始まりの死
2025年6月13日、金曜日。夜の闇が久留米市荒木町を深く覆い、筑後川から立ち上る湿気が街全体を重苦しく包み込んでいた。栄光学園のガラスの壁は、内部から漏れる光をぼんやりと反射し、まるで水面に浮かぶ巨大な生物の目のように見えた。午後9時を過ぎ、ほとんどの生徒が帰路につき、校舎にはまばらに灯りがともるばかりだった。
自習室は、校舎一階の奥、最も静謐な場所に位置していた。普段ならば、真夜中まで受験生たちの熱気がこもるこの部屋も、この晩はいつもより早く、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。奥の個別ブースのいくつかにだけ、まだ人の気配が残っている。星野葵もその一人だった。高校二年になり、Aコースに在籍する彼女にとって、この自習室は日常の一部であり、同時に未来への足枷でもあった。蛍光灯の白々しい光の下、数学の参考書を睨みつけながら、彼女の心はひどく落ち着かなかった。今日の物理の授業で、神崎先生がどこか上の空だったのが気にかかっていたのだ。いつもは情熱的に、時に哲学的な問いを投げかける彼の言葉が、今日は妙に空虚に響いた。
午後9時15分。葵は、集中力の途切れるのを感じて、顔を上げた。トイレにでも行こうか、そう思った時、自習室の奥のブースから、微かな物音が聞こえた。それは、紙が床に落ちるような、いや、もう少し重いものが倒れるような、不自然な音だった。心臓が跳ねる。自習室には、葵の他に数人の生徒がいるはずだったが、誰も反応する気配はない。皆、自分の世界に没頭し、外界の音を遮断しているかのようだ。彼女の胸に、妙な予感がこみ上げてきた。
「神崎先生?」
かすれた声で、彼女は呟いた。物音がしたのは、いつも神崎が残業している奥のブースだった。彼はよく、授業後に自習室で生徒の質問に答えたり、教材の研究をしたりしていた。しかし、今日の音は、いつもと違った。その音には、不自然な響きが混じっていた。
葵は、おそるおそる立ち上がり、そのブースへと足を踏み出した。薄暗い通路を、一歩、また一歩と進むごとに、心臓の鼓動が大きくなる。まるで、深淵へと誘われるかのように、足が吸い込まれていく錯覚に囚われた。
ブースの前に立つ。わずかに開いた隙間から、青白いPCの光が漏れていた。彼女は、ゆっくりと、その隙間を押し開いた。
そこに広がる光景は、彼女の記憶に永遠に刻み込まれることとなる。
神崎悟が、ブースの床に倒れていた。彼の背中には、真っ赤な染みが大きく広がり、それが、彼の白いワイシャツを、みるみるうちに血の色のインクで染め上げていく。息を呑む。彼の瞳は虚ろに天井を見上げ、その顔は苦悶に歪んでいた。PCの画面には、まだオンライン学習システムの複雑なコードが羅列されており、彼が直前まで作業をしていたことを示していた。しかし、そのコードの輝きとは裏腹に、神崎の身体からは、すでに生命の光が失われていた。
「せん……せい……!」
葵の声は、恐怖に引きつり、喉の奥でかき消えた。彼女は震える手で、近くのインターホンに飛びつき、無我夢中で非常ベルを押した。けたたましい警告音が、静まり返っていた塾全体に響き渡り、まるで死の報せを告げる鐘のように鳴り響いた。
その瞬間から、栄光学園は、もはや単なる進学塾ではなくなった。そこは、血の染みついた「現場」であり、秘密と疑惑が渦巻く「迷宮」へと変貌したのだ。
山下刑事の到着は、早かった。久留米県警のベテラン刑事である彼は、地方のさほど大きな事件を担当することは稀だったが、この塾という閉鎖された空間で起きた殺人に、本能的な嫌悪感を覚えた。神崎悟の遺体は、すでに冷たくなり始めていた。背中を一突きにされた致命傷。凶器は見当たらない。
「現場は、準密室か…」
山下は呟いた。自習室の窓は全て施錠されており、換気のためにわずかに開けられていた小さなスリット以外、外部との物理的な接続は遮断されていた。出入り口は一つ、メイン通路に面した自動ドアのみ。犯行が行われたと思われる午後9時過ぎは、生徒のほとんどが帰宅し、残っていたのは数人の生徒と、塾長や事務員、そして少数の講師だけだった。自動ドアの開閉記録は、警察の管轄下に入った直後から厳重に管理された。しかし、その記録を遡っても、犯行時間帯に不審な人物の出入りは確認できなかった。栄光学園の監視カメラの映像は、一階の通路と、各教室の入り口を捉えていたが、自習室の内部までは映し出していなかった。それは、生徒のプライバシー保護のため、という名目だったが、今となっては犯人にとって都合の良い「死角」となっていた。
山下は、自習室の内部を見回した。個別ブースは高い仕切りで区切られ、隣のブースの様子を伺うことはできない。犯人が神崎に近づき、犯行に及ぶ瞬間、他の生徒たちは何を見ていたのか? あるいは、何も見ていなかったのか? 第一発見者の星野葵の証言は、恐怖に震えながらも一貫していた。「物音がして、見に行ったら、神崎先生が倒れていました…」。彼女は、犯行の瞬間を目撃してはいない。
唯一、神崎のPCが、事件の核心に迫る手がかりとなりそうだった。画面には、オンライン学習システムのバグ修正作業の画面が残されていた。彼のPCのログは、犯行が行われたと推定される時刻まで、活発なアクセス記録を残していた。まるで、神崎が死の直前まで、あるいは死後も、作業を続けていたかのように。しかし、そのログには、警察のデジタル捜査班には解読が困難な、奇妙なアクセス記録が混じっていた。それは、通常ではありえない、まるで「ゴースト」のような、存在しないはずのIPアドレスからのアクセスだった。あるいは、極めて巧妙に偽装された、痕跡を残さないアクセス。警察のデジタル捜査班は、その奇妙なログに頭を抱えていた。彼らの持つツールでは、その暗号めいた記録を解き明かすことができないのだ。
「まるで、デジタルで完璧な密室を作られたようなもんだな…」
山下刑事は、苦々しい顔で呟いた。物理的な密室に加え、デジタルな痕跡もまた、犯人の巧妙な手口によって封鎖されているかのようだった。
捜査本部が設置され、塾長である坂本龍二、ベテラン数学講師の森下健一、若手英語講師の浅井美咲らが次々と事情聴取された。彼らは皆、犯行時間帯のアリバイを主張したが、どれも完璧なものではなかった。 坂本塾長は、塾長室で事務作業をしていたと主張。しかし、その時間は電話の記録以外に客観的な証拠はない。 森下講師は、残っていた生徒の質問に答えていたと証言したが、その生徒たちは既に帰宅しており、確認は取れていない。 浅井講師は、講師控え室で同僚と雑談していたと述べたが、その同僚は早々に帰宅していた。 全員が、神崎との個人的な軋轢や、オンライン学習システム開発を巡る意見の対立を否定しなかったが、犯行の動機に繋がるほどの確執はなかったと主張した。彼らの言葉は、まるで完璧に練られた台本のように、表面上は穏やかで、しかしその奥に何かを隠しているかのような違和感を山下に与えた。
夜遅く、栄光学園の周りには、規制線が張られ、パトカーの赤色灯が寂しげに点滅していた。その光が、ガラス張りの校舎に反射し、まるで血の色の涙を流しているかのようだ。塾の窓には、遮光カーテンが下ろされ、内部の様子を窺い知ることはできない。しかし、その闇の奥では、神崎悟という一人の男の死が、何かの「引き金」となったことを、山下は直感的に感じていた。
この事件は、単なる殺人ではない。この塾には、何か、深い闇が潜んでいる。それは、合格実績という「栄光」の裏に隠された、生徒たちの成績格差、講師たちの派閥争い、塾長の経営方針への不満、そして、過去に隠蔽された不正。それらが複雑に絡み合い、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた、見えない「網目」の中に、真犯人は隠れている。
山下は、神崎のPCのログに残された、あの奇妙なアクセス記録を思い出す。警察のデジタル捜査班では歯が立たないその「ゴースト」のようなログ。まるで、事件の犯人が、デジタル空間からも、そして物理的な空間からも、完璧に姿を消したかのようだった。
その時、山下の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。過去に、とあるサイバー犯罪の捜査で、非公式ながらも協力関係を結んだ男。篠原朔。あの男ならば、この謎めいたデジタルな痕跡を解き明かすことができるかもしれない。しかし、同時に、彼の非合法な捜査手法は、常に危険と隣り合わせだ。あの男をこの事件に引き込むことは、諸刃の剣となるだろう。
荒木町の空は、深い霧に包まれ始めた。湿った空気が、不気味なほど肌にまとわりつく。栄光学園の校舎からは、もう何の音も聞こえない。ただ、その沈黙が、さらなる謎を暗示しているかのようだった。山下は、携帯電話を取り出し、かつて一度だけ交換した、あの男の電話番号を探し始めた。彼の指先が、その番号をタップする寸前、彼の心に、何か抗いがたい力が働いた。まるで、事件そのものが、朔を呼び覚まそうとしているかのように。
電話が繋がる。受話器の向こうから聞こえてきたのは、微かなキーボードの打鍵音と、冷たい、しかしどこか研ぎ澄まされた、あの男の声だった。
2025年6月14日、土曜日。久留米市荒木町。昨日とは打って変わって、梅雨の合間の切れ間の空は鉛色に重く、どこか不吉な予感をまとわせていた。篠原朔は、自宅兼オフィスの薄暗い部屋で、昨夜から続く雨音を遠く聞きながら、ディスプレイに表示された栄光学園のニュース記事を無表情に見つめていた。神崎悟の死。その報せは、朔の深層で眠っていた過去の記憶を、まるで古いビデオテープが巻き戻されるように、否応なしに再生させた。15年前の、あの塾で隠蔽された「不正」。それは、朔自身の人生を決定づけ、彼をデジタルという名の孤高の領域へと追いやった、消し去れない刻印だった。
彼の指が、キーボードに触れる。しかし、その動きはいつもの流れるようなコード入力ではなく、まるで決意を固めるかのような、重く、確かなものだった。栄光学園の公式サイト、オンライン学習システム、塾のSNSアカウント。彼は、それらを表層的に見ていた。しかし、その奥に潜む、見えない「ゴーストコード」の存在を、朔は本能的に察知していた。それは、神崎の死と、15年前の不正とを結びつける、不可視の鎖のように思えた。
朔は、部屋の隅に置かれた、埃をかぶったパーカーを手に取った。普段、外界との接触を避ける彼は、必要最低限の外出しかしない。しかし、今回は違った。今回の事件は、彼にとって、単なる謎解きではなかった。それは、過去の自分と向き合うための、避けられない「旅」だった。彼は、自分の記憶の中に、あるいは塾のシステムの中に、あの時の「不正」の痕跡が、今も生きているのではないかと感じていた。そして、神崎の死が、その痕跡を掘り起こすための「引き金」となったのだ。
玄関のドアを開け、外に出る。久留米市荒木町の朝の空気は、湿気を多分に含み、肌にまとわりつくようだった。錆びついた自転車を漕ぎ出す。馴染んだはずの街並みが、どこか違って見えた。一軒一軒の家、道の石畳、遠くに見える筑後川の鉄橋。それら全てが、朔の脳裏に焼き付いた15年前の記憶と重なり合い、幻影のように揺らめいた。
栄光学園へと向かう道すがら、朔は、自身の過去を反芻していた。Sコースの特待生として、彼は常に「完璧」を求められた。塾長・坂本龍二の期待、森下健一や浅井美咲といった講師陣の指導、そして同級生たちの羨望と嫉妬。その中で、彼は次第に、人間関係の複雑さや、表面と裏の顔を持つ社会の構造に嫌悪感を抱くようになった。そして、あの模試の「不正」と、それが組織的に隠蔽された事実が、彼の人間不信を決定的なものにしたのだ。彼は、人間の感情や言葉よりも、数値やコードという、より確実で、裏切らない「真実」の世界へと逃げ込んだ。それが、彼を孤高のハッカーへと変貌させた理由だった。
栄光学園の校舎が、次第に視界に入ってくる。昨日と同じ、無機質なコンクリートとガラスの塊。だが、その周囲は、警察車両の青い光で不気味に照らされ、規制線が張られていた。メディアのワゴン車も何台か停まり、報道陣がざわめいている。騒然とした雰囲気は、かつての塾の静謐なイメージとはかけ離れていた。
朔は、規制線をくぐろうとした警察官に呼び止められた。
「おい、そこから先は立ち入り禁止だ。関係者以外は近寄るな」
低い、しかし響きのある声。その声に、朔は既視感を覚えた。顔を上げると、そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。くたびれたスーツに、鋭い眼光。福岡県警の山下刑事だった。
「…山下刑事」
朔の口から、無意識に名前が漏れた。山下は、朔の顔を一瞥し、すぐにその記憶を辿った。眉間に皺を寄せ、やがて彼の瞳がわずかに見開かれる。
「篠原…朔か? お前、なぜここに?」
山下の声には、驚きと、そして警戒の色が混じっていた。彼が朔と最後に会ったのは、数年前の、とあるサイバー犯罪の捜査だった。当時、朔は警察の協力を得て、事件のデジタルな証拠を解読し、解決に導いた。しかし、その際に彼が用いた非合法スレスレのハッキング技術は、山下の心に深い不信感を残していたのだ。あの時、山下は朔の能力に舌を巻いたが、同時に、彼を「危険な存在」として認識していた。
朔は、無感情な目で山下を見つめ返した。
「ここが、俺が以前通っていた塾だ。ニュースを見た」
簡潔な言葉に、山下はわずかに表情を歪めた。
「そうか…お前が、ここの出身か。だが、だからといってここへ来る理由にはならん。ここは殺人事件の現場だ。お前のような…『素人』が踏み込んでいい場所じゃない」
「素人、か」
朔の唇の端が、微かに持ち上がる。それは笑みというより、嘲りのようにも見えた。彼の視線は、規制線の奥に広がる栄光学園の校舎へと向けられた。
「あんたたちのデジタル捜査班が、あのPCのログを解読できないことは知ってる。あるいは、解読できたとしても、そこに隠された本当の意味までは理解できないだろう」
朔の言葉に、山下の顔が険しくなる。警察のデジタル捜査が難航していることは、まだ一般には公表されていない情報だ。それを、なぜこの男が知っている?
「何を言っている? お前が何を知っている」
「俺は、ここのシステムを知ってる。そして…ゴーストコードを知ってる」
朔の言葉は、まるで謎の暗号のように響いた。しかし、山下には、その「ゴーストコード」という言葉が、神崎のPCに残されたあの奇妙なアクセスログを指していることが、直感的に理解できた。あの不可解なログが、警察のデジタル捜査の壁となっていたのだ。
山下は、警戒しながらも、朔の瞳の奥に宿る、冷徹なまでの知性を感じ取った。彼は、この男がただの好奇心でここに来たのではないことを悟った。だが、殺人事件の捜査に、非合法なハッカーの力を借りるなど、警察官としてのプライドが許さない。
「お前は、またあの時のように、勝手な真似をするつもりか。捜査の邪魔はさせない」
「邪魔、か。真実を求めることが、邪魔だというなら、そうだろう」
朔の声は、相変わらず感情の起伏がなかった。だが、その言葉には、強い意志が込められていた。彼は、単に事件を解決したいだけではない。15年前、自身が触れた「闇」が、再びこの塾で蠢いていることを、彼は肌で感じていたのだ。
山下は、一瞬の沈黙の後、深く息を吐いた。彼の頭の中では、警察官としての規範と、目の前の難解な事件を解決したいという焦りが、激しくぶつかり合っていた。神崎のPCのログは、まさに「壁」だった。それを打ち破るには、確かに朔の力が必要なのかもしれない。だが、それは、彼自身の警察官としての信念を、わずかに曲げることを意味する。
「…いいだろう」
山下は、重い口を開いた。彼の言葉に、朔の表情は変わらない。しかし、その瞳の奥に、わずかな光が宿ったのを、山下は見逃さなかった。
「ただし、条件がある。勝手なことはするな。俺たちの捜査を阻害するような真似は一切許さん。そして、お前がどんな方法で情報を手に入れようと、その情報は最終的に俺たちに引き渡せ。それが、お前が協力する条件だ」
朔は、山下の目を見つめた。数秒間の沈黙が、二人を包む。その沈黙は、まるで互いの領域を測り合うかのような、研ぎ澄まされたものだった。
「…構わない」
朔は、短く答えた。彼の目的は、事件の真相と、塾の「ゴーストコード」を解き明かすことだ。警察のルールなど、彼にとっては些細な障壁でしかなかった。彼は、その目的のためならば、一時的な「協力関係」を築くことも厭わない。
山下は、朔を規制線の内側へと招き入れた。朔の足が、事件現場となった栄光学園の敷地を踏み入れる。その瞬間、彼の脳裏で、15年前の記憶が、より鮮明に、より具体的な映像となって再生され始めた。かつて、彼が不正の痕跡を見つけた、あの模試のデータ。坂本塾長の冷たい眼差し。そして、神崎悟の、真実を求めるような、しかしどこか諦めを秘めた表情。
栄光学園のガラスの壁は、冷たく朔を迎え入れた。塾の内部は、昨夜の惨劇の痕跡を拭い去ろうとするかのように、薬品の匂いがかすかに漂っていた。彼は、廊下を進みながら、かつての教室、自習室、講師控え室を、まるで幽霊が自分の過去を巡るかのように見つめた。それらの場所には、当時の生徒たちの声や、講師たちの熱弁が、残響のようにこだましているかのようだった。
山下刑事の背中を追いながら、朔の視線は、塾の壁に張り巡らされた監視カメラへと向けられた。そのカメラは、何を見ていたのか。そして、何を見ていなかったのか。
彼のハッカーとしての直感が、強く警鐘を鳴らしていた。この塾には、物理的な密室だけでなく、デジタルな密室も存在する。そして、その二重の密室の鍵は、神崎悟が残した「ゴーストコード」の中に隠されている。朔は、そのコードを解読し、この塾に潜む「闇」を、白日の下に晒すことを誓った。それは、彼自身の「贖罪」であり、そして、かつての無力な自分を乗り越えるための、唯一の道だった。
久留米市荒木町に、新たな「螺旋」が始まった。朔の、孤独な、しかし確かな戦いが、今、栄光学園の深い闇の中で幕を開ける。