44 ヘルナ
「向こう側、妙な気配がするわ」
病がはやっている場所とは違うところでも、おかしな気配は感じて、エヴリーヌはそちらを指差した。
こんな殲滅作戦。本来だったら行わないが、拡大しすぎている病の他に、呪いを受けている者が増えていて、ゆっくり治療しながら原因を探すことなど難しいとなった。
(はやり病だからってこんな規模は初めてよ。呪いだってここまであちこちに飛び火しているのも経験がない)
治療してもまた罹って、終わりが見えない。そうであれば、無理でも行うしかない。
聖女の質がもう少し高ければ、ここまで広がることはなかった。
言っても仕方がないが。
なによりも、老婆のような者の目撃情報はなくなり、代わりに、黒いなにかを見た者が増えたのが気になる。
(嫌な予感しかしないわ)
もう、人ではないかもしれない。
老婆のような者がヘルナであれば、かろうじて人の姿をとっていただろうが、今はもう、それすらも保てないほどのなっているのではなかろうか。
(なにをしたら、そんなことになるのよ)
ヘルナのことは、詳しく知らない。カリスを好きで追いかけて、父親の意向で王太子の婚約者候補になりそうで、けれど、カリスを追いすぎてどちらの相手にもならなかった。それだけ。
美しい人だったと思う。気の強さは隠し切れない、傲慢ささえあらわになった態度でも、その姿に魅了される人は多いだろう。だからこそあそこまで自信を持っていたのだろうし。
けれど、その態度がカリスを退けてしまった。
そんな人が、他に誰か愛する人ができて体を委ねたとして、カリスの子供だと言い張った。追い詰められていたとして、そこまで下手な真似をしてどうするつもりだったのだろう。子供ができたのならば、相手がいることなのに。
(そもそも、子供の父親はなにをしてるのよ)
空に青色の煙が立ち上がる。あの場所は終えたという合図だ。
少しずつ範囲を狭めていって、しらみつぶしに探し出す。
総神殿の聖女がいなければできない技だ。都の神殿の聖女では難しい。ましてや、動物を操るほどの呪いなど。
「エヴリーヌ!」
馬を小走りに進ませていれば、空がかげった。家の屋根や木の上を跨ぐように黒い鳥が飛び交って、エヴリーヌに向かってくる。カリスが氷の魔法で一羽を貫いた。鳥の断末魔の悲鳴が轟くと、地面に力無く落ちてくる。
「エヴリーヌ、大丈夫か!?」
「ありがとう、カリス。大丈夫よ。今ので霧散していった」
不浄に巻かれた鳥たちは、正気を取り戻して羽ばたいていく。あちらにこちらの位置は気づかれたようだ。
(理性があるのよ。まだ、意識は保ってる)
けれど、人の姿を保っていられているだろうか。鳥まで操るほどの力、その呪いの強さ、不浄の濃さが、あまりにも強すぎる。
アンの話では、ヘルナは汚れた姿で現れた。カリスとの逢瀬をあり得ないことだと否定すれば、ヘルナは黒いモヤに包まれた。そこでアンは病に罹る。
この時点で、ヘルナは病の原因になっているはずだ。
「合図が」
空に青色が飛んでいく。その周囲をカラスが飛んでいた。ここからでは不浄は見えなかったが、あのカラスたちはまともだ。数羽が煙から逃げるように飛んでいく。
円は狭まっていく。見える不浄を浄化しながら進んでいるので、時間はかかった。それでも少しずつ進んでいる。
後方で、聖騎士が花を一輪家のそばに置いたのが見えた。エヴリーヌが魔力を込めた花。不浄を浄化しながら、一輪ずつ花を置いていっている。
その花を、カリスが一日で集めてくれた。町だけでは足りないため、近くの村や、隣町まで購入に向かわせて、大量の花を手に入れた。それらに魔力を込めるくらい造作ない。エヴリーヌが一気に魔力を込めた花々を、町のあちこちに置いていく。
思ったより早く進んでいる。動物を操ったのだから、近くに入るはずなのに、網に引っかからない。
(公爵家に向かったのかしら)
ふいに、なにかを感じた。
「エヴリーヌ?」
「今、なにかが。音がしませんでしたか?」
「音?」
町は浄化をしているとはいえ、人々が行き交っている。ちょうど今いる場所は十字路になっており、道ゆく人が通りを渡った。けれど、足音や話し声、布の擦れる音、それらとは違う音が耳に入る。
「水の音」
「水? ここに水などはないが」
こちらにはよどみは少なく、遠くの方で黒いモヤが蠢いているのが見える。あちら側に不浄が溜まっているのだとわかるが、この辺りの方が、嫌な感じがした。
「公爵家が近いからかしら、なんだか、」
寒気が足元から這い上がると同時、真っ黒なインクのような水が地面から湧き出て、エヴリーヌを引っ張った。
(地面に、引き摺り込まれる!)
「エヴリーヌ!」
カリスの伸ばした手が、黒の水にかき消された。
(息が)
真っ暗闇の水の中。息ができずに喉を押さえた。体が水の中に沈んでいくのがわかる。
(苦しい。いったいなにが)
苦しさに手を伸ばせば、シモンがグラスを持って近づいてきた。
見覚えのある格好。なにかのパーティで見た、シモンの姿だ。
ソファーに座り、倒れ込むように寄りかかっているヘルナに、シモンがグラスを渡してくる。ヘルナはそれを手にして口にして、シモンは部屋を出ていった。
そうして、再び部屋に入ってきたのは、カリスだ。ヘルナは驚愕しながらも満面の笑みを浮かべてカリスを迎えた。
これは、なんの記憶だ?
カリスがヘルナの胸元に吸い寄せられるように口付ける。あらわになった太ももに触れて愛撫する。
ヘルナの妄想? ヘルナは艶麗にカリスを受け入れて、悦に浸った。
カリスではない。カリスのはずがない。カリスがヘルナを抱くなどあり得ない。叫びたくとも声は出ず、苦しみに喉を押さえるしかできない。
信じられない光景。カリスがヘルナの体を沿わせて、息を切らすように何度も肉体を揺らした。
しかし情事を終えた後、ヘルナから離れたカリスが黒髪に変わった。ヘルナが悲鳴を上げる。カリスとは違う、別の顔をした男は、驚いて逃げるように部屋を去っていった。
場面が変わった。
ヘルナがなにかを訴えている。
父親か、オールソン侯爵らしき男が、ヘルナの頬を平手打ちした。しなだれながらも鋭くオールソン侯爵を睨みつけ、大声を上げる。
子供は、カリスの子供だと訴える。
また場面が変わる。馬車の中だ。
ヘルナは気分が悪いと言って、馬車を停めさせる。吐き気がすると草陰に入り込み、そのまま走り去った。
修道院に行く途中に逃げた時のことなのか。ヘルナは森の中に走り、追ってくる者たちを尻目に狂気の笑みを見せた。けれど、その瞬間、なにかに足元を取られて、足を滑らした。
沈む体。息苦しさはエヴリーヌが感じているものと同じ。
これにのまれたら、戻れない。
渾身の力を、魔力を、手の平から発した。暗闇に光が灯り、一気に世界が白んだ。