7.
気が付いた時には、ひとりだった。
見覚えの薄い、仄暗い部屋で目を覚まして、自分が居る場所が判らなくてパニックを起こしかけたけれども、枕元に置かれたマジックバッグを見たら、一気に全部を思い出した。
気絶してからどのくらいの時間が経ったか判らないが、多分、まだ夜にはなっていない筈。まさか夜明けじゃないよね? また一日近く寝ちゃったわけじゃないよねと焦りつつ、そろそろと起き上がる。
………実際の処、あのまま熊の抱き枕にされていても何の不思議も無いような成り行きだったが、何故か居ない。どうした。諦めたか。そうなら良いなあと思いつつカラカラの喉を潤しに水差しに近寄ったら、走り書きなのに読みやすい手紙が置いてあって。
ゆっくりして欲しい、隣の部屋にいるから目が覚めたら合図して欲しいと、外見からは思いもよらない繊細な筆跡で書かれた言葉に泣きそうになった。
ジャンカルロ様は、良い人だ。
獣人族の方々は、番に巡り会うと振り切れがちになると聞く。冗談抜きで暴力に近いような求愛に出る、全く抑制が効かなくなる方も珍しくないのだと。
ジャンカルロ様もなかなかではあるが、でも、本当に私が抵抗すると退いてくれているのは間違いないし、意思表示できない状態になった私に無体をすることは無い。
託宣は正しかった。大きくて、かっこよくて、立派な方だ。一途な方でもあると思う。間違いなく伴侶を大事にするだろう。
それはこの短い時間でも大変に良く判ったが、それ故に、私は情けなくて哀しくて、土地神様が呪わしかった。
こんな有難くも慕わしい方、何で不吉な先行きまで込みで引き合わせてくれるのか。
そう、我ながら激しくチョロいのは百も承知、もはや私はすっかりジャンカルロ様に絆されきっているのだった。
―――死にたくない、そう言って村を出たけど、死ぬこと自体は実はそんなに怖くない。ただ、置いて行かれる切なさも苦しさも十二分に知っている身としては、事もあろうに情の深い獣人の番になってしまってから、その人を置いて死ぬのが嫌なのだ。自分だけの事なら明日死んだって別に構わないが、相手を受け入れたら確実に置いていく羽目になると土地神様のお墨付きの身で、苦しませるだろうと判っていながら目を瞑って相手を望むのは、とても残酷な事にしか思えなくて嫌なのだ。
ジャンカルロ様を苦しめたくない。
ジャンカルロ様は私が番だと頑なに言い張るけれども、私がそれを受け入れる前に、契りを交わす前に居なくなったら、案外きちんと冷静になって、違う人を、もっとちゃんとした人を好きになるんじゃないだろうか。または、ものすごくジャンカルロ様を大事にしてくれる人が現れるかもしれない。
だって、あんなにかっこいい、素敵な、―――身分だって高い人なんだから。
何処の誰かも判らない、得体の知れないド田舎の薬師崩れ如きが望んで良い人じゃない。
自分に言い聞かせないと、ペンダントは外せなかった。歯を食い縛って鎖を外し、ジャンカルロ様の手紙の上に置く。手が震えて笑った。そんなに嫌なのか、私。でもこれを置いて行かないと意味が無い。ジャンカルロ様が、これをめがけて追いかけてきてしまう。
音を立てないよう、細心の注意を払って身支度を整え、窓を開ける。そろーりそろーり、キイとでも言わせたら、隣室の熊の聴覚を刺激するのは間違いない。何があろうと音を立てずに脱出せねばの一心で、ものすごく時間を掛けて何とか抜け出せるくらいに隙間を開けて、まずは頭を出してみる。
……ああ、陽が落ちて、まだ間もないんだ。向かいの食堂から灯りが零れて、賑わいが流れて来る。人通りもあるし、窓から出たら激しく目立ちそうだが、でも扉から出て行くと絶対にジャンカルロ様に気付かれる。……おお、今朝は気が付かなかったが、下の部屋の窓枠が良いところにあるではないか。アレに足を掛けたら上手いこと行きそう。伊達に山で暮らしていないですからね、採取の為には木にだって登る。足掛かりさえあれば、後はこう、ばっと度胸で。
「そうやってまた俺を置いて行くんだ?」
いきなり背後から掛けられた声に仰天して、振り返る弾みで窓枠に掛けていた手足が思い切り滑った。嘘。落ちる。これ頭から行くんじゃ。あ、そうかこうやって死ぬのか。そういう事か。受け入れなくても死ぬって酷くない?
「………っぶねえだろが!」
完全に躰が窓から抜けて真っ逆さまに落ちた、その背中をがっしと掴まれて、ぷつぷつと布が破れる音と共に火傷みたいな鋭い痛みが肌の上を走り。
「あだだだだだだッ」
「馬鹿野郎がーーーーっ」
歯の隙間から押し出すような罵倒を浴びつつ、ぐいーんとそのまま引っ張り上げられ、お腹の底が抜けるような浮遊感を感じた次の瞬間にはマットレスの上に叩きつけられて息が詰まった。そして背中の火傷に似た痛みが改めてがつんと脳天に来て、私はもがきながら喘いだ。いーたーいーーーー。くるしいーーーーーー。
「ば、馬鹿が、死ぬ気か、無理だっつったろうが!」
「お、脅かされなければイケてました―――って何ですかそれ!」
ええとこれは何だろう、半人半熊? 四肢は紛う事無き熊なのだが、胴体と首から上がほぼ人間。なんだけれども目が明らかにヒトのものではなくて、あ、牙が。す、すごい、めっちゃくちゃ怖い。いや、面影はあるのでジャンカルロ様だとはっきり判る、そういう意味では怖くはないけど、あ、耳もなんかちょっと形が歪? いやいやいや、獣人族なのは存じ上げてますのでその姿かたちはホホウと思うだけで怖くも何ともないのだが、目、目がですね、暗い部屋の中で発光している如くにぎらぎらと眩しくて。あわわわわわ。
ぼすん。
ヒトに戻りつつあるものの、まだ鋭い爪と金茶色の体毛が残る両手が、ざっくりとシーツに穴を穿ちつつ、縮こまる私の両側に落ちてきて、躰ごと乗り上げてくるジャンカルロ様の目が、目が!
「幾らでも逃げれば良いさ。逃がさねえだけだからな」
唸るように耳に流し込まれて、背中が跳ねた。あだだだだ。さっきから何だか背中がぬるぬるするんですけど、もしやその爪についているのは私の血。そうですよね、頭から行くところを助けて頂いたので文句はございませんが、多分、私の背中はちょっと簾。
ジャンカルロ様の目、ヒトのそれとは明らかに異なる獣の瞳が、真っ直ぐに私の目を、心を貫き通す。言葉は強い、声も喉鳴りのような、脅かすような音が混じっているけど、瞳は何処か不安そうな、寄る辺ないような、怒りを湛えてぎらぎらしているのに何故かそう見えて、―――ああ、もう、全然駄目だってお腹の底から自覚した。
――――――このひとが欲しい。どうしても欲しい。
「ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。もう逃げない。逃げないから、傍に置いて下さい」
だからひたすらに謝って、お願いしようとしたのに、ぼろっと涙がこぼれた。
ジャンカルロ様は長い長い溜息を吐いた。
それから、ざらざらした舌で私の頬を撫でてくれて、がちがちに強張ってた私の躰がふにゃりと緩んだ。これは猫の舌だ。痛痒いような、擽ったいような舌が、ジャンカルロ様の下で脱力してしまった私の顔を、首を、竦めた肩を通り越して鎖骨を辿り、それからひっくり返されて首の後ろにちょっとひやっとした鼻を擦り付けられて笑いそうになって、ジャンカルロ様も笑おうとしたらしいのだけれども、……固まった。
どうやら私の背中に気付いたらしい。恐る恐る布の裂け目に触れ、息を呑む。
「―――何だこれ。え。お、俺か!」
「あ、や、大した事は……うぎゃあああっ」
慌てふためく声がするなり服を半分引き剥がされて、痛みよりも羞恥で変な声が出た。
かすり傷だろうに、ジャンカルロ様は何故か半泣きで、それはそれは手厚く手当てをしながら何度も何度も謝って下さったのだが、いやあ死ぬより全然マシって私がうっかり口を滑らせた途端に怒りだして、そこから暫くお説教された。窓からダイブは確かに悪かったと思うが、何もそこまで怒らなくても。
「……ちゃんと聞いてんのか?」
「うーんんん」
寝台の上で胡坐をかくジャンカルロ様に抱え込まれてぺたりと座り、広い胸に凭れ掛かっているから、そのちょっと早い心音が伝わってくる。大きな手が、背中の傷に触らないように気を付けながら、ゆっくりゆっくり撫でてくれる心地よさもあって、何だか寝そう。
「そのまま寝る気か。無防備すぎねえか。……さっきから胸がだな……当たって」
ジャンカルロ様が何やらぶつぶつ呟いているが、私にはほとんど聞こえなくて、ただ声が響くのが気持ち良くて、額を擦り付けた。
「あったかくて気持ち良いんだもの。安心しちゃって。……ああ、何だろ、構え過ぎて、考え過ぎて、こんな好い男を逃すのも馬鹿々々しいですねえ」
「やっと認めるか。……考え過ぎるっていうのは、俺が獣人だって事? やっぱり怖いか。さっき見せちまったしな」
「そうじゃなくて、神様の言う事に囚われて、わざわざ幸せを逃すのも何だかなあと」
「…………神様?」
胡乱そうなジャンカルロ様に、私は漸く託宣の事を、それをどう考えたか、逃げようと決めた理由も含め、洗い浚い話した。
番を受け入れたら死ぬって予言された事も。
それでジャンカルロ様が私を厭うなら、それはそれだ。最初に逃げようとしたんだから、逃げられても文句はない。
でも、ジャンカルロ様は何も言わなかった。黙ってずっと聞いてくれた。
「それでこれが託宣の印。……あれ、薄くなってる」
白銀の花びらが掠れていた。あんなに頑張っても取れなかったのに。
まじまじと見ていたら、ジャンカルロ様が私の左手を取って、花模様ごと、母子球をぱくっと食んだ。悪戯っぽく目で笑って、そのままべろりと嘗められて仰け反った。な、何をするですか。
「確かに取れねえな。薄くはなったか? どれもう一回」
「なななななな」
「真っ赤。かっわいい。なあ、もう一回」
「嫌です!」
私が必死に手を隠すさまをくつくつ笑ってから、ジャンカルロ様は改めて私をぎゅっと抱き締めて、頭のてっぺんにぐりぐりと顎を擦り付けた。
「その、番を受け入れたらレナは死ぬって話だけどさ。俺だって不老不死じゃねえんだ。明日、死ぬかも知れないぞ」
「…………はい?」
思わず見上げたジャンカルロ様は、思いのほか真面目な顔をしていた。
「その子は別にレナが即座に死ぬなんて言ってないよな」
「……そう言われれば、そうですけど」
何だろう。ちょっと胸がざわっとした。
「番おうが番うまいが、ヒトだろうが獣人だろうが、死ぬときゃ死ぬんだよ。寿命は誰にでも来る。俺なんざまだ軍属だからな、おかしなことが起きたら行かなきゃならねえし、運が悪けりゃレナを置いて、死体ですら帰って来られねえかも知れない。ぞっとしねえけどな」
「そ……れは、考えませんでした……」
「な? 別に番が云々じゃねえよ。遅かれ早かれ、いつかは死ぬんだ。置いてかれるか、置いてくのか、その日が来るまで、お互いを大事にして、なるべく長く元気に一緒に居られるように努力する。―――なんて顔してるんだよ、当たり前の話じゃねえか」
―――目から鱗というのはこの事か。
茫然とする私に、ジャンカルロ様は、くしゃっと笑った。ああ、この笑顔。この笑顔に最初にやられたんだった。
その笑顔のまま、蕩けそうな顔のジャンカルロ様が、私の目を覗き込む。
「レナ。レナータ・アニェッリ。俺の番。俺の半身。命ある限り、共に居てくれるよな?」
「……はい。ジャンカルロ・レンツォーリ様。末永く、最期までお傍に置いて下さい」
少しだけ潤む視界に、笑み崩れるジャンカルロ様が揺れて。
感極まったように、やっとだよ!! と呻いたジャンカルロ様の抱き込む腕がちょっと尋常じゃない力で。
ゴフっという間抜けな音と共に、意識が落ちた。
遠くで驚愕と無念の雄叫びが聞えたけれども、気の所為だろうと思う。……多分。