺旋」の中に潜む、真の「ゴーストコード」を解読し、全ての「闇」を白日の下に晒すことを誓った。彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。

栄光学園の校舎に、重く湿った空気が澱んでいた。昨夜の殺人の痕跡を隠すかのように、消毒液の匂いが、死臭と混じり合って鼻腔を刺激する。捜査本部の一角で、篠原朔は神崎悟のPCから復元したデータ群と格闘していた。彼の隣には、山下刑事の険しい顔がある。朔が神崎のAI採点システムの存在とその不正検知機能を明らかにして以来、山下の疑惑は、塾の内部へと深く、深く潜り込んでいた。

神崎のPCの深層から引き出されたログは、彼の開発が、単なる技術的な試みではなかったことを雄弁に物語っていた。そこには、他の講師、特にベテランの森下健一と、若手の浅井美咲との、激しい「衝突」の記録が残されていたのだ。それは、単なる意見の相違ではなかった。そこには、人間の持つ焦燥、不安、そして隠された秘密が、デジタルな文字の羅列となって刻まれていた。

山下刑事は、そのログを朔から受け取り、森下健一と浅井美咲への再聴取に臨んだ。朔は、その様子を、まるで遠い世界の出来事であるかのように、しかしその実、一点の曇りもなく集中して、自分のディスプレイ越しに追っていた。警察の捜査網に映し出される、それぞれの人物の言動は、朔が見つけた「ゴーストコード」の示す方向と、奇妙なほどに合致していた。

最初に山下刑事が呼び出したのは、ベテラン数学講師、森下健一だった。彼の顔には、普段の厳しさとは異なる、しかしどこか疲弊したような影が差していた。彼は、栄光学園が誇る「合格請負人」であり、長年の経験と実績でSコースの生徒たちを指導してきた。

「神崎講師が開発していたAI採点システムについて、お伺いします。あなたは、その導入に強く反対していたと聞いていますが、間違いありませんね?」

山下の声は、静かだったが、その中に潜む圧力に、森下はわずかに顔を硬直させた。

「ええ、その通りです。私は、AIなどという機械的なものが、生徒の学力を正確に測れるとは到底思えません。数学というものは、単なる公式の暗記や計算能力だけではない。思考のプロセス、発想の柔軟性、そして何よりも、生徒一人ひとりの個性…そうしたものは、AIには決して読み取れないでしょう。」

森下の声には、教育者としての揺るぎない信念が感じられた。だが、朔は、ディスプレイのログに目を落とす。神崎のPCには、森下との激しいメールのやり取りが残されていた。そこには、単なる教育理念の相違を超えた、もっと感情的な言葉が飛び交っていたのだ。

「森下先生は、ご自身の経験則が絶対だとお思いのようですが、データは嘘をつきません。旧来の採点方式では見落とされてきた真実が、AIによって明らかになるでしょう。」

「生意気な! お前のような若造に、長年培ってきた私の教育が否定されるいわれはない! その機械が、生徒の苦悩や努力を理解できるとでも言うのか!」

朔には、森下の言葉の裏に、別の感情が隠されているのが見えた。それは、単なるAIへの不信感ではない。彼のキャリア、彼の存在意義そのものが、神崎のAI採点システムによって脅かされることへの「恐怖」だった。AIが、彼の長年の指導法や、彼が作り上げてきた「実績」の裏側を暴き出すことを、彼は恐れていたのかもしれない。特にSコースの模試において、もし過去に不自然な成績操作が行われていたとしたら、それを最も知り得る立場にいたのは、彼自身である可能性も否定できない。彼の反発は、自分の「聖域」が侵されることへの、必死の防衛本能だったのだ。

次に、山下刑事が呼び出したのは、若手英語講師の浅井美咲だった。彼女の顔には、憔悴の色が濃く、その瞳は、何かを怯えているかのように揺れ動いていた。彼女は生徒からの人気も高く、栄光学園の「顔」とも言える存在だった。

「浅井講師、あなたは神崎講師のAI採点システムについて、どう思っていましたか?」

山下の問いに、浅井は唇を噛んだ。

「最初は…理解しようとしました。神崎先生は、新しい技術で教育をより良くしたいと、熱心に語っていましたから。でも…彼のやり方は、あまりにも急進的でした。生徒の個性よりも、データ、データって…」

彼女の声は震え、途中で言葉が途切れた。その視線は、虚空を彷徨い、まるで何か見えないものに怯えているかのようだった。朔のディスプレイには、浅井美咲のPCから復元された、彼女自身のメモの断片が表示されていた。

「あのAIが完成したら、まずい。私の経歴が…」

そのメモが示すものは、浅井美咲の「経歴詐称」だった。彼女は、特定の難関大学出身ではないにも関わらず、それを偽って栄光学園の講師となっていた。もし、神崎のAIが、彼女の過去の学力データや、履歴書と矛盾する情報を検知するモジュールを搭載していたとしたら、彼女のキャリアは一瞬にして崩壊する。彼女の焦燥は、自身の「虚偽」が暴かれることへの、具体的な恐怖だったのだ。

朔は、ログをさらに深掘りする。浅井のPCから、神崎宛に送信された、しかし未送信のまま残されていたメールが見つかった。そこには、神崎への懇願と、脅迫とも取れる言葉が混じり合っていた。

「お願いです、神崎先生。あのシステムだけは…私の全てがかかっているんです。もし、私が塾を辞めることになったら、先生も…ただでは済みませんよ。」

それは、浅井が自身の秘密を守るために、神崎を脅迫していた可能性を示唆していた。しかし、その脅迫が、殺意へと昇華したのか? 朔の脳裏には、複雑な人間関係の網目が、さらに深く、そして複雑に絡み合っていくのが見えた。

山下は、二人の講師の証言と、朔が提供したデジタルな証拠の断片を照合しながら、眉間の皺を深くしていた。彼らは皆、何かしらの「隠したいこと」を抱えている。それは、神崎の死とどう繋がるのか? 栄光学園という閉鎖的な空間で、教育という名の「光」の下で、人間の「闇」が渦巻いている。山下には、それがひどく不気味に感じられた。

塾長である坂本龍二の証言は、依然として掴みどころがなかった。彼は、神崎のAIシステムについては「彼の熱意を買っていたが、まだ試験段階だった」と述べるに留まった。しかし、彼のPCのログには、神崎との間で、塾の「経営方針」や「合格実績の公表方法」について、密かに話し合われた形跡があった。そこには、塾の評判を維持するためならば、時に「不都合な真実」を隠蔽することも辞さないという、坂本の冷徹な経営哲学が透けて見えた。神崎のAIが、その「不都合な真実」を暴き出そうとしていたとしたら、坂本こそが、最も動機を持つ人物の一人となる。

朔は、モニター上のログデータを眺めながら、それぞれの人物が持つ「ゴースト」を思い描いていた。森下の「経験と実績」という名のプライドのゴースト。浅井の「虚偽の経歴」という名の秘密のゴースト。坂本の「栄光」という名の執着のゴースト。それらのゴーストが、神崎のAIという「真実の目」によって暴かれることを恐れ、殺意へと変貌したのかもしれない。

久留米の空は、いつの間にか雨が止み、代わりに重い霧が立ち込めていた。栄光学園の窓ガラスは、その霧を反射し、まるで内部の不穏な空気を閉じ込めているかのようだ。朔は、神崎のPCに残された「ゴーストコード」が、単なるバグではないことを確信していた。それは、この塾に長年潜んでいた「闇」の記録であり、今回の殺人事件の、そして15年前の不正の、「真相を映し出す鏡」だったのだ。

彼の指先が、再びキーボードへと伸びる。次に彼が解読すべきは、この複雑に絡み合った人間の思惑と、デジタルな痕跡の狭間に隠された、真の「殺意」のコードだった。


2025年6月15日、日曜日。久留米市荒木町の栄光学園には、まだ生々しい事件の澱みが残っていた。週末にもかかわらず、生徒の姿はまばらで、校舎全体を覆う重い空気は、まるで底なし沼のように、あらゆる音を吸い込んでいくかのようだった。朔は、捜査本部の一角で、神崎悟のPCから復元した、あの謎めいた「ゴーストコード」の解析を続けていた。彼の隣で、山下刑事は焦燥に駆られていた。森下健一と浅井美咲の尋問から、二人が神崎のAI採点システムに不都合な秘密を抱えていることは判明したものの、それが殺意に繋がる決定的な証拠には至っていなかったのだ。

そんな中、山下は朔に、第一発見者である生徒、星野葵を呼んだことを告げた。彼女は、事件直前の自習室の様子について、何か重要なことを隠しているのではないか、と山下は感じていた。朔は、彼女が唯一の「目撃者」であり、同時に「事件の核心」に最も近い存在であることを、直感的に悟っていた。

午後。自習室の隅に設置された簡易的な聴取室で、星野葵は椅子に座っていた。彼女の顔は蒼白で、その瞳は、まだ事件の日の恐怖に囚われているかのようだった。朔は、彼女の向かいに座った。彼は、人の目を見て話すのが苦手だったが、この少女が抱える「何か」を、彼は感じ取っていた。山下刑事は、彼女を緊張させないよう、穏やかな口調で尋ねる。

「星野さん、事件直前の自習室の様子について、何か思い出せることはないかい? どんな些細なことでも構わない」

葵は、一度、朔に視線を向けた。彼の無表情な顔に、彼女は一瞬怯えたようだったが、すぐに視線を山下に戻した。

「あの夜…私以外にも、何人か生徒が残っていました。でも、みんな自分の勉強に集中していて…」

彼女の声は、細く震えていた。朔は、彼女の言葉の裏に隠された「真実」を読み取ろうと、静かに耳を傾ける。

「…私、実は、神崎先生のブースの近くにいたんです」

葵が、ようやく口を開いた。その言葉に、山下の表情が変わる。朔の視線が、わずかに彼女へと向けられた。

「先生のブースから、何か聞こえたかい? 例えば、誰かの話し声とか…」

葵は、大きく目を見開いた。その瞳の奥に、怯えと、そして躊躇の色が交錯する。

「声…は、聞こえませんでした。でも…」

彼女は、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。その様子に、山下は焦れたように身を乗り出す。

「でも、なんだい?」

「神崎先生が…誰かと口論しているような雰囲気だったんです」

その言葉が、朔の脳裏に、強烈なイメージを呼び覚ます。口論。声は聞こえないが、「雰囲気」を感じた。それは、まるで、音のない世界で、感情だけが伝わってくるかのような、奇妙な感覚だ。

「口論? 声が聞こえないのに、どうしてそう思ったんだい?」

山下の問いに、葵は震える指で、聴取室のテーブルを指差した。

「神崎先生のブースの仕切りが、いつもよりわずかに開いていて…そこから、先生の腕の動きが見えたんです。すごく、激しく…何かを訴えているような…何度も机を叩いたり、天を仰いだり…」

彼女の言葉は、まるで古いフィルムの映像のように、朔の脳裏で再生されていく。声のない口論。それは、誰かが見ていることを意識し、音を立てずに、しかし激しく感情をぶつけ合っていたことを意味する。犯人は、自習室に他の生徒がいることを知っていた。だからこそ、声を潜めていたのだ。

「相手は誰だったんだ? 姿は見えたのか?」

山下がさらに問い詰める。だが、葵は首を横に振った。

「ブースの仕切りで、よく見えなかったんです。ただ…神崎先生のブースに、もう一人、誰かがいたのは間違いありません」

その瞬間、朔の頭の中で、神崎のPCに残された、あの奇妙な「ゴースト」のようなアクセスログが、鮮明に蘇った。通常ではありえないIPアドレスからの不審なアクセス。それは、神崎のPCが遠隔操作されていた可能性を示すものだった。もし、そのアクセスが、あの口論の相手によって行われていたとしたら?

朔は、山下刑事に静かに告げた。

「神崎のPCに、録音機能はなかったか?」

山下は、意外な問いに目を見開いた。

「録音機能? いや、彼のPCは主に学習システム開発用で、マイクは搭載されていなかったはずだが…」

「外部マイクの接続履歴はないか? あるいは、隠されたマイクアプリの起動履歴」

朔の問いは、山下の知らない、デジタルの深淵に踏み込むものだった。山下は、戸惑いながらも、捜査班のデジタル担当者に確認を指示した。

数分後、驚くべき報告が上がってきた。神崎のPCの深層ログから、確かに「隠しマイクアプリ」の起動履歴と、ごく短い時間の音声ファイルの記録が発見されたというのだ。しかし、その音声ファイルは、重度に破損しており、通常の復元ツールでは再生不能だった。それが、警察のデジタル捜査班には、ただのノイズにしか聞こえなかった理由だった。

「これだ…」

朔は、その音声ファイルの破損データに、直感的な確信を抱いた。犯人は、神崎を殺害した後、証拠隠滅のために、音声ファイルを破壊しようとしたのだろう。しかし、デジタルの世界において、完全に「消去」するということは、極めて困難なことだ。必ず、どこかに「残滓」が残る。それは、まるで死者の「声」の断片が、データの中に囚われているかのようだった。

朔は、その破損した音声ファイルを、自身のデバイスへと転送させた。彼の指が、キーボードの上を舞い、特殊な復元プログラムを打ち込んでいく。それは、欠落したデータを補完し、ノイズを除去し、まるで時間を逆行させるかのように、破損した音の断片を繋ぎ合わせていく作業だった。部屋の空気は、朔の集中力によって、さらに重く、研ぎ澄まされていった。

数時間後、ディスプレイの画面に、復元された音声ファイルの波形が、ゆっくりと、しかし確実に姿を現し始めた。朔は、ヘッドフォンを装着し、その音声ファイルを開いた。

最初は、ただのホワイトノイズが聞こえるだけだった。しかし、朔が独自のアルゴリズムでノイズを除去していくと、やがて、その奥から、微かな「声」が聞こえ始めた。それは、言葉として認識できるものではなかったが、感情のこもった、荒い息遣い、何かがぶつかるような音、そして、微かな「擦れる音」だった。まるで、遠い過去から送られてきた、幽霊の「囁き」のようだった。

朔は、さらに解析を進める。音声の周波数、音量、そしてその変化のパターン。彼は、それらのデータを、神崎のPCに残された他のログデータ、監視カメラの映像のノイズ、そして自習室の物理的な構造と照合していく。

すると、ある驚くべき事実が浮かび上がった。その音声の中には、神崎の息遣いと、もう一人の人物の微かな声、そして、金属が擦れるような、不気味な音が混じっていたのだ。それは、凶器が使われた瞬間の音かもしれない。

そして、その声。言葉としては認識できないが、その周波数パターン、イントネーション、そして声の質。朔の脳内のデータベースが、過去の記憶と照合を始める。それは、森下健一の声のパターンと、ある程度の類似性を示していた。しかし、同時に、浅井美咲の声とも、わずかに重なる部分があった。そして、何よりも、その声には、強い「焦燥」と「怒り」の感情が込められていた。

朔は、さらに奥へと潜る。音声ファイルのタイムラインを遡ると、口論の直前、神崎がPCで特定のファイルを再生していた痕跡を見つけた。それは、神崎が開発していたAI採点システムが、過去の全国統一模試の不正を自動検出した際の「警告音」だった。つまり、口論の相手は、神崎のAIが自分の不正を暴こうとしていることを、その場で知ったのだ。

その瞬間、朔の脳内で、全てのピースが嵌まり合った。星野葵が感じた「声のない口論」は、真実だった。そして、神崎のPCに隠された音声ファイルは、その口論の「残響」を捉えていたのだ。それは、事件の真犯人を特定し、彼の動機を明らかにするための、決定的な手がかりとなるだろう。

山下刑事が、朔の隣で固唾を飲んでいた。彼の顔には、疲労と、しかし確かな期待の色が混じっていた。

「どうなんだ、篠原? 何が聞こえた?」

朔は、ゆっくりとヘッドフォンを外し、山下に視線を向けた。彼の瞳は、事件の闇の奥深くを覗き込んだかのように、冷たく澄んでいた。

「聞こえたのは…真実の叫びだ」

朔の声は、静かだったが、その中に潜む確信は、まるで電撃のように山下の全身を貫いた。神崎が残した「ゴーストコード」は、彼の死の直前の「叫び」を記録していた。その声は、この栄光学園に長年潜んでいた「闇」を、そして真犯人の正体を、今、白日の下に晒そうとしていたのだ。

久留米の夜は、深く、そして不穏な沈黙に包まれていた。栄光学園の窓からは、もう光は漏れていない。しかし、その内部で、神崎悟の「声なき口論」の残響が、ゆっくりと、しかし確実に、真犯人を追い詰めるための「螺旋」を形成し始めていた。朔の指先が、再びキーボードへと伸びる。次に彼が解読すべきは、この「沈黙の口論」の背景に隠された、真犯人の「顔」だった。

神崎悟の死がもたらした澱んだ空気は、物理的な痕跡以上に、人々の心に深く沈殿していた。捜査本部は、事件解決の糸口を掴めずにいた。山下刑事の顔には、疲労と焦燥が色濃く刻まれていた。現場に残された物理的な証拠は、あまりにも希薄で、まるで犯人が、その存在そのものを消し去ろうとしたかのように思えたのだ。

自習室の床には、神崎の血痕が生々しく残されていたが、凶器はどこにも見当たらなかった。ナイフのような鋭利な刃物で一突きにされたことは明白だが、事件現場からは完全に消失していた。足跡も、鑑識班が検出できたものは、塾内で日常的に使用されている靴のもので、特定の人物を特定できるような特徴はなかった。指紋もまた、神崎自身のものか、あるいは日頃から塾に出入りする人物のものばかりで、決定的な証拠とはなり得なかった。まるで、犯人が徹底的に、そして狡猾に、自らの痕跡を消し去ったかのようだった。

「物理的な証拠が、これほどまでにない事件も珍しい」

山下刑事は、報告書を睨みつけながら、苦々しく呟いた。彼の長年の勘が、この事件には、ただならぬ「裏」があることを告げていた。まるで、見えない「手」が、全ての証拠を弄んでいるかのようだ。

その間も、朔は捜査本部の一角で、神崎のPCから復元した音声データの解析を続けていた。星野葵の証言、そして神崎のPCに隠された「声なき口論」の断片は、彼にとって重要な突破口となり得た。だが、音声だけでは、真の犯人を特定するには至らない。彼の思考は、さらなる「ゴースト」の探索へと向かっていた。それは、塾内に張り巡らされた監視カメラの映像と、塾のWi-Fiログという、デジタルな「残滓」の中に隠されているはずだった。

栄光学園の監視カメラの映像は、一階の通路と、各教室の入り口を捉えていた。自習室の内部までは映し出していない。それは、生徒のプライバシー保護のため、という名目だったが、今となっては犯人にとって都合の良い「死角」となっていた。警察のデジタル捜査班は、事件発生時刻前後の映像を繰り返し確認したが、不審な人物の出入りは一切確認できなかった。彼らの目には、映像はただの「記録」として映るだけだった。

だが、朔には違った。彼は、その映像を、彼の特殊な解析ツールに通した。それは、通常の映像解析では見過ごされるような、極微細な「ノイズ」を検出するプログラムだった。画面上には、ほとんど認識できないほどの、しかし朔には明確に感知できる「揺らぎ」や「乱れ」が存在していた。

「これは…」

朔の瞳が、わずかに光を宿す。彼は、事件発生時刻の数秒間、自習室の入り口を捉えるカメラの映像に、奇妙なノイズが走っているのを見つけ出した。それは、映像そのものが歪んだり、色調が変化したりするような、視覚的なエラーではない。ごく僅かな、しかし確実に存在する、「フレームの乱れ」だった。まるで、一瞬だけ、時間の流れが不安定になったかのような、不自然な間。

朔は、そのノイズがなぜ発生したのか、その原因を究明するため、さらに深く解析を進める。彼は、そのノイズの発生源が、物理的な衝撃や、外部からの電磁波によるものではないことを突き止めた。それは、塾のネットワークシステム、あるいは監視カメラシステム自体への、ごく短時間の「負荷」によって引き起こされたものだった。

「誰かが、意図的に…」

朔は呟いた。その僅かなノイズは、犯人が犯行時に、塾のネットワークシステムに何らかの「操作」を加えた痕跡ではないか? 例えば、監視カメラの記録を一時的に停止させようとしたか、あるいは、自身の存在を隠蔽するために、デジタルな「目くらまし」を仕掛けたか。その目的は果たされなかったが、痕跡だけが「ノイズ」として残されたのだ。それは、まるで、犯人がデジタルな「吐息」を残していったかのようだった。

次に朔が注目したのは、栄光学園のWi-Fiログだった。塾内には、生徒や講師が使用するためのWi-Fiが整備されており、そのアクセス履歴は全てサーバーに記録されていた。警察もこのログを解析していたが、特に異常な接続履歴は見当たらないとしていた。しかし、朔の目には、そこに「異常」が隠されているのが見えた。

彼は、塾内の全てのWi-Fiアクセスポイントのログを、時間軸に沿って統合し、異常な接続を検出するプログラムを実行した。それは、通常の使用パターンから逸脱した、ごく短時間の接続、存在しないはずのMACアドレスからのアクセス、あるいは、複数のアクセスポイントを不自然に移動する履歴などを洗い出すものだった。

数分後、ディスプレイに、一連の異常な接続履歴がリストアップされた。それは、犯行時間帯にごく短時間だけ、自習室周辺のWi-Fiアクセスポイントに接続された、「未知のデバイス」からのものだった。そのデバイスは、接続後すぐに切断され、ログには、まるで存在しなかったかのように、わずかな「残滓」しか残していなかった。しかし、朔には、その「残滓」が、明確な意味を持つように見えた。

「これは…」

朔は、そのデバイスのMACアドレスのパターンを解析し始めた。それは、一般的なスマートフォンやPCのMACアドレスとは異なる、特定の「隠匿型デバイス」によく見られるパターンだった。そして、そのデバイスが、自習室周辺の複数のアクセスポイントを、わずか数秒の間に「移動」しているように見える。

「まさか…」

朔の脳裏に、ある仮説が浮かび上がる。犯人は、犯行時、自らの足跡を消すために、あるいは神崎のPCを遠隔操作するために、特殊な隠匿型デバイスを使用していたのではないか? そして、そのデバイスが、Wi-Fiの電波を「吸収」し、あるいは「干渉」することで、監視カメラの映像にノイズを発生させたのではないか?

それは、物理的な密室を補完する、「デジタルな密室」の可能性を示唆していた。犯人は、物理的な証拠を消し去るだけでなく、デジタルな痕跡までも巧妙に操作しようとしていたのだ。

山下刑事は、朔の隣で、彼がディスプレイに表示している複雑なデータを見つめていた。彼の目には、ただの数字や記号の羅列にしか見えない。しかし、朔の表情と、彼が口にする言葉から、それが事件の核心に迫る重要な手がかりであることは理解できた。

「篠原、そのノイズと異常なログが、どう事件と繋がるんだ?」

山下の問いに、朔はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳は、冷徹なまでの探究心で輝いていた。

「犯人は、自習室に侵入した際、あるいは犯行の際に、この塾のネットワークに何らかの『干渉』を行った。監視カメラのノイズは、その干渉の副産物だ。そして、Wi-Fiログに残された異常な接続履歴は、犯人が使用した『隠匿型デバイス』の足跡だ」

「隠匿型デバイス…?」山下は聞き慣れない言葉に、眉をひそめた。

「ああ。外部からの侵入者が、監視カメラやWi-Fiのログに痕跡を残さないように設計された、あるいは改造された特殊なデバイスだ。そのデバイスを使い、神崎のPCを遠隔操作し、まるで彼が作業を続けているかのように見せかけた可能性がある」

その言葉は、山下の脳裏に、昨日朔が言った言葉を蘇らせた。「神崎のPCのログに不審なアクセス記録が残されているが、警察のデジタル捜査班には解読が困難」。あの「ゴースト」のようなログが、この「隠匿型デバイス」からのものだったとしたら。

山下は、この事件が、彼のこれまで経験してきたどんな事件とも異なることを悟った。それは、デジタルな「闇」を深く纏った、新たな種類の犯罪だった。物理的な証拠が希薄なのも、犯人がその「闇」の深淵に身を隠しているからだ。

朔は、さらに解析を進める。その隠匿型デバイスが、神崎のPCにアクセスした目的は何か。単なる遠隔操作だけではないだろう。神崎のPCから見つかった、あのAI採点システム。そのシステムが、過去の不正を暴き出す可能性があったことを考えれば、犯人はそのシステムを「停止」させるか、あるいは「破壊」しようとしたのではないか?

彼の指が、新たなコードを打ち込む。それは、隠匿型デバイスの足跡をさらに深く辿り、そのデバイスが「何をしたのか」を特定するためのプログラムだった。夜が更け、久留米の街は深い沈黙に包まれる。栄光学園の校舎は、その闇の中に、無数の秘密を抱え込んだままだ。

朔は、ディスプレイに映し出されるノイズとログの断片を見つめる。それは、まるで、犯人が残した、声なき「囁き」のようだった。その囁きは、真犯人の存在を、そして彼が隠そうとした「闇」の深さを、朔に静かに語りかけているかのようだった。

朔は、その囁きを、決して聞き逃すまいと誓った。彼の孤独な戦いは、デジタルの深淵で、確実に、しかし容赦なく、真相へと向かう「螺旋」を形成し始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ