8−2 パーティ
王の話が終われば、人々の注目の的になった。貴族の名前と顔は主要な者たちだけ覚えているが、そうでない人たちも集まってくるので、名前と顔を覚えるだけで頭がいっぱいになる。
「化粧室に行ってきます」
もう疲労で頭が爆発しそうだ。ざわつく広間を出て、エヴリーヌは休憩を兼ねてカリスから離れた。
先ほどの王の宣言で、エヴリーヌを横目で見ても、文句を言う者はいない。アティとエヴリーヌを比べて文句を口にすることすら、貴族たちに危険が伴うかもしれないからだ。
(知らないうちに、面倒が増えてきそうだわ)
「聖女様、ごきげんよう」
化粧室で椅子にもたれていると、見知らぬ女性が声をかけてきた。長い赤髪の美しい女性だ。目元と口元が色っぽく、髪に合わせた赤のドレスが魅惑的である。綺麗な人ではあるが、きつい印象のある人だ。親しみを込めて声をかけてきたようには見えない。
「どちら様かしら?」
「あら、申し訳ありません。カリス様から聞いておりませんでした?」
その言葉だけで、喧嘩を売りにきたのがわかる。化粧室で、隠れるように座っている公爵夫人にわざわざ話しかけてくるのだから、好意的ではない。
「さあ、まったく聞いたことがありませんわ。どちら様かしら?」
アティ以外はお呼びではない。どうせ相手にされなかった令嬢の一人だろう。売られた喧嘩なので一応買っておくかと、背にいる女性に首だけで応対した。それだけで女性のこめかみに青筋が浮かぶ。
(うん。相手にならないわね。さて、何用かしら?)
「ヘルナ・オールソンと申します。聖女様」
公爵夫人とは呼びたくないか。ヘレナは聖女様、を強調した。
「私に何か用かしら?」
「申し上げにくいのですけれど、私は以前、カリス様とお付き合いさせていただいておりましたの。カリス様は秘密にされていたのかしら。私たちは婚約するはずだったのに、王からの命令で聖女様と結婚されることになって、私、とても辛くて。カリス様がなにもおっしゃっていなかったとは思いませんでしたわ。王の命令でしたから、きっとお話しできなかったのね」
「あら、そうなの? 婚約もできなかったのならば、心を痛めることはありませんものね」
ヘルナの若緑色の瞳が、怒りの炎に巻かれた気がした。図星だったのだろう。婚約することもなかったのだから、たいした付き合いではない。茶会で聞いた噂の相手ならば、王太子殿下も天秤にかけていたはずだ。
どちらを選ぶことなく近寄って、どちらにも選ばれなかったのではなかろうか。
(アティ以外は彼が想う相手ではないのよ。婚約になったとしても、カリスの想いはない)
気になるのは、親が選んだ婚約者候補だとして、そのような相手にカリスが優しく接していたのではないかということだけ。エヴリーヌにするように、相手を立てるために優しくしていたのならば……。
不意に、胸の中がどす黒いなにかに包まれるような気がした。
(私が気にすることじゃないわ)
その黒いものをこするように胸を手で払い、エヴリーヌは立ち上がる。
「ヘルナと言ったかしら? 先ほどの王の話は聞いていなかったの? どうか、理性ある行動を」
エヴリーヌの言葉に、ヘルナはカッと顔を赤くした。独りよがりの牽制だとわかっているのだろう、勢いよく扉を開けて飛び出していった。
「まあね、私も彼から選ばれたわけではないわ」
けれど、いちいち喧嘩を売られては面倒だ。嫉妬を向けられてもエヴリーヌにはどうにもできない。文句を言うならば、結婚を決めた王に言ってほしい。こちらも被害者なのだから。
休憩しようと思ったのに、邪魔が入った。ため息混じりで廊下に出ると、前から男性が歩いてきた。こちらに視線を合わし、優雅に微笑む。
銀色の髪が、エヴリーヌの母親の髪色を思い出させた。結婚式以来会っていないので、両親に手紙を書こうかとふと思う。
「聖女様、ご挨拶をさせてください。シモン・エングブロウと申します」
男はうやうやしく首を垂れると、そっと手を出してきた。
エングブロウの名前は知っている。侯爵家の長男だ。アティがイケメンを治療したとはしゃいでいたのでよく覚えている。
銀髪の癖毛。空色の瞳。優雅な身のこなしが女性を虜にする。好みじゃないけどね! とアティが付け足した理由がわかる。フレデリクと違い、細身の体。しかし、剣を持つ者だったはずだ。
「侯爵子息の名前は常々耳にしています。初めまして、エングブロウ卿」
「僕をご存知とは、嬉しい限りです」
シモンは触れた手の甲に軽くキスをした。肌に当たらない程度の、挨拶の口付け。不躾な男ではなさそうだ。
「僕から声をかけたことをお許しください。聖女様には、お礼を申し上げたかったのです」
アティと違い、都の貴族にお礼を言われるようなことはしていないのだが、シモンは背筋を伸ばすと、胸に手を当てて礼をとる。
「それから、謝罪を」
「謝罪?」
「古い話で申し訳ありませんが……」
もったいぶった話し方をして、シモンはゆっくりと、昔語りをしはじめた。