6.
起きたら目がパンパンに腫れていて、涎だか何だか判らない何かで枕が濡れていた。
のそのそと布団から這い出し、部屋の隅の台に置かれた水差しから盥に注いで、顔を洗う。ああ目が開かない。もう少し寝ていたいところだけれども、移動しなくては。ええと、村を出てから結局どのくらい時間が経ったんだろう。全く判らないが、女将が叩き起こしに来なかったからには、一晩以上は経ってない筈。
うにゃうにゃと目を擦りながら着ていたものを脱ぎ捨てて、マジックバッグから大判の麻布を引きずり出して、盥の残り水で躰も拭いた。昨日はそれすら億劫な程に疲れていて、下着になって布団に潜るだけで精いっぱいだったのだ。ああ髪も洗いたいが、流石に我慢だ。もう一度マジックバッグをごそごそやって、ハーブのローションを出す。せめても髪と地肌を拭いて、さっぱりしたい。
…はあ。
どうにか人心地が付いて、下履き一枚のあられもない姿で寝台に腰かける。拭いたせいで余計に縺れた髪を手櫛でのんびりほぐしながら、さて今日は何処まで行こうか、というか此処は何処だとぼんやり考えていた時だ。
いきなり扉が開いて、居る筈の無い熊が堂々と入ってこようとし、私の姿を目にするなり凍り付き、すすすすすと下がって行って、静かに扉を閉めた。
―――は???
たった今、目の当たりにしたものが信じられない。だってまさか。
「なんつう格好をしてんだよ!!!」
扉一枚隔てた向こうで何かが吠えているのだが、どう聞いてもあれは置いてきた筈の熊獣人の声にしか思えないのだが、そんな事ってあるだろうか。
「着ろ! 何か着ろ! いいか、十数える間は待つから、何でも良いから着てくれ理性が切れる」
最後の方は絞り出すみたいな掠れ声で、ちょっとどきんとしたけれどもそれどころではない。
何故。何故、奴が此処に。混乱しかなかったが、熊が本当に数を数えだしたので大慌てで脱ぎっぱなして放り出していた服を再び身に付け、命綱のマジックバッグをひっかぶり、出したものを全て押し込んだ。
「…………じゅう!」
律儀に熊が数え終わり、更に逡巡する気配が漂って来る。今しかない。私はそろりと窓を開け、下を覗き、一瞬ためらったけれども度胸一発、二階なら死なないだろうと乗り出した処で首根っこを掴まれて、あえなく脱出に失敗した。
背後からものすごい力で腕が胴に回り、だから強い強い息が出来ないんだってそれ! 逞しい腕をガンガン叩いて咽て訴えて、漸く熊は、ジャンカルロ様は私を抱き込む力を緩めて、ぬいぐるみよろしく私を抱えたまま寝台に座り込んだ。
「ちょっと目を離したらこれだよ。レナに飛び降りられる訳が無いだろう。骨を折るのが関の山だ。勘弁して」
失礼な。いくら何でも骨折はしない。足首くらいは挫くだろうけど。死ぬよりマシだ。
「…………どうせ禄でも無い事を考えてるだろ? なあ、何で逃げるの? そんなに俺の事が嫌か?」
後ろから肩口に顔を埋めて、すんすんするのを止めてくれたら返事をしようか、そんな事を考えながら身を捩ったら、あっさりと離してくれたので拍子抜けした。そろっと振り返ったら、……うわあ精悍な美丈夫が台無し、哀しみつつも恨みがましいような、何とも言えない表情をしているから、つい笑ってしまって、気が抜けた。
「あのですね、嫌も何も、知らない人ですからね? ……何で此処に居るんです? 私、かなり頑張ったんですけど」
知らない人。その言葉にジャンカルロ様はぐううと唸って、私の肩に額を擦り付けた。
「そうだな、相当、頑張ったよな、俺にとんでもねえ薬を盛って、万屋の爺に馬を出して貰って、滅茶苦茶に馬車を乗り換えて」
「こっわ! 怖い、筒抜け!? 一服盛ったのはごめんなさい、ほんとにごめんなさい、だけど何でそんなに詳しく知ってるの!?」
ふん、とジャンカルロ様は鼻で嗤って、あっと言う間もなく、今度は横抱きに私を抱き上げて膝に乗せた。
「ななななな」
「さすがはアニェッリの名を継いだだけの事はあるよ。自慢じゃないが、俺は職業柄それなりに薬物耐性があるし、判断が付くのに、あれは口に入れても何も感じ取れなかった。レナを前にして浮かれてた、それは確かだけど、あんなことは初めてだ。すげえ興味がある。何を盛った?」
いや、普通の眠剤です、単に熊をも斃せる量を飲ませただけで、とはまさかに言えず、曖昧な笑みで誤魔化しに掛かった私を、ジャンカルロ様は困り果てたような、どうして良いのか判らないと言いたげな表情で、またぎゅうっと抱き込んだ。
「なあ、どうして逃げた? どうしても嫌か? 俺が……獣人が怖い?」
「……それに答える前に、どうやって追いついたのか教えて貰えます?」
じっとりと問い返すと、ジャンカルロ様は諦めたような溜息を吐いた。
「目を覚まして、レナが逃げたのが判ったから山を駆け下りた。爺が待ち構えてて鬼の形相で俺を罵倒するのを振り切って、追っかけた。……熊は嗅覚が効くんだよ。半日差くらいなら余裕で追い掛けられる」
「いやいや、半日て。……え? 待って、今、いつです?」
馬鹿げた訊き方だったがジャンカルロ様には通じたようで、片頬だけでにたあッと笑ったのがものすごく格好良くて息が止まるかと思ったが、いやいやいや、違う違う、今いつよ?
「レナは、一日半、寝てた。昨日、昼を過ぎても降りてこないから女将が悩んでるところに俺が追い付いて、追加料金を払った。寝顔を見て、可哀想で起こせなくて、隣の部屋で目が覚めるのを待ってた」
「はああああああ?」
何という事か。寝こけていてマージン全部使いきってたなんて、馬鹿にも程があるだろう私! 道理で顔がパンパンなわけだよ、寝すぎだもの!!
「そんだけ疲れてたんだ。腹も減ってるだろうし、何か食いに行こう」
「えええええ…………」
「だって食ってないだろ? 普段からまともに食ってなさそうだし、今のスレンダーも可愛いけど、ふわふわになったら絶対にもっと可愛い。食わせたい。厭ってほど好きな物を食わせて、幸せそうに笑うところが見たい。そんで、食いたい。滅茶苦茶にしたい」
「最後、何か変な事言いましたよね?!」
「気のせいじゃねえ?」
「絶対違う!」
突っ張らかって暴れたけれども熊に敵う訳もなく、私を横抱きにしたままあっさり立ち上がったジャンカルロ様は、またしても私の首筋に鼻を埋めながら大股に部屋を出て、やめてまさかこのまま外に出ませんよね!? と喚くのも無視して、すごく良い笑顔で階段を降り、苦笑する女将さんの前を通り過ぎて、向かいの建物とは言え思い切り道を渡って、私を食事に連れ出したのだが。
思い知った。
熊の保護欲を舐めてはいけない。
「まさかそれで終わり? せめてもう一枚食え」
眇目の熊がそう言いながらパンケーキを刺したフォークを突き付けて来るが、いや無理。もう無理。白目を剥きそうなほどの満腹でイヤイヤする私に、ジャンカルロ様は不満を隠さない顔で手首を返してパンケーキを頬張った。
店中の客の注目を浴びながらの入店、そして止める間も有らばこその怒涛の注文。卓の上には、普段の私なら二日分はあろうかという程の皿が並んだ。途方もない大盤振る舞いに慄いたが、もしかしたらジャンカルロ様にとっては妥当な量だったのかも知れない。残った料理を片っ端から平らげて、涼しい顔でお茶を飲んでるもの。私はもうこれ以上、水一滴たりとも入らないと言うのに。
「……うーん、ここまで食えないとは思わなかった。どうしよう。なあ、何が好物? 何なら食える?」
腹部の膨満感を何とかして逃がそうと徐々に傾いていく私に、何だまだ何か詰め込むつもりか。
思わず遠くを見てしまったが、ジャンカルロ様は大真面目だった。果物は? 菓子は? 矢継ぎ早に訊いてくるが、まさか今頼むつもりだったりしたらとんでもないので、私は無言で首を振り続けた。
「まじか」
嘆息したジャンカルロ様は実にスマートに会計を済ませると、再び私を抱き上げた。ひい。
「歩けます。歩かせて下さい」
「真っ白な顔で何言ってんだ。モノ食って顔色悪くなる奴なんて初めて見た」
「た、食べ過ぎただけで」
あれでか、信じられねえ、小鳥でももっと食うなどと呟きながら、ジャンカルロ様はまたしても堂々と私を抱えたまま通りを渡って宿に戻り、既に諦めの境地の私は素直に寝台の上に横たえられるのを受け入れた。ジャンカルロ様がそのまま横に座るから、差がありすぎる体重にマットレスが傾いて、私はその傾きに従って転がり、彼に凭れ掛かる形になってしまう。
甘い笑顔のジャンカルロ様が、シーツに広がった私のくしゃくしゃでパサパサの髪を弄ぶ。髪に大した感覚なんかない筈なのに、彼の指が触れるたびに背中がそわそわして落ち着かない。思わずもぞっと動いたら、何でか満ち足りた顔のジャンカルロ様の掌が頬から首に回って、ゆるゆる撫でてくる。擽ったいので是非とも止めて頂きたいが、余りにも嬉しそうな笑顔に拒絶の言葉が喉に閊える。流されてるのは判ってるけど、どうしても出て来ないのだ。
と、撫で続ける温かい指が、私の首に掛かる鎖を引っ張り出した。あ。それは。まろび出る黄金の石にジャンカルロ様が目を細めるから、居た堪れないような気持ちになって目を伏せる。
「……これ、着けてくれてて良かった。こいつのお陰で一直線にレナに辿り着けた」
―――聞き捨てならない事を聞いた気がして、私は思わず身を起こした。何故かそのまま引っ張り上げられて抱き込まれ、トドメに首筋を甘噛みされて気が遠くなりかけたが、搔き集めた根性で踏みとどまる。
「いま何て?」
「何が?」
ええい首元で喋るんじゃない、気が、気が散る!
「だからっ、いま、……ひゃっ、いま、何かペンダントの事を……あわわわわ」
ぐりぐりと顔を擦り付けて来る熊を何とか押しやり、ぜいぜいしながら問い詰める。熊はきょとんと首を傾げ、うわその顔反則だろうと持って行かれそうになる私を、その黄金の瞳でじっと見て。
「この石はレンツォーリの護符だ。何処に居ようと持ち主の居処を教えてくれる。家族や友人に持たせる物だが、恩を受けた相手に渡すこともある。姉貴がとんでもねえ薬師に助けられた、必ず恩を返したいから押し付けてきたって、レナの作った補助具を見せびらかしてきて―――心臓が止まるかと思った。レナの匂いがして、番を見つけた、それしか考えられなくなった。でかした姉貴つって飛び出して、護符を頼りにぶっ飛ばしてきた」
ふわっと、本当に幸せそうな顔で笑うジャンカルロ様を直視できなくて、居た堪れなくて、ぎゅっと目を閉じる。
閉じた瞼の端に、温かい、柔らかいものが触れる。
「…………そういう顔されると、どうしていいか判んねえ。なあ、……大事にする、確かにレナにとっては俺は全然知らない馬の骨だよな、だけど、どうしてもレナじゃなきゃ駄目なんだよ俺」
必死の口調で掻き口説いてくる熊に、包みこんでくる熱に香りに中てられる。お腹の底から、訳の判らない、締め付けられるような焦げ付くような、得体の知れない、とろりと熱く込みあげてくる何かに負けかけた、その瞬間。
―――だけど、受け入れるとお姉さんは死んじゃうから、気を付けてね。
決して耳から離れてくれない、細くて透き通ったこの世のものならぬ声が囁いて。
意識が、飛んだ。