25 出発
「大聖女の結界がどれだけ広域なのか、改めてわかるな」
ビセンテが地図を広げながら、うんざりした声を出した。大聖女の封印はいくつかの領土を跨いで作られている。中心に向かうと山脈になっており、ほとんど未開の地だが、結界の境の近くに人が住んでいるところもある。それほど大規模な封印だ。
大聖女が封印したのは古い時代の魔物なので、現在は存在しない魔物なども含まれている。そんなものが出てきたら大変なことになるだろう。封印には他の魔物が近寄れないようになっているが、それが弱まると魔物たちは封印に近づいた。強い魔力に引き寄せられるからだ。
「一周するわけじゃないんだから、気楽に行きましょう」
今回の遠征は封印が弱まっている部分の強化と、付近に増えている魔物の討伐だ。すべてを回るわけではない。地盤沈下が起きた場所と魔物の出現が多い場所が、大聖女の封印近くということもあり、その辺りを重点的に確認することになっている。
「強化が不十分だった。ってだけならいいがな」
「補強に失敗していて魔物が増えているか、山間部で地盤沈下でも起きて、結界が一部弱まっているか。どちらかだと思うけれど」
エヴリーヌは地図のバツ印をなぞるようにして道を確認する。
「こんなに早く封印が緩まるなんてね」
大聖女の封印から何百年も経っているため、神殿は封印の結界を何度も強化してきた。今では魔力を込めた魔石を埋めて、結界を持続させている。そのため、その魔石に魔力を注ぐ必要があるのだ。
エヴリーヌも何度か行ったことがある。封印の結界から出た場所には魔物がいるため、周囲の魔物を排除しながら行うのだ。
数え切れないほどの魔石を使い、補強している封印。一度に魔力がなくなってはまかないきれなくなるため、魔力の注入は場所によって時期が違うが、地図の場所で封印が緩むのが早すぎる。
「封印の強化の時期を確認したけど、ここはあと五年くらいは持つはずなのよ」
「じゃあ、やっぱり人災か? 人の足跡があったってのは、ここだ。聖騎士も、公爵の部下も確認した」
「カリスが調べてるとは思わなかったわ」
「規模が規模だからな。協力体制をとれって、王の命令があったらしいし」
ビセンテは肩を竦めるが、カリスのことだ。自分から手を上げたに違いない。カリスはいつの間にか部下たちを使い、地滑りがあった場所を確認させていた。ヴォルテール公爵家の領土も結界の端に位置しているため、必要であったからと言い訳していたが。
「けど、封印から少し離れているわ。今回の封印の弱まりとは関係ないと思うけど」
「まあな。補強が弱まってるのは、当時の聖女の力の弱さのせいだろ。だが一応、気をつけた方がいい。まずは魔石がある場所まで行く。魔物が頻繁に現れているから、魔石がある場所まで辿り着くのにも時間がかかるだろう」
神殿の外では聖騎士たちが遠征の用意をしていた。いつものようにただ魔物を倒すのではなく、目的地まで行ってエヴリーヌが魔力を注ぐのを待たなければならない。その間エヴリーヌの補助は受けられず、他の聖女たちが受け持つことになる。聖女たちは緊張した面持ちをしていた。長い遠征は魔力が枯渇することもあるので、それを考えて癒しなどを行わなければならない。間違えば命に関わる。
「私も気をつけないと」
「そうだぞ。無茶するなよ」
ビセンテが頭を振るほどなでてきた。髪の毛がぐちゃぐちゃになって、前が見えなくなる。
「ちょっと、やめてよ。おぐしがー」
「……、またあいつが来たぞ」
ふいにビセンテの声音が低くなった。カリスが来たのだろうと、頭に乗っていたビセンテの手を振り払う。
一緒に来るはずだったカリスは王の呼び出しがあり、後から来ることになっていた。終わり次第すぐに向かうからと厳しい顔をして謝り倒してきたほどだ。公爵の仕事ではないのだから、気にしなくてよいのだと言ったのだが、思ったより早く来られたようだ。
「エヴリーヌ聖女様!」
髪の毛を整えて転移魔法陣のある門を見やれば、銀色の髪が見えた。シモンだ。それに、後ろには兵士たちがついてきている。侯爵家の騎士ではない。紋章が違う。
「遅くなりました。ヴォルテール公爵は来られないそうです」
「カリスになにかあったの!?」
「王の命令で待機になったんです。公爵の仕事ではありませんからね」
当然のことを言われたのに、胸になにかが刺さったように重くなった。カリスが一緒に行くと言ったことなのに。
(そうよね。危険があるんだから、来なくてよかったのよ)
けれど、聖騎士の宣言までしてくれたのに。
なんとも言えない重みが胸の中に溜まっていく気がする。王の命令だというのだから、来たくても来られなかったのかもしれない。そう思わなければ、胸の重みは増すばかりだった。
「侯爵子息が兵士を率いているのか? 王の兵士を?」
ビセンテは訝しがった。確かに兵士たちは王の兵士だ。侯爵家の子息が王の兵士を借りるのはおかしな話だが、シモンは侯爵家の兵士を連れて来られなかっただけだと軽く返す。
「エヴリーヌ聖女様。僕がお守りします」
「ひざまずかなくても!」
「いいえ。誓わせてください。必ず僕がお側に参りますと言ったこと、覚えていらっしゃいますよね。シモン・エングブロウ。この名において、エヴリーヌ聖女様をお守りすることを誓います」
シモンはエヴリーヌの手を取り、額に当てて、そのまま手の甲に口付ける。聖騎士の誓いだ。まだシモンは聖騎士にはなっていないが、この誓いをまたも見るとは。
「格好だけだろうが。さっさと立ってもらえませんかね。これから出発するんで。邪魔なんで!」
「さあ、参りましょう。エヴリーヌ聖女様」
ビセンテの言葉をシモンは気にもせず、手を取ったままエヴリーヌを促す。ビセンテは目くじらを立てたが、他の聖騎士たちを整列させて、出発の号令を出した。
「エングブロウ卿、聖騎士の誓いなんて」
「すぐに聖騎士になります。その時にもう一度僕の宣言を聞いてください。それに、」
エヴリーヌの手を引くと、シモンは顔を寄せた。耳元に囁かれた言葉に、エヴリーヌはすぐに顔を離す。
「どうして、それを」
『離婚するんですよね?』
小声だったが間違いなくそう言った。シモンはゆるりと微笑む。
誰から聞いたのか。カリスが話したのか? カリスが王に話して、王から伝わったとか?
(口止めはされていないわ。カリスが誰かに話していてもおかしくない。けれど、)
「二年の間と聞きました。その期間が終わった後、お迎えにあがってよろしいですか?」
「どういう意味……」
「エヴリーヌ聖女様のお役に立ちたいのです。お側でお守り申し上げます」
聖騎士でという意味だろうか。意味がわからず答えあぐねていると、シモンは急に悲しそうに眉を下げた。
「お嫌でしょうか」
「嫌と言うか、」
「ならよかった。僕から離れないでくださいね」
シモンは嬉しそうに目を細めると、歩き出す聖騎士たちの後ろについて、エヴリーヌの側で進み始めた。後ろから王の兵士がついてくる。
来てくれると言ったカリスは来なかった。王の命令だから仕方がない。
けれど、思った以上に胸が苦しい。
(来なくていいとか言って、来ないことにがっかりして、バカみたいだわ)
最初から、カリスの心にエヴリーヌはいないのに。