表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

予兆

福岡県久留米市荒木町。筑後川の鈍色の流れが、この街の時間をどこか止まったかのように見せる。だが、その穏やかな水面の下、あるいは夕闇に閉ざされた空の奥底で、都市のざわめきとは異なる、ある種の脈動が蠢き始める場所があった。久留米の街の喧騒からわずかに外れた、その静寂の一角に、進学塾「栄光学園」は沈黙の塊として佇んでいた。


国道209号線から一本、裏通りへ入る。かつては八百屋の軒先からトマトの甘酸っぱい匂いが漂い、喫茶店の窓越しに老夫婦の笑い声が漏れていたであろうその場所に、突如として無機質な鋼鉄とガラスの塔がそそり立っていた。周囲の低い木造家屋や、煤けたコンクリートの店舗群とは明らかに異なるその異物感は、まるでこの土地に無理やり埋め込まれたくさびのようだった。だが、それは同時に、荒木町の、いや、久留米全域の子供たちにとって、未来への、あるいは「成功」という名の不可視の呪縛へと続く、唯一の入り口でもあったのだ。


午後7時。自動ドアが囁くような電子音を立てて開き、その口は生徒たちを静かに飲み込んでいく。彼らの顔は一様に青白い。部活動の疲れか、それともこれから始まる戦いへの予感か。瞳の奥には、宿題の重圧、親からの期待、友との見えない競争、そしてどこか諦めに似た虚無感が、深い影を落としている。皆、それぞれの胸に、未来という名の漠然とした不安と、それを乗り越えれば手に入るはずの「栄光」という名の幻想を抱き、この冷たい箱の中へと吸い寄せられていく。


校舎の一階、自習室。長いテーブルに等間隔に配置された個別ブースは、すでに人で埋め尽くされていた。背を丸め、ノートや参考書に食い入るように視線を落とす生徒たち。彼らが発する音は、シャーペンの芯が紙を削る微かな音、ページの乾いた音、そして時折、誰かの喉から漏れる小さなため息だけだ。それらの音が混じり合い、まるで生き物の深呼吸のように自習室全体に満ちていた。空気は重く、ひどく研ぎ澄まされている。彼らは互いの存在を認識しながらも、決して干渉しない。隣のブースに座る者が友人であろうと、最も憎むべきライバルであろうと、そこは、ただひたすらに己と向き合うための、完璧な密室だった。視線は常にテキストの活字を追うが、その思考は、はるか未来の、しかし決して保証されない「合格」という二文字へと囚われているかのようだった。


壁には、合格者の氏名と、誇らしげな笑顔の顔写真がずらりと張り出されていた。彼らは皆、栄光学園が作り上げた「成功者」の肖像だった。笑顔でガッツポーズを取る者、真剣な表情で受験票を掲げる者、あるいは、ひどく疲れた顔の奥に、わずかな達成感を滲ませている者。その一人一人の顔が、今ここにいる生徒たちの心に、漠然とした、しかし確かな「プレッシャー」を刻み込んでいく。ある者は憧憬の眼差しを向け、ある者は嫉妬に心を蝕まれ、またある者は、自分には決して届かない眩しさに目を背ける。栄光学園は、夢を育む場所であると同時に、残酷なまでの現実を突きつけ、そして、見えない線で生徒たちを選別していく場所でもあった。合格者の写真の脇には、塾長・坂本龍二の力強い筆跡で書かれた「努力は裏切らない」という言葉が掲げられている。だが、本当にそうだろうか? その言葉の裏に、どれほどの涙と、どれほどの諦め、どれほどの隠された真実が埋もれているのか、篠原朔は知っていた。それは、彼の脳裏に焼き付いた、古傷のような記憶だった。

二階は、主に授業を行う教室が並んでいた。白板には、数学の公式や英文法、歴史の年表が所狭しと書き込まれている。講師たちの熱弁が、生徒たちの耳に、そして脳に、知識という名の無数のデータを叩き込む。森下健一の厳しくも的確な数学の講義、浅井美咲の柔らかい物腰ながらも要点を押さえた英語の授業。彼らは皆、教育のプロフェッショナルだった。しかし、その顔の奥には、それぞれが抱える「人間」としての顔が隠されていた。生徒の成績に一喜一憂し、同僚との競争に苛まれ、塾長の方針に翻弄される。彼らは、教育者であると同時に、この栄光学園という巨大な「網目」の中に囚われた者たちでもあった。

最も異彩を放っていたのは、物理講師、神崎悟の教室だった。彼の授業は、常に生徒たちを魅了した。単なる知識の伝達に留まらず、物理現象の奥に潜む「真理」を解き明かすような、哲学的で示唆に富んだ講義だった。彼の言葉は、生徒たちの知的好奇心を刺激し、既存の枠組みを超えた思考へと誘った。彼は、栄光学園がひたすら実績を追い求める現状に疑問を抱き、独自のオンラインシステム開発に没頭していた。そのシステムが、塾の隠された秘密を暴き出す可能性を孕んでいることなど、当時、誰も気づいていなかった。朔は、かつて神崎の授業に魅了された一人であり、彼の独特な視点に、どこか共感を覚えていた。


栄光学園のコースは、明確な階層に分かれていた。


•Sコース(スーパー国立): 東京大学、京都大学をはじめとする旧帝大、国立医学部を目指す、最も難易度の高いコース。選抜制で、ごく一部の「選ばれし生徒」だけが集められていた。彼らは、塾が持つ全ての優遇措置と、最精鋭の講師陣を享受した。専用の自習室、特別なオンライン教材、そして何よりも、未来を保証されたかのような、ある種の「優越感」を。しかし、その裏では、常に全国模試の成績や大学の合格ラインという数値で評価され、わずかな成績の変動が、彼らの未来を、そして精神状態を大きく左右する、想像を絶するプレッシャーと熾烈な内部競争に苛まれていた。朔もまた、このSコースに身を置いていた。その記憶は、彼の脳裏に、消し去ることのできない深い刻印を残していた。


•Aコース(難関私大): 早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学といった有名私立大学を目指すコース。Sコースに次ぐ実力者が集まり、独自のカリキュラムが組まれていた。Sコースほどの極端な選抜はないものの、常に合格実績を求められるプレッシャーは変わらず、生徒たちは有名大学のブランドという、もう一つの「栄光」を求めて、このコースでしのぎを削っていた。ここでも、講師たちは生徒の成績向上に全力を注ぎ、塾全体の合格実績を支える重要な位置を占めていた。


•Bコース(一般進学): 上記以外の一般大学への進学を目指すコース。基礎学力の定着から応用まで、幅広いレベルの生徒に対応していた。SコースやAコースに比べると注目度は低いが、塾全体の生徒数の大半を占めていたため、経営上は非常に重要なコースだった。講師陣も多様で、ベテランから若手までが在籍し、生徒一人ひとりの進路相談にも力を入れていた。

しかし、Bコースの生徒たちもまた、その胸に小さな野心を秘めていた。彼らは、SコースやAコースの生徒たちがまとう「特別感」を肌で感じながらも、自分たちにも可能性が残されていると信じていた。事実、このBコースにおいても、全国統一模試や定期テストで突出した成績を収めた生徒には、担当講師から直接、上のコースへの「昇格」の打診がなされることがあった。それは、生徒にとっては新たな希望の光であり、講師にとっては自らの指導力を証明する機会でもあった。しかし、同時にそれは、生徒たちの間に新たな競争を生み出し、手の届くかもしれない「栄光」という名の蜃気楼を追いかけさせる、狡猾な餌でもあったのだ。


そして、そのコースの優劣を測る指標として、全国統一模試が定期的に実施されていた。


•Sコース専用 全国統一模試:旧帝大・医歯薬獣医農獣医対応。最も高度な内容で、出題形式も実践的。国立大学の二次試験や難関私大の個別試験を意識した記述・論述問題が中心。その採点結果は、生徒個人の成績だけでなく、塾のSコース全体の「偏差値」として厳しく評価され、塾の広告塔としての実績を左右する最重要データだった。神崎が開発していたAI採点システムは、まさにこの模試の採点精度を飛躍的に向上させ、「不正」を自動検出することを目的としていた。


•Aコース用 全国統一模試:GMARCH・関関同立対応。私立難関大学の出題傾向に合わせた選択問題や短答問題が中心。採点処理は迅速に行われ、生徒は数日後にはオンラインで自身の全国順位を確認できた。その結果は、生徒たちの焦燥を煽り、より上位のコース、あるいはより名の知られた大学への執着を生み出していた。


•Bコース用 全国統一模試:日東駒専・産近甲龍対応。基礎学力の定着度を確認する内容が中心で、幅広い学力層に対応。採点結果は生徒へのフィードバックと、塾内の進路指導の参考に活用された。ここでの模試は、夢を諦めきれない者たちの、最後の足掻きのようなものでもあった。


三階は、講師の控え室や事務室、そして塾長の執務室があるフロアだった。ここは、生徒たちの目から隠された、栄光学園の「裏側」であり、全てのデータの集積地でもあった。 講師控え室では、コーヒーの匂いと、授業を終えた講師たちの疲労と安堵の混じった会話が漂う。時折、彼らの口から漏れるのは、生徒の成績への焦燥、同僚への不満、そして塾長への不信感だった。そこでは、教育者としての理想と、塾という組織の現実、そして講師間の熾烈な競争という名の「網目」の中で揺れ動く、生々しい人間ドラマが展開されていた。特に、どのコースを担当するか、どれだけの「実績」を出すかが、彼らの評価と待遇に直結していた。Sコースを担当する講師は、他の講師たちから羨望と嫉妬の眼差しを向けられ、その裏で、互いの足を引っ張り合うような派閥争いが密かに繰り広げられていた。


事務室は、常に静かで、電話の応対とパソコンのキーボードを叩く音だけが響く。膨大な生徒データ、模試の成績、入退塾記録、そして講師の勤務状況や生徒からの評価。これら全てが、デジタル化され、この塾の「頭脳」とも言うべきサーバーへと集約されていた。それは、栄光学園という組織の「記憶」であり、同時に、そこに集う人々の「魂の記録」でもあった。そのデータの中には、成績操作や、不審な入退塾、あるいは生徒間のいじめの報告が隠蔽された痕跡があることを、朔はかつて知っていた。システム上からは削除されたはずの「ゴースト」のようなデータが、深層のどこかに潜んでいるのではないか、と。

そして、その奥に鎮座する塾長室。分厚いドアの向こうから漏れる灯りは、まるで栄光学園の、そしてそこに関わる全ての者の運命を握る、巨大な蜘蛛の巣の中心であるかのように見えた。坂本塾長は、この塾を、そして自己の「栄光」を守るためならば、どんな手もいとわない男だった。彼のデスクに置かれた「合格実績」の数値は、彼にとっての絶対的な信仰であり、その信仰のためならば、あらゆる不正をも「隠蔽」してきた過去があったのかもしれない。彼の経営方針は、時に講師たちの深い不満を生み出し、生徒たちの精神を追い詰めることもあった。だが、その批判の声は、常に「合格実績」という大義名分の前にかき消され、栄光学園の「暗部」へと押し込められていた。


栄光学園のネットワークは、複雑に、そして広範囲に張り巡らされていた。生徒の学習履歴、模試の成績、オンライン学習システムの利用状況。講師の勤務時間、担当生徒のデータ、授業の評価。これら全てが、途方もない量のデジタルデータとして蓄積され、塾のサーバーに厳重に保管されているはずだった。それは、栄光学園という組織の「記憶」であり、同時に、そこに集う人々の「魂の記録」でもあった。しかし、その膨大なデータの奥底には、誰も知らない、見えない「ゴーストコード」が潜んでいることを、朔は直感的に理解していた。


夜が更け、生徒たちの姿がまばらになった塾は、昼間とは全く異なる顔を見せる。廊下の照明は必要最低限に落とされ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。まるで、眠りについた巨人の内部をさまよっているかのようだ。物音一つしない空間に、時折、空調の低い唸り声や、遠くで聞こえる車の走行音が響く。それは、塾の「鼓動」ではなく、まるで誰かの「囁き」のように聞こえた。

久留米市荒木町の夜空の下、栄光学園は静かに、そして不気味に佇む。そのガラス張りの窓は、街の灯りを映し出しながらも、内側に隠された闇を露呈することはなかった。しかし、その内部で、あるデジタルな痕跡が、まるで「ゴースト」のように、ゆっくりと目覚めようとしていた。それは、過去の不正と現在の事件を結びつける、誰も知らない「コード」だった。そのコードは、ただのプログラムではない。それは、この塾の「秘密」であり、そこに関わる人々の「業」そのものを表す、「呪いの言葉」のようなものなのかもしれない。


この塾は、ただの学び舎ではない。それは、希望と絶望、光と影、そして真実と虚偽が複雑に絡み合い、それぞれの思惑が螺旋状に深まっていく巨大な「迷宮」だった。その迷宮に隠された「ゴーストコード」を読み解ける者が、果たして現れるのだろうか。荒木町の静かな夜は、その問いに沈黙で答えるばかりだった。そして、朔の脳裏には、彼自身が栄光学園で体験した、「決して忘れられない過去」が、まるでウイルスのように何度も再生されていた。それは、彼の人生を決定づけた、ある「欺瞞の記憶」だった。


福岡県久留米市荒木町。筑後川の鈍色の流れが、夜のとばりに包まれ、街の喧騒を吸い込んでいく。その静寂の奥、一本入った裏通りに、周囲の住宅とは異質な、まるで息をひそめるかのように佇む一軒家があった。築年数の経った木造平屋だが、窓という窓は分厚い遮光カーテンで閉ざされ、まるで外の世界との接触を拒絶しているかのようだった。その家屋の一室、昼夜の区別も曖昧な薄暗がりの奥で、篠原朔は生きていた。彼の「オフィス」と呼ぶにはあまりにも簡素で、しかし彼の「領域」としては完璧なその空間で。


部屋には、生活感と無機質さが奇妙に混在していた。積み上げられたジャンクフードの空き容器とインスタントコーヒーの山。その横には、まるで彫刻のように、分解されたままのPCパーツや、使い込まれたキーボード、配線が絡み合った基盤が転がっていた。壁には、意味不明な数式や、フローチャート、あるいは暗号めいた文字列が手書きされたホワイトボードが所狭しと並び、その上には、世界地図がピンで刺され、特定の都市に赤い糸が縦横無尽に張り巡らされていた。まるで、彼の思考の軌跡を可視化したかのようだった。

部屋の中央に鎮座するのは、複数のディスプレイが放射状に配置されたワークステーションだった。その全てが、まるで深海の生物の眼のように青白い光を放ち、朔の顔を奇妙に照らし出している。キーボードを打つ指は、長く、しなやかで、しかしその動きは驚くほど速く、正確だった。カタカタと乾いた打鍵音が、薄暗い部屋に規則的なリズムを刻む。まるで、彼の思考そのものが音を立てて具現化しているかのようだった。


現在、朔が取り組んでいたのは、世界でも大手のIT企業である「ガイア・インダストリーズ」から依頼された、極めて機密性の高いプロジェクトだった。それは、次世代のAI推論エンジンに関するプログラム。ガイア社は、AI分野における世界の覇権を握ろうとしており、その最先端技術は、国家安全保障レベルの機密として扱われていた。朔に課せられた任務は、その推論エンジンの「脆弱性診断」と、さらにその奥にある「未知のバグ」の発見だった。彼らは、自社の内部エンジニアでは見つけられない、文字通り「ゴースト」のような隠れた欠陥を、朔の並外れた洞察力とハッキングスキルに求めていたのだ。

朔の視線は、ディスプレイ上の無数のコードの羅列に固定されていた。それは、人間が理解できるレベルを超え、ほとんど記号の羅列としか見えない。だが、朔にはそれが、複雑な生命体のように見えていた。互いに絡み合い、影響し合い、時に予期せぬ「思考」を生み出す、巨大なデジタル生命体。彼はその深淵を、たった一人で探索していた。


「この層は…おかしい」


朔の乾いた唇から、微かな呟きが漏れる。彼が今、解析しているのは、AIが複雑な情報を元に「推論」を行い、「結論」を導き出すための、根幹をなすアルゴリズムだった。表面上は完璧に見えるそのコードの中に、朔はわずかな「不自然さ」を感じ取っていた。それは、プログラムの論理的な流れから逸脱した、まるで異物が混入したかのような違和感だった。まるで、完璧なパズルのピースの中に、わずかに形が異なるピースが紛れ込んでいるような。


朔は、コーヒーカップを手に取り、冷え切った液体を一気に喉に流し込んだ。胃がわずかに熱くなるのを感じながら、彼の意識は再びコードの世界へと没入していく。彼は、この違和感がどこから来るのか、その「源流」を探るために、さらに深く、さらに詳細にコードを追いかけていく。まるで、暗闇の洞窟を、微かな光を頼りに進んでいく探検家のようだった。


彼の指が、再びキーボードの上を舞う。新たなコマンドが入力され、ディスプレイ上のコードが目まぐるしく変化していく。彼は、AIの推論プロセスを逆算し、その思考経路を一つずつ辿っていく。それは、人間が意識的に行う思考とは異なり、無数の可能性を同時に計算し、最適な経路を導き出す、まさに「デジタルな思考」だった。朔は、その思考を解体し、その裏に隠された意図を読み取ろうとしていた。

ガイア・インダストリーズは、AIの推論能力を最大限に高めることを目指していた。しかし、朔は知っていた。あまりにも完璧な推論は、時に人間には予測不可能な「偏り」や「歪み」を生み出すことがあると。それは、AIの学習データに含まれる人間の「悪意」や「偏見」が、無意識のうちに組み込まれてしまうことで起こる。そして、その歪みが、まるで「ゴースト」のように、システムの深層に潜み、予期せぬ結果を引き起こすのだ。


朔は、過去にも似たような経験をしていた。かつて、栄光学園のオンラインシステムに潜む「不正」を見つけ出した時も、それは表面上は完璧に見えるデータの中に隠された、わずかな「不自然さ」から始まった。彼の類稀なる洞察力は、単なるプログラミングスキルにとどまらない。それは、数字や記号の羅列の奥に潜む、人間の「意図」や「感情」、あるいは「嘘」を読み解く能力だった。


彼の頭の中では、コードが立体的な構造物として立ち上がり、その中で情報の流れが可視化されていた。彼はその構造の隙間を縫うように、あるいは、あえて破壊するように、新たなコードを挿入していく。それは、システムの脆弱性を突き、その深層へと侵入するための、彼独自の「鍵」だった。

夜が更け、外では雨が降り始めた。窓を叩く雨音が、部屋の静寂をさらに際立たせる。朔は、時間の感覚を失っていた。彼にとって、この部屋は外界から隔絶された、彼の思考とデジタルデータだけが存在する宇宙だった。食事も睡眠も、彼の意識をコードの世界から引き戻す、わずらわしい「ノイズ」でしかなかった。彼は、コーヒーと、手元に散らばるエナジードリンクの空き缶で、その肉体を無理やり動かしていた。


「ここだ…」


朔の瞳が、わずかに光を宿す。彼の指が、ある特定のコードの塊をハイライト表示する。それは、AI推論エンジンのごく一部に埋め込まれた、一見すると無意味な、しかし決定的な「ゴーストコード」だった。そのコードは、特定の条件下において、AIの推論にわずかな「偏り」を生み出すように設計されていた。意図的に組み込まれたのか、それとも偶発的なものなのか。だが、その偏りが、もし大規模なシステムに適用された場合、計り知れない影響を及ぼす可能性がある。例えば、金融市場の予測、医療診断の判断、あるいは兵器の自動制御システムなど。


朔は、その「ゴーストコード」が持つ意味を、瞬時に理解した。それは、ただのバグではない。それは、特定の意図を持って仕込まれた、「裏口」であり、「制御装置」だった。ガイア・インダストリーズは、自社のAIの完璧さを謳っていたが、その深層には、まだ彼ら自身も気づいていない、あるいは意図的に隠蔽された「闇」が存在していたのだ。


彼の思考は、コードの羅列から、やがて人間社会の構造へと広がっていく。完璧に見えるシステム、巧妙に隠された不正、そしてそれを暴こうとする者と隠そうとする者の戦い。それは、かつて彼が経験した、栄光学園での出来事と、奇妙なほどに符合していた。塾の「合格実績」という名の「栄光」の裏に隠された不正と、それを暴こうとしていた神崎講師。そして、その不正が、誰かの手によって隠蔽された過去。

朔は、キーボードから手を離し、ゆっくりと椅子にもたれかかった。疲労がどっと押し寄せる。彼はディスプレイの向こうに、久留米市荒木町の夜の闇を透かし見る。その闇の奥で、栄光学園という箱が、今もひっそりと、しかし確かな存在感を持って佇んでいる。そして、その塾の地下深くにも、彼の見つけた「ゴーストコード」にも似た、過去の「不正」という名の闇が、未だに潜んでいるのかもしれない。


彼の依頼人であるガイア・インダストリーズは、この「ゴーストコード」の発見に、どのような反応を示すだろうか。彼らは、これを単なるバグと捉えるのか、それとも、このコードが持つ「意図」に気づくのか。朔には、どちらでもよかった。彼の仕事は、真実を暴くこと。それがデジタルなコードの中に隠されていようと、人間の記憶の中に埋もれていようと、本質は変わらない。

雨音は、さらに強くなっていた。久留米の街のどこかで、何かが始まろうとしている。あるいは、既に始まっているのかもしれない。朔の瞳は、再び青白いディスプレイへと向けられる。彼の孤独な戦いは、まだ終わらない。そして、栄光学園で起きた事件の「ゴーストコード」もまた、彼が解読するのを待っている。彼の指が、静かにキーボードのホームポジションに戻される。次の「真実」を求め、彼は再び、デジタルの海へと潜っていくのだった。


2025年6月13日、金曜日。久留米市荒木町の上空は、梅雨の雲に覆われ、湿度を多分に含んだ空気が重く澱んでいた。篠原朔の部屋もまた、その重苦しさに支配されていた。ディスプレイから放たれる青白い光だけが、部屋の暗闇をわずかに切り裂き、彼の顔を無機質に照らし出している。

朔は、深海へと潜るダイバーのように、最新AIの推論エンジンの深層を探索していた。ガイア・インダストリーズから依頼されたそのプロジェクトは、彼にとってただの仕事ではなかった。それは、完璧に見えるシステムの、微細な歪みを見つけ出すという、彼の存在意義そのものだった。幾重にも重なるコードの螺旋を辿り、彼はある一点に意識を集中させる。そこには、意図的に仕込まれたのか、あるいは偶発的に生まれたのか判別のつかない、しかし確実にAIの思考に偏りをもたらす「ゴーストコード」が潜んでいた。指先がキーボードを叩く音だけが、彼の世界に存在する唯一の響きだった。

そんな時、ディスプレイの端に、小さなニュース速報の通知がポップアップした。通常であれば、朔はそうしたノイズを無視する。彼の関心は、常に目の前のコードの深淵にあったからだ。しかし、その時だけは、なぜか指が止まった。無意識にカーソルを動かし、その通知をクリックした。

画面が切り替わる。そこに表示されたのは、久留米市内の塾で起きた殺人事件を報じる地方ニュースのタイトルだった。「久留米市荒木町の進学塾『栄光学園』で殺人事件発生、男性講師が死亡」。

その文字が、朔の視界に飛び込んできた瞬間、彼の全身を電流が走ったかのような衝撃が貫いた。コーヒーを握っていた手が、微かに震える。カップの中の冷え切った液体が、揺れて波紋を広げた。

栄光学園。

その四文字が、彼の脳裏で、錆びついた扉を激しく叩きつける音のように響き渡った。凍り付いていた記憶の奥底から、ある光景が、まるで故障したビデオテープのように歪んだ映像となって再生され始めた。

それは、15年前の記憶だった。まだ彼が、篠原朔という名前で、この久留米市荒木町の栄光学園に通っていた頃のことだ。Sコースの特待生として、彼は常に周囲の期待と、同級生たちの視線に晒されていた。塾長である坂本龍二の、表面上は温厚な、しかしその実、冷徹なまでの「合格実績」への執着。講師たちの、生徒の成績によって変動する評価と、そこから生まれる目に見えない派閥争い。そして、生徒たちの中に蔓延していた、成績格差によるいじめと、それが見て見ぬ振りをされる日常。栄光学園は、輝かしい「栄光」という名の看板を掲げながら、その裏側で、いくつもの「闇」を抱え込んでいた。

特に、朔の記憶に深く刻まれていたのは、ある不正行為の隠蔽事件だった。あれは、Sコースの全国統一模試が行われた直後のことだ。彼は、塾のオンラインシステムに入り込み、Sコースの生徒たちの成績データにアクセスしたことがあった。それは、純粋な好奇心からだったが、そこで彼が見つけたのは、ありえない数値の改ざんだった。特定の生徒の模試の成績が、不自然なまでに高く修正されていたのだ。しかも、それは一人や二人ではない。複数の生徒のデータが、巧妙に、しかし確実にあげられていた。

朔は当時、まだ若く、しかしそのデジタルな才能はすでに突出していた。彼は、その改ざんの痕跡が、システムのごく深層に、まるで「ゴースト」のように埋め込まれていることを発見した。それは、通常のデータベースのログには残らない、「裏口」のようなものだった。彼はその事実を、当時の担当講師である森下健一に報告した。森下は、朔の報告に耳を傾け、その表情を曇らせた。しかし、数日後、森下は朔にこう告げた。「朔、君が見たものは、システムの誤作動だ。そう信じなさい。この件は、もう忘れなさい」。その言葉には、森下の内心の葛藤と、そしてそれを口にすることを許されない、ある種の「圧力」が滲んでいた。

朔は納得できなかった。彼は、自らのハッキングスキルを駆使し、その不正が、塾長である坂本の指示によって行われたものであることを突き止めていたのだ。それは、塾の合格実績を水増しするための、組織的な不正だった。彼は、その証拠を坂本に突きつけようとした。しかし、その直前、坂本から直接呼び出された。坂本は、穏やかな笑顔で朔を褒め称え、その才能を高く評価すると同時に、「この塾の未来のために、時には見て見ぬ振りをすることも必要だ」と、遠回しに、しかし明確に警告したのだ。朔は、その時、この「栄光学園」という場所が、彼の想像以上に深く、汚れた「闇」を抱えていることを悟った。彼の正義感は、その巨大な闇の前に、無力なまでに打ち砕かれた。

その一件以来、朔は塾での居場所を失ったかのように感じた。彼は周囲からさらに孤立し、人との関わりを極力避けるようになった。デジタルな世界だけが、彼が真に信頼し、自由に振る舞える場所だった。彼の「コミュニケーションは苦手」という性質は、この時の経験が大きく影響していた。彼は、人間の言葉が、いかに簡単に「嘘」や「隠蔽」の道具となるかを知ってしまったのだ。

そして今、15年の時を経て、その「栄光学園」で殺人事件が起きた。被害者は、物理講師の神崎悟。神崎……その名前が、朔の記憶の中で、別の映像を呼び覚ます。神崎は、当時、新任の若手講師として栄光学園に赴任してきたばかりだった。彼は、Sコースの生徒たちを指導する傍ら、Sコース専用模試の採点システムの開発にも関わっていた。朔は、神崎が「採点システムをより公平に、より正確にしたい」と熱心に語っていた姿を思い出していた。あの不正の隠蔽に心を痛め、表には出さないまでも、内心で改革を志していたのは、もしかしたら神崎だけだったのかもしれない。彼のAI採点システムは、当時の不正を暴き出す可能性を秘めていたのではないか?

もしそうなら、神崎は、塾の闇に触れたために殺されたのか? 15年前の「ゴーストコード」が、今、新たな殺人の引き金になったのか?

朔の指が、再びキーボードへと伸びる。しかし、今彼が打ち込むコードは、ガイア・インダストリーズから依頼されたAIの解析コードではない。それは、栄光学園のネットワークへと侵入するための、「鍵」となるコードだった。彼の脳裏には、過去の記憶と、現在のニュース速報が、螺旋状に絡み合い、一つの巨大な問いとして立ち上がっていた。

「ゴーストコード……」

彼は呟いた。それは、単なるプログラムのバグではない。それは、この栄光学園という箱の中に、15年前から潜んでいた、見えない「闇」そのものだったのかもしれない。その闇が、今、神崎悟という犠牲者を出して、再び表面化しようとしている。

朔は、自身のPCから、栄光学園の公式サイトにアクセスした。ニュース速報のリンクを辿り、事件の詳細を確認する。自習室での殺人、準密室状態、そして神崎のPCに残された不審なアクセス記録……。それらの情報が、彼のハッカーとしての直感を強く刺激した。

彼は、栄光学園という閉鎖的な空間の構造を、彼の脳内にある過去の記憶と照らし合わせる。教室、自習室、講師控え室、そして塾長室。それぞれの部屋が持つ意味合い、人の流れ、監視カメラの位置、ネットワークの構成。それらが全て、彼の頭の中で、複雑な立体構造物として再構築されていく。

かつて、彼はその塾で、無力な子供だった。真実を暴こうとし、しかし巨大な力に押しつぶされた。その記憶は、彼の心に深い傷を残し、彼を社会から隔絶させた。だが、今、彼は違う。彼は、デジタルという全く異なる「武器」を手に入れた。彼は、見えないものを暴き、隠されたものを暴くことができる。

久留米の夜は、深く、そして重く沈んでいく。朔の部屋のディスプレイだけが、彼の執念を映し出すかのように、青白い光を放ち続けている。彼の指は、再びキーボードの上で舞い始めた。それは、事件の真犯人を特定するためだけでなく、15年前の、そして今もなお塾に潜む「ゴーストコード」を完全に解読し、その「闇」を白日の下に晒すための、彼自身の「贖罪のコード」だった。

彼は、荒木町の夜の闇に沈む栄光学園の校舎を想像する。その中に、かつて自分が見た「不正」という名の「ゴースト」が、今もさまよっているような気がした。そして、そのゴーストが、神崎悟を殺したのだとしたら。

彼の孤独な戦いが、今、始まった。それは、デジタルの深淵に潜む真実と、人間社会の闇を暴く、静かで、しかし容赦ない闘いとなるだろう。朔の瞳の奥で、冷たい光が、強く瞬いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ