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栄光学園

福岡県久留米市荒木町。筑後川の鈍色の流れが、この街の時間をどこか止まったかのように見せる。だが、その穏やかな水面の下、あるいは夕闇に閉ざされた空の奥底で、都市のざわめきとは異なる、ある種の脈動が蠢き始める場所があった。久留米の街の喧騒からわずかに外れた、その静寂の一角に、進学塾「栄光学園」は沈黙の塊として佇んでいた。

国道209号線から一本、裏通りへ入る。かつては八百屋の軒先からトマトの甘酸っぱい匂いが漂い、喫茶店の窓越しに老夫婦の笑い声が漏れていたであろうその場所に、突如として無機質な鋼鉄とガラスの塔がそそり立っていた。周囲の低い木造家屋や、煤けたコンクリートの店舗群とは明らかに異なるその異物感は、まるでこの土地に無理やり埋め込まれたくさびのようだった。だが、それは同時に、荒木町の、いや、久留米全域の子供たちにとって、未来への、あるいは「成功」という名の不可視の呪縛へと続く、唯一の入り口でもあったのだ。

午後7時。自動ドアが囁くような電子音を立てて開き、その口は生徒たちを静かに飲み込んでいく。彼らの顔は一様に青白い。部活動の疲れか、それともこれから始まる戦いへの予感か。瞳の奥には、宿題の重圧、親からの期待、友との見えない競争、そしてどこか諦めに似た虚無感が、深い影を落としている。皆、それぞれの胸に、未来という名の漠然とした不安と、それを乗り越えれば手に入るはずの「栄光」という名の幻想を抱き、この冷たい箱の中へと吸い寄せられていく。

校舎の一階、自習室。長いテーブルに等間隔に配置された個別ブースは、すでに人で埋め尽くされていた。背を丸め、ノートや参考書に食い入るように視線を落とす生徒たち。彼らが発する音は、シャーペンの芯が紙を削る微かな音、ページの乾いた音、そして時折、誰かの喉から漏れる小さなため息だけだ。それらの音が混じり合い、まるで生き物の深呼吸のように自習室全体に満ちていた。空気は重く、ひどく研ぎ澄まされている。彼らは互いの存在を認識しながらも、決して干渉しない。隣のブースに座る者が友人であろうと、最も憎むべきライバルであろうと、そこは、ただひたすらに己と向き合うための、完璧な密室だった。視線は常にテキストの活字を追うが、その思考は、はるか未来の、しかし決して保証されない「合格」という二文字へと囚われているかのようだった。

壁には、合格者の氏名と、誇らしげな笑顔の顔写真がずらりと張り出されていた。彼らは皆、栄光学園が作り上げた「成功者」の肖像だった。笑顔でガッツポーズを取る者、真剣な表情で受験票を掲げる者、あるいは、ひどく疲れた顔の奥に、わずかな達成感を滲ませている者。その一人一人の顔が、今ここにいる生徒たちの心に、漠然とした、しかし確かな**「プレッシャー」を刻み込んでいく。ある者は憧憬の眼差しを向け、ある者は嫉妬に心を蝕まれ、またある者は、自分には決して届かない眩しさに目を背ける。栄光学園は、夢を育む場所であると同時に、残酷なまでの現実を突きつけ、そして、見えない線で生徒たちを選別していく場所**でもあった。合格者の写真の脇には、塾長・坂本龍二の力強い筆跡で書かれた「努力は裏切らない」という言葉が掲げられている。だが、本当にそうだろうか? その言葉の裏に、どれほどの涙と、どれほどの諦め、どれほどの隠された真実が埋もれているのか、篠原朔は知っていた。それは、彼の脳裏に焼き付いた、古傷のような記憶だった。

二階は、主に授業を行う教室が並んでいた。白板には、数学の公式や英文法、歴史の年表が所狭しと書き込まれている。講師たちの熱弁が、生徒たちの耳に、そして脳に、知識という名の無数のデータを叩き込む。森下健一の厳しくも的確な数学の講義、浅井美咲の柔らかい物腰ながらも要点を押さえた英語の授業。彼らは皆、教育のプロフェッショナルだった。しかし、その顔の奥には、それぞれが抱える**「人間」としての顔**が隠されていた。生徒の成績に一喜一憂し、同僚との競争に苛まれ、塾長の方針に翻弄される。彼らは、教育者であると同時に、この栄光学園という巨大な「網目」の中に囚われた者たちでもあった。

最も異彩を放っていたのは、物理講師、神崎悟の教室だった。彼の授業は、常に生徒たちを魅了した。単なる知識の伝達に留まらず、物理現象の奥に潜む「真理」を解き明かすような、哲学的で示唆に富んだ講義だった。彼の言葉は、生徒たちの知的好奇心を刺激し、既存の枠組みを超えた思考へと誘った。彼は、栄光学園がひたすら実績を追い求める現状に疑問を抱き、独自のオンラインシステム開発に没頭していた。そのシステムが、塾の隠された秘密を暴き出す可能性を孕んでいることなど、当時、誰も気づいていなかった。朔は、かつて神崎の授業に魅了された一人であり、彼の独特な視点に、どこか共感を覚えていた。

栄光学園のコースは、明確な階層に分かれていた。

•Sコース(スーパー国立): 東京大学、京都大学をはじめとする旧帝大、国立医学部を目指す、最も難易度の高いコース。選抜制で、ごく一部の**「選ばれし生徒」だけが集められていた。彼らは、塾が持つ全ての優遇措置と、最精鋭の講師陣を享受した。専用の自習室、特別なオンライン教材、そして何よりも、未来を保証されたかのような、ある種の「優越感」を。しかし、その裏では、常に全国模試の成績や大学の合格ラインという数値で評価され、わずかな成績の変動が、彼らの未来を、そして精神状態を大きく左右する、想像を絶するプレッシャーと熾烈な内部競争に苛まれていた。朔もまた、このSコースに身を置いていた。その記憶は、彼の脳裏に、消し去ることのできない深い刻印**を残していた。

•Aコース(難関私大): 早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学といった有名私立大学を目指すコース。Sコースに次ぐ実力者が集まり、独自のカリキュラムが組まれていた。Sコースほどの極端な選抜はないものの、常に合格実績を求められるプレッシャーは変わらず、生徒たちは有名大学のブランドという、もう一つの「栄光」を求めて、このコースでしのぎを削っていた。ここでも、講師たちは生徒の成績向上に全力を注ぎ、塾全体の合格実績を支える重要な位置を占めていた。

•Bコース(一般進学): 上記以外の一般大学への進学を目指すコース。基礎学力の定着から応用まで、幅広いレベルの生徒に対応していた。SコースやAコースに比べると注目度は低いが、塾全体の生徒数の大半を占めていたため、経営上は非常に重要なコースだった。講師陣も多様で、ベテランから若手までが在籍し、生徒一人ひとりの進路相談にも力を入れていた。しかし、生徒の中には、SやAコースへの昇格を夢見て届かぬ努力を続ける者、あるいはすでに諦めかけている者もおり、複雑な感情が渦巻く場所でもあった。彼らの抱える「諦め」は、この塾の底に沈殿する、もう一つの重い空気だった。

そして、そのコースの優劣を測る指標として、全国統一模試が定期的に実施されていた。

•Sコース専用 全国統一模試:旧帝大・医歯薬獣医農獣医対応。最も高度な内容で、出題形式も実践的。国立大学の二次試験や難関私大の個別試験を意識した記述・論述問題が中心。その採点結果は、生徒個人の成績だけでなく、塾のSコース全体の「偏差値」として厳しく評価され、塾の広告塔としての実績を左右する最重要データだった。神崎が開発していたAI採点システムは、まさにこの模試の採点精度を飛躍的に向上させ、「不正」を自動検出することを目的としていた。

•Aコース用 全国統一模試:GMARCH・関関同立対応。私立難関大学の出題傾向に合わせた選択問題や短答問題が中心。採点処理は迅速に行われ、生徒は数日後にはオンラインで自身の全国順位を確認できた。その結果は、生徒たちの焦燥を煽り、より上位のコース、あるいはより名の知れた大学への執着を生み出していた。

•Bコース用 全国統一模試:日東駒専・産近甲龍対応。基礎学力の定着度を確認する内容が中心で、幅広い学力層に対応。採点結果は生徒へのフィードバックと、塾内の進路指導の参考に活用された。ここでの模試は、夢を諦めきれない者たちの、最後の足掻きのようなものでもあった。

三階は、講師の控え室や事務室、そして塾長の執務室があるフロアだった。ここは、生徒たちの目から隠された、栄光学園の**「裏側」であり、全てのデータの集積地でもあった。 講師控え室では、コーヒーの匂いと、授業を終えた講師たちの疲労と安堵の混じった会話が漂う。時折、彼らの口から漏れるのは、生徒の成績への焦燥、同僚への不満、そして塾長への不信感だった。そこでは、教育者としての理想と、塾という組織の現実、そして講師間の熾烈な競争という名の「網目」の中で揺れ動く、生々しい人間ドラマが展開されていた。 事務室は、常に静かで、電話の応対とパソコンのキーボードを叩く音だけが響く。膨大な生徒データ、模試の成績、入退塾記録。これら全てが、デジタル化され、この塾の「頭脳」とも言うべきサーバーへと集約されていた。それは、栄光学園という組織の「記憶」であり、同時に、そこに集う人々の「魂の記録」でもあった。 そして、その奥に鎮座する塾長室。分厚いドアの向こうから漏れる灯りは、まるで栄光学園の、そしてそこに関わる全ての者の運命を握る、巨大な蜘蛛の巣の中心であるかのように見えた。坂本塾長は、この塾を、そして自己の「栄光」**を守るためならば、どんな手もいとわない男だった。彼のデスクに置かれた「合格実績」の数値は、彼にとっての絶対的な信仰であり、その信仰のためならば、あらゆる不正をも「隠蔽」してきた過去があったのかもしれない。

栄光学園のネットワークは、複雑に、そして広範囲に張り巡らされていた。生徒の学習履歴、模試の成績、オンライン学習システムの利用状況。講師の勤務時間、担当生徒のデータ、授業の評価。これら全てが、途方もない量のデジタルデータとして蓄積され、塾のサーバーに厳重に保管されているはずだった。それは、栄光学園という組織の**「記憶」であり、同時に、そこに集う人々の「魂の記録」でもあった。しかし、その膨大なデータの奥底には、誰も知らない、見えない「ゴーストコード」**が潜んでいることを、朔は直感的に理解していた。

夜が更け、生徒たちの姿がまばらになった塾は、昼間とは全く異なる顔を見せる。廊下の照明は必要最低限に落とされ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。まるで、眠りについた巨人の内部をさまよっているかのようだ。物音一つしない空間に、時折、空調の低い唸り声や、遠くで聞こえる車の走行音が響く。それは、塾の「鼓動」ではなく、まるで誰かの**「囁き」**のように聞こえた。

久留米市荒木町の夜空の下、栄光学園は静かに、そして不気味に佇む。そのガラス張りの窓は、街の灯りを映し出しながらも、内側に隠された闇を露呈することはなかった。しかし、その内部で、あるデジタルな痕跡が、まるで**「ゴースト」のように、ゆっくりと目覚めようとしていた。それは、過去の不正と現在の事件を結びつける、誰も知らない「コード」だった。そのコードは、ただのプログラムではない。それは、この塾の「秘密」であり、そこに関わる人々の「業」そのものを表す、「呪いの言葉」**のようなものなのかもしれない。

この塾は、ただの学び舎ではない。それは、希望と絶望、光と影、そして真実と虚偽が絡み合う、巨大な**「迷宮」だった。その迷宮に隠された「ゴーストコード」を読み解ける者が、果たして現れるのだろうか。荒木町の静かな夜は、その問いに沈黙で答えるばかりだった。そして、朔の脳裏には、彼自身が栄光学園で体験した、「決して忘れられない過去」**が、まるでウイルスのように何度も再生されていた。


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