11−3 カリス
公爵家の領地から戻る途中、馬車が魔物に襲われた。騎士たちが戦い、乳母と護衛の騎士とで走って逃げたが、追いつかれてしまうからと、岩陰に隠れて待つように言われた。
耳を塞いで、戦いの音を過ごしていたが、いつの間にか音が消えていた。しかし、迎えが来ず、ずっとそこで待っていた。けれど、夜になれば獣の声がして、怖くなってそこから逃げ出した。
月のない夜。どこに行けばよいかもわからない。
助けて。何度も言いながら走り、転び、それでも立ち上がって走った先、異様な匂いに気づいた。
気持ちが悪くなるような、鼻に突く匂い。恐ろしさと匂いで、吐き気さえ込み上げてきた。
座り込めば、泉のほとりで、一頭の魔物がよだれを垂らしながらこちらに近づいていた。餌と認識された自分はただ尻餅をついて、息もできないほどの恐怖に襲われて声すら出せなかった。
『大丈夫よ』
その時、後ろから子供の声が届くと、その魔物はあり得ない方向に飛ばされていった。金色の、まばゆい光。それが波のように揺れて流れて、魔物を飛ばしてしまったのだ。
声をかけてきた女の子はゆっくりと近づいてきた。ランプを持った、長い金髪の、オレンジのような金色の瞳をした、愛らしい女の子。当時八歳の自分より年下に見えた。
『今、なにをしたの?』
『別に。どっか行けってやっただけ。お兄ちゃんはなにしてるの? 迷子なの?』
『僕は、ひっ!』
その女の子の後ろに、二匹の獣がいた。狼のような大型の獣だ。けれど、その後ろには鹿もいる。見れば、ウサギやネズミみたいのもいた。動物たちに囲まれた不思議な女の子が、細く小さな手を伸ばしてきた。恐る恐るその手を取れば、一瞬で痛みと疲れが消し飛んだ。
『聖女?』
問えば笑うだけ。聖女ではないのだろうか。痛いところを治してくれるのは、聖女だと聞いていた。もう転んだ時の痛みはなくなっていて、疲れて歩けなくなっていたのに、走れるくらいに元気になっていたのだから、聖女なのだろう。
『馬車が、魔物に襲われて、みんなとはぐれたんだ。ずっと隠れてたけど、迎えが来なくて……』
話していると、涙が流れてきた。乳母や騎士たちがみんないない。どうすればわからなくて、年下の女の子の前で、泣きべそをかいた。泣くような年ではないのに。
『大丈夫よ。ねえ、この子の背中に乗って村まで行こ? みんながあなたの家の人を探してきてくれるわ。大丈夫よ。きっとあなたを探しているから』
そう言って、女の子は鹿の背に乗ると、手を伸ばし、カリスも乗せた。ゆっくり歩く鹿の前で狼が走り、魔物が来ないか確認するように進んでいた。他の動物たちもついてきていて、動物たちの行進が夢の中にいるようだった。
そうして、そのまま近くの村まで連れていってくれた。
『今日は村長さんちに泊めさせてもらいなよ。名前を言えば助けてくれるわ。それと、私がここに来たことは、両親や友だちに言っちゃダメよ?』
『どうして?』
『どうしても。村長さんの家はあそこ。魔物に襲われて逃げてきたと言えばいいわよ。ほら、あの家でご飯をくれる。あったかいお風呂にも入れるわよ』
君は来ないのかと問えば、女の子は笑うだけ。村に住んでいるなら、家があるのだろう。女の子は村長の家をノックする前に、安全に帰れるようにと、聖女の加護をくれた。
ノックの音に気づいた家の住人が出てくると、後ろに下がっていた女の子の姿は動物とともに消えていなくなっていた。
村長の家に泊めてもらい、食事ももらって、近くの温泉にも入れてもらった。臭かったけれど、匂いに慣れれば温かくて心地よかった。朝になったら女の子に会えると思ったけれど、女の子はどこにもいなかった。二日後、公爵家の騎士がやってきた。通報があって、すぐにここに来たのだと言った。
彼女の名前は聞いていない。
村人たちは、獣を操る聖女だと言っていた。温泉が好きで、たまに現れるのだと。村人たちしか知らない秘湯があり、そこに入りに来るだけで、村によるわけでもない。
村人たちはちっちゃな聖女様と呼んでいて、みんな名前を知らなかった。
自分より年下の、愛らしい女の子。
お礼を言いたかったが、女の子との約束で、両親や乳母たちには彼女の話をしなかった。そのせいで彼女を探すことができなかったのだ。金髪の金色の瞳をした聖女。聖女なのだから、大人になれば探しに行けると楽観視していたのもいけなかった。
その子が総神殿の聖女だとわかったのは、それから何年も後。自分と年齢が近い、金髪の聖女。子爵令嬢らしく、その腕が都で噂になった。
聖女と結婚できると知って、心弾んだのは事実だ。しかし、その人はあの聖女ではなく、別の聖女だった。
エヴリーヌに好きな人がいると伝えた時、エヴリーヌから罵られると思っていた。それだけのことを言っているとわかっていたから。
けれど、彼女は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
『二年の間、我慢すればいいんですね』
あまりにすんなりと納得されて、こちらの方が拍子抜けした。
「あ、鹿が」
こんな時間に、鹿が泉の脇を通っていった。こちらを振り向いたが、どうでもよさそうに無視して進んだ。足を怪我しているのか、動きが鈍く、時折膝をカクリと折って、ぎこちなく歩いていく。
(エヴリーヌは鹿肉を好むだろうか)
彼女と食事を共にするが、彼女の食の好みを知らない。なんでもおいしそうに食べるからだ。
(二年の間、できるだけ報いるために、彼女が不便にならないようにしなければ。好みも聞いておくべきだった)
自分は彼女になにができるのか。いつもそればかりを考えている。その答えは、未だわからない。
また鹿が目の前を通っていく。魔物がいなくなったから集まってきたのだろうか。
別の動物もやってきた。今度はフクロウだ。一羽二羽ではなく、何羽かが羽音をたてて飛んでいき、その後を追うように、木々を伝う小動物が枝にぶら下がりながら飛び上がる。
あちらになにがあるのだろう。呼ばれるようにそちらに行けば、泉に足を浸けたエヴリーヌがいた。
仄かな光を手に灯し、動物たちに触れている。触れられた動物は移動して、エヴリーヌの近くに座り込んだ。
(怪我をした動物たちを治療しているのか?)
動物たちがエヴリーヌを囲んでいく。動物たちに囲まれる聖女は、歌うように癒しをかけ、動物たちに話しかけてはなでてやる。その中で、エヴリーヌの癒しの光が、神々しくも輝いていた。
言葉が出ない。その美しさはまるで絵画のようで、ただ惚けるように見続けるしかできなかった。