18
太陽の暖かい昼下がり。
陽の光が草木を照らして輝いている。
学園の外れの整備もされていない裏庭には、茶色いボブヘアーの陰鬱な印象を与える少女と、黒猫が一匹――
「言ってなかったけど、人型を保つのも限度があるんだよね。毎日ずっとは無理」
「へぇーそうなんだ」
ナナリが頻繁に猫になっていたのは、ただ単に猫が気ままで楽しいからではなかったらしい。
ナナリは今、黒猫の姿でのびのびと体を伸ばし、万歳の格好で寝っ転がっている。
呑気なものである。
『俺もう無理なんだけど。二人きりになりたい』と神妙な顔で言われた時にはドキドキしたが、ナナリはただ単に猫に戻りたかっただけなのだ。
最近あまり話せていなかった時にこのセリフ、ドキドキして損した。
勝手にどこかに行って猫になってきたらいいじゃん、と思ったが、ナナリはエナからあまり離れることが出来ないらしい。
ナナリが言うには、「エナを守護してるから、離れられない」とのことで、精霊とはそういうものなのだろうか。
結局、今日はアンジェを巻いて、午後の授業をサボって、こんな草がのびのびと生えた裏庭で日向ぼっこをしている。
「なんか、あの頃みたいだね」
ここよりも更に荒れた廃墟のようなところで暮らしていた日々が思い出される。
「そうだな」
「あの時は、学園に行けるなんて思ってなかったな」
そのうち追い出されて廃墟の様な離れにすら住めなくなると思っていた。
今は王族や貴族の通う美しい学園と、一部屋が庶民の家よりも広い、立派な寮で暮らせている。
「ふふん。エナ幸せ?」
ナナリがしっぽを揺らして問いかける。
「うん。何だか私って不幸ばっかりって思っていたけど、やっといい風吹いてきたかなーなんて、思う……かな」
「そっか! 良かった。俺のおかげだな」
「ふふ、そうだね。ナナリのおかげだよ」
いつもの軽口のつもりだったナナリは、まさかエナが肯定すると思ってなかったので、僅かに目を丸める。
「エナが素直だねぇ〜変なの」
優しい風が吹き、穏やかな時間が流れる。
ナナリが蝶々を追いかけジャンプをしていた時、静寂を打ち消す明るい声が響いてきた。
「あー! 猫ちゃん!」
桃色のふわふわの髪を程よく崩したポニーテールの少女が一目散に駆け寄ってくる。
重めの前髪も綺麗にカールされ、横髪や後れ毛もバランスよく引き出され可愛く巻いてある。
瞼にはピンクゴールドのラメが輝いており、白い肌によく似合うローズピンクの口紅に、ほんのりピンクに色づく頬。
学園指定の制服にピンクの靴下を合わせており――ようするに、とにかくピンクい女だ。
だが、そんなピンクだらけでも、ピンクがとにかく良く似合う愛らしい顔つきで、庇護欲をそそる小動物のような少女であるからなんとも言えない。
むしろ彼女の魅力が最大限に引き出されているのではなかろうか。
エナは少女の見た目に気を取られていたが、ナナリは一瞬というのもおこがましいくらい、本当に一瞬で体を起こし、木の上に飛び登る。
慌ててエナも状況を理解する。
(あ、他の人に猫連れ込んでるのバレちゃった!?)
エナは、ナナリが少女にバレないように隠れてくれたと思い、感謝の気持ちで木の上を見上げたが、ナナリは特に隠れている訳ではなく、ただ木の上で腰を低くして首すくめ、真っ直ぐとピンク少女を見ていた。
「あー逃げちゃった……人見知りなのかな」
少女はエナの側まで来て、高い木の上にいる猫を見上げる。
「貴女には凄い気を許してたのにね! 野良なの?」
「……えっと」
「あ! 私、リーシャ! よろしくね!」
「あ、はい。私はエ……」
エナの言葉を遮って少女は話し続ける。
「あ! 貴女もしかして、旋風の魔術師エナ・サフィール!?」
(なんじゃそりゃ)
エナは鈍感なので気づいてなかったが、あの異端の功績で表彰され、全校生徒の前に顔を晒していたので、校内で割と有名になっていた。
旋風の魔術師という通り名まで独り歩きしており、人々はエナを見てはヒソヒソと、『旋風だ……』『旋風様よ……』と囁いていた。
「あ、ごめんなさい! 旋風様に馴れ馴れしく話しかけちゃって……」
「あっ、だ、大丈夫です」
(その呼び名なんだ……)
「それにしても学園に来て初めて猫見たな〜迷い猫ちゃんなのかな」
エナから大丈夫という言質を取ったのを確認すると直ぐに少女は元の話し方に戻る。
あまりの切り替えの速さにエナはもう戸惑いまくりだ。
正直この学園は警護が最上級に厳しく、ネズミ一匹たりとも潜り込めないようになっているのだが、少女は知らないようである。
そのまま疑問に思わないでいただきたい。
「私ね、動物大好きなの! ねぇ今度の公休日に街まで行かない? 私の実家のそばにね、仲良くしていた野良猫ちゃんが居るの! ウエール森林公園の近く! わかる? 猫連れてピクニックしようよ! あ、お貴族様風に言うとお茶会?」
「え、えと……」
エナは困り果ててナナリを見上げる。
そして、しまったと思った。
精霊の寄らぬ人物には近づかない――
なぜ忘れていたのか。
人を見分けるエナの大事な指針を。
リーシャという少女が来てからのナナリは、尻尾を畳み込み、とにかく逃げ出したい様子だった。
今までの中で一番の寄り付かなさ。
寄り付かないというよりもむしろ――
エナは愛読書の『猫の行動と心理』に載っていた事柄を思い浮かべる。
脅えている時、猫は姿勢を低くして歩いたり、物陰に隠れたり、威嚇したりするらしい。
他にも、耳をペタンとたたんだり、髭が後向きになっていたり、酷く脅えている時なんかは、体にしっぽを巻き付けたりするらしい。
それなりに高い木の上に居るナナリの髭までは確認できないが、概ね同じ行動をナナリはとっている。
ただの猫と、猫型といっても精霊であるナナリが、同じと言いきれるわけではないが、猫じゃらしに反応したり、今日だって蝶々を追いかけたりしていた。
猫の姿になっている時には、猫に気持ちが引っ張られるとしたら……
ナナリは今怖がっている――
つまりこのリーシャという少女は近づいてはならない人物ということになる。
何とかして逃げなくては――この嫌われ方は本邸の奥様なんか比ではない。
よく考えたら、エナが侯爵家のエナ・サフィールと分かってからもかなりグイグイ話しかけてきた。
もしかしたら何か思惑があるのかもしれない。
思い返せば、彼女はリーシャと名乗るだけで家名を明かしてないではないか。
そもそもこんな校舎裏の草が生い茂ってる庭に来るなんておかしい。
靴が汚れるから貴族は近寄らないはずだ。
あまつさえ、森でピクニックなんて危なすぎる。
姉の件から極力学園を出ないようにしているエナにとって、街ならまだしも、森林はもう意味がわからないくらいの危険さを感じていた。
「ご、ごめんなさいーー!」
エナはリーシャの顔を見ずに背を向け駆け出す。
それに合わせてナナリも木から飛び降りエナの頭にしがみついた。
「え? ちょっと旋風様!」というリーシャの声が聞こえたが振り返らずに逃げきった。