5.
何が起きたか判らなかった。
霞む目を擦りながら、ごきごき鳴る腰を摩って表に出たら何だか薄暗くて、あれえ今は朝方なのか夕暮れなのか、背伸びかたがたちょっと空を見上げようとしたら、背後で微かな物音がしたのだ。家の周りには害獣避けのハーブを植えてはあるが、効かない種類のものもいるから、私は万が一ヤバい代物だった時に備えて、ゆーっくりと顔をそちらに向けた。
あれ、何かでかくて綺麗な色の見慣れないモノが。
そう思った次の瞬間、その綺麗なモノが飛び掛かってきて、かったい板のような、それにしては肌触りが悪くない布に包まれた何かが激突してきて、ああ吹っ飛ばされると思う間もなく極太の蔓のような、変に温かくて硬いような柔らかいような訳の判らないモノがかなりの力で巻き付いてきて、私は肺から空気が搾り取られて息が止まった。
「ごはッ」
蛙が圧死する時か、みたいな声が漏れる。必死で吸う空気に、何と言うか、これまでの薬師人生でも嗅いだことがない、森の樹々みたいな遠くに柑橘が感じられるような、それを圧して脳を引っ掻き回しに掛かってくる未知の熱を帯びた、なんだこれ、目が、目が回る。
自分がぐにゃっとなったのが判ったけれど、視界が暗く、ぐらんぐらんするのに翻弄されてどうにもならない。あ、もう駄目かも。
ちょっと変な覚悟を決めた時、唐突に蔓の巻き付く力が弱まった。急に入って来た空気に咽て、ゲホゲホ咳き込みながら気が付く。あ。転ぶ。腰が抜けてる。
「ごめん。悪い。ごめんな俺が悪かった」
目の前の綺麗な何かが美声で喋るや、膝下からお尻の下に何かが回り、ひょっと躰が持ち上がった。後ろに倒れそうになる背中も温かな何かが支えてくれて、反射的に閉じてしまっていた目の縁に何やら生暖かくて柔らかいモノが触れた。
「良い匂い。気持ちいい。はあ」
…………翻弄されて成すがままになっている場合では無いような気が激しくする。非常に不穏な音声が先ほどから聞こえるのだがこれは一体。
恐る恐る目を開けた、その正しく目と鼻の先に、濃い黄金の瞳があって、再び息が詰まった。
「ああ、良いね。すげえ綺麗な瞳だ。綺麗な黒。吸い込まれそう。でかくて、きらきらしてる」
そう仰る貴方様の目もかなりのものですが。何処かで見たことがあるような、深い深い黄金。懐かしいような、………初めて見るのに。
………いやそうじゃない、見入っている場合じゃないんだ、これは一体何事!?
「暴れんな、落ちる。あ、こら」
あーもう。そう言うなり大きく揺すり上げられて躰が浮いて、ぎょっとして手近なモノに思い切りしがみついてしまった処が奴の首で、慄く私の耳に感極まったような吐息が流し込まれたものだから、泡を食って押しのけようとしたのだが全く敵わない。そりゃそうだ、自分の倍くらい体重がありそうな厳つい男相手に。そう思った途端に血の気が引いて、私は今度こそ力の限り抵抗した。
「うわ、何だ、暴れんなって! だーもう」
「だーもうじゃないんですよッ! 誰あんた! 降ろして!!」
「嫌だね。どう考えたって降ろしたら逃げるだろ。逃がさないけど」
背中が粟立つというのは、こういう事を言うのだろう。見ず知らずの男、しかも滅茶苦茶にガタイが良く、粗削りで精悍な、いわゆる二枚目とは違うかも知れないけれども目鼻立ちがくっきりしたまだ若い男に出合い頭に子供抱きされて離して貰えない、こんな状況、恐怖でしかないわ! 鳥肌が全身にばーっと立って、唇がチリチリするくらい血が引いていたけれど、いや駄目だこれで気絶なんかしようものなら、それこそ何をされるか判らない。ひー、何でこんな事に! 食っても身なんか無いですよ!!
「……おい、息しろ、息を。死ぬ気か。死なせないけど」
「は、離して、くれれば……、っげほ」
ものすごく不承不承と言うのが丸わかりの溜息を吐いて、男は私を地面に降ろし、間髪入れずに襟首を掴みに来た。私は猫か。
「ここに棲んでるんだよな? とりあえず入れて。落ち着いて話そう。……うん、俺も落ち着く努力はするから、そんなに怯えんな。流石に傷つく」
非常に疑わしいが、ここで立ち惚けていても何も解決するまい。降ろされて見上げるこいつはいよいよでかく、家の内に入れるのは実に躊躇われるけれども、何しろ粗末とは言え寝台もあることだし入ったらすぐ見えるし、いや、でも茶で持て成すふりをして一服盛ると言うのはアリか。よし。森林熊でも昏倒するほどの眠り薬を食らわしてやる。
―――この時の私には、この男の正体なんぞ判っている筈が無かったのだけれども、生存本能の成せる業か、何故か森林熊という言葉が脳裏に浮かび、本当にそのまんま、普通の人に飲ませたらイチコロだっただろう量の眠り薬を何の迷いもなく盛った茶に、なけなしの誤魔化しに蜂蜜も山盛り入れて、出した。本当にひとかけらの迷いもなく出した。
どうにか荷物に占領されていなかった食卓の椅子に座り込み、物珍し気に取っ散らかった室内を見回していた男は、その危険物を何の疑問も持たずにひとくち啜った。相好を崩し、大変に嬉しそうに私に礼を述べて、また口に運ぶ。いいぞ。その勢いで全部飲め。呪いのように念じながら、私も自分用の無害な茶をひとくち飲んだ。
「姉貴の話も信じられなかったが、村で聞いた時には肝を潰した。本当にこんな処にひとり暮らしだなんて、正気の沙汰と思えない」
「村で聞いた? 私の事を?? 何でまた……いや、それより本当に貴方誰ですよ」
男はきょとんと目を瞠り、それからくしゃっと笑った。
「ああそうか。えーと、何処から話せば良いのか………そうだ、まずは礼を言わなきゃならんのだった。姉貴が大変に世話を掛けた。心から感謝する」
「姉貴」
嬉し気に危険物を飲む男をしげしげ見る。姉貴、……姉貴? まさかと思うが、先日のギックリのダニエラ様に目元の辺りが似ているような。ん? と、言う事は。まさか。
「……まさかと思いますけれども」
「あのコルセット、滅茶苦茶良いな。あんな優れもの、中央の医師からも見せられたことが無いが、レナが考えたのか?」
「いや師匠の考案をちょっと工夫しただけですが、……と言う事はやっぱりダニエラ様の縁者の方で」
「うん、だから、弟。ジャンカルロ・レンツォーリと言う。熊の一族に連なる獣人で、今はまだ軍属の身だが間もなく退役が許される。レナ、必ず幸せにするから、末永く頼むな」
全く頭が付いて行かない。熊とは。いつの間にレナ呼びに。何故に名前を知っている。村長か万屋か、ああダニエラ様が知っているのか。だけどダニエラ様が村を出立してから何日経った? この国の獣人族の方々は中央に集中している筈で、ダニエラ様から聞いたとするならこの男が今ここに居るのはどう考えても計算が合わないが、待ってこの男は獣人なんだよね? ―――という事はつまりコレが例のアレなのでは。末永くってそういう事か? えええええ???
「……あー。可愛い。レナ、その口を閉じないと、塞ぎに行くぞ」
半口開けて茫然としているところに熱っぽい眼差しでの爆弾発言を食らい、飛び退こうとしたけれども食卓越しに素早く腕を掴まれて、それどころじゃない、いつの間に立ち上がってどういうスピードでやって来たのか、向かいに座っていた筈の私の足元に跪いた男が、蕩けたような、ちょっと惚けた顔で見上げて来るから、呼吸が喉に引っ掛かった。
「レナ、レナータ、俺の番、俺の命。やっとお前に逢えた。ずっと探してた。国中を廻った。任務に託けたわけじゃないぞ、ちゃんと、いつお前に巡り合っても、護ってやれ、る、ように」
固唾を呑んで、私は目の前の男がぐらぐらしだすのを見守った。
瞬きが緩慢になり、呂律が怪しくなって上体が揺れる。私の腕を掴む力が緩んで、床に落ちる。何度も頭を振って、不思議そうな表情になって、抗うように床に腕を突っ張ったけれども力が足りなくて。
べしゃっと、彼は私の足元に崩れ落ちた。
―――効いた。やっと効いた。
あの量を飲み干してまともに喋るからどうしようかと思っていたが、流石に体力に勝る獣人でも最終的には抗えなかったらしい。そう言えばこの人、自分の事を熊って言った。当てずっぽに任せて薬を盛り過ぎていなかった事に安堵しつつ、それでも冷や汗を掻きながら、私は彼の呼吸を確かめた。大丈夫、実に安定しております。ぐっすり眠っておられる、今のうちに逃亡しなくては!
だが、様子を見ようと屈みこんで彼に躰を寄せた、それがどういう因果か、私に得体の知れない酩酊感と高揚を齎した。何だこれ。手が勝手に動いて、彼の明るい茶色の髪に潜り込む。短く刈った硬そうな髪、でも見た目より撫で心地が良くて、梳くように撫で続ける手を止められない。……頬に触れたらどんな感じなのかな、髭は無くて、引き締まってる、唇はちょっと厚めで、あ、見た目より柔らか―――って何をやっているのか私!
爆睡している筈の男が小さく笑って私の手に頬を擦り付けてくる、その感触で思い切り正気に返り、私は情けなく後ろ向きに這って這って彼から距離を取った。
危ない。近寄ると持って行かれる。理屈が判らないけれども、この男の傍に寄ったら終わりだ。
そのままズルズルと這って距離を取る。どうにか外出が出来る程度に身支度を整え、準備万端整えておいたマジックバッグを斜め掛けにした。背負い籠を引っ張り出し、作る端から仕分けしておいた薬包、薬種、その他諸々、とにかく村の助けになりそうなものを搔き集めて放り込んで背負いこみ、重ね重ね火の元が消えていることを確認して、そろーりと家を抜け出そうとして、…………ちょっと後ろめたいというか後ろ髪を引かれると言うか、いや違う、幾ら頑健な熊だとて床に剥き身で放置しては風邪を引くだろう、そう思って寝台から掛布を取って来て、そっと掛けた。
「…………ん、……レナ」
爆睡している筈なのに。
ふわっと、ものすごく優しい顔で笑った熊が、……ジャンカルロ様が、自由が利かないだろう躰をもぞっと動かして、掛布をぎゅっと掴んだ。
―――そうだね、それ、私のだから、私の匂いが付いてるよね。
ふらっと膝を付きそうになった足が散らかった薬草屑を踏んで、そのじゃりっとした感触で危うく正気を取り戻し、私は這う這うの体でその場を後にした。飛び出して、閉めた扉に背を預けて、お腹の底から深呼吸したら、いきなり思考がやたらにクリアに澄み渡り、ああ本当に彼に中てられてたんだ、と悟った。
「ごめんなさい、まだ死にたくないんで!」
聞こえる訳がないのに謝らずにはいられず、それだけ言い残して、私は脱兎の勢いで山道を駆け下りた。枝だの下生えだの根っこだのが足止めするのを無理矢理振り切り、史上最高速で万屋の軒先に辿り着いた時には凄まじい形相だったらしく、出くわした爺さんが目を剥いて飛び退いた。
「何だレナータ、どうしたッ」
「爺さん、ごめん、村を出る! これ薬と薬種と、あといろいろ入ってるから使って! 代金は要らない、突然でごめんね、ほんとごめんなさい、死にたくないのよ詳しい事は村長が知ってるからッ」
まくしたてて籠を押し付ける。爺さんは口をあんぐり開けて茫然としていたが、じゃ! と駆け出そうとした私の上着を掴んで引き留めやがった。
「何だか判らんが、もしかして、お前の家はあの山かっつってえらい勢いで踏み込んでった男前の所為か?」
私はコクコク頷き、足踏みしながら爺さんの手を捥ぎ放そうと頑張ったのだが、爺の癖に力が強い。ちょっと。ほんとに時間が惜しいんですけど。
「お前がそこまで逃げるからには、助けない訳にはいかん。あの世でアルベルティ―ナにどやされちまう。一刻を争うんだな?」
壊れたおもちゃのように頷き続ける私に、爺さんはフンスと鼻息を噴いた。
「ダリオ、ニコを出しな! レナータを町まで送ってけ、大至急だぞ、乗合馬車に乗せてやるんだ!」
ニコは村でも抜群に脚の早い牝馬だ。それを出してくれるなんて、何て男前! 爺とか言ってごめん!!
感激する私の前に、万屋の長男、ダリオさんが首を傾げながらもニコを引いてきてくれて、乗せてくれた。そして振り落とされるか舌を噛むかという勢いでダリオさんがニコをかっ飛ばし、かっ飛ばし、かっ飛ばし、乗合馬車が出る町まで普段の半分近いようなスピードで送り届けてくれた。ニコは半ば泡を吹きかけてたので、渋るダリオさんにニコのご褒美代を押し付け平身低頭お礼を言ってから、馬車の発車を知らせる鐘の音に、乗るから待って! と声を張り上げて飛び乗った。
何処行きなのか見もしなかったが、とにかく、あの家から、熊から距離を稼げればそれで良い。
「姐さん、どえらい勢いだったけど、……訊くのも何だけどさ、不幸でもあったかい?」
虚脱状態で背もたれに寄り掛かる私に、何だかものすごく気を遣った口調で、向かいに座ったおばちゃんがそう言いながら、食べな? と飴玉をくれたので、有難く頂戴して、即座に口に入れた。
甘い。旨い。人の情けが五臓六腑に染みわたる。いや何か違うな、でも、……あれ。
「…………何にも言わなくて良いからさ、ね、いろんなことがあるよね、泣きたいときは我慢すんじゃないよ」
ねえ、って同乗の人たちに言いながら飴玉のおばちゃんがクシャって笑って、その笑顔がジャンカルロ様の笑顔に重なった気がして、……本当に泣けてきた。
全く知らない男に襲い掛かられたら逃げる、それは正しい行動の筈なのに、何でか胸の奥が痛い。
末永く頼むって、ジャンカルロ様はそう言ってくれたのに、一服盛って、置いてきた。
俺の命って、幸せそうに笑いながら言ってくれたのに。
―――私みたいな、得体の知れない女に。
飴玉が小さくなるまではひっそり泣いたけれど、最後はガリガリ噛んで飲み込んで、次に止まった停車場で降りた。おばちゃんは降り際にもうひとつ飴をくれた。何て良い人だろう。感謝しながら目についた馬車を篭脱けし、適当に次の馬車に乗った時には、私はすっかり開き直っていた。
―――まだ死にたくないもの、仕方ないよね?
そうやって馬車を乗り継いで、全く知らない町の寂れた宿の一室まで逃げ込んで、女将さんから分けて貰ったパンを齧って水を飲んで、固い寝台に横になったけれども、どうしてもダニエラ様から頂いたペンダントは捨てられなくて、握りしめずにはいられなくて、いっそ笑った。
―――だってこれ、ジャンカルロ様の瞳にそっくりなんだもの。