居場所
カウティスは目を覚まし、テントの白い天井を眺めながら、ぼんやりと記憶を手繰る。
そして今朝の事を思い出し、急ぎ起きようと右手をついて、その痛みに顔を顰めた。
「王子、目が覚めましたか」
部屋の隅の机で、魔術符を描いていたマルクが、栗色の瞳を細めて、急いで近付く。
寝台で上半身を起こしたカウティスは、マルクの顔を見て、ホッとした。
「マルク、無事だったか」
「はい、何とか」
「セルフィーネは?」
マルクは笑顔で寝台の頭側を示す。
「ずっと、そこにいらっしゃいます」
カウティスは示された方に振り返るが、勿論何も見えない。
ただ、側にある水差しの水が僅かに揺れて、小さな声がした。
「カウティス」
「セルフィーネ、良かった……」
カウティスは、セルフィーネが消えていないことに安堵して息を吐いた。
午後の二の鐘が鳴るのが聞こえる。
川から上がって、すぐ眠ってしまったのだというから、随分眠り込んでいたことになる。
記憶を手繰るが、中洲からどうやって戻ったか、殆ど覚えていなかった。
ずぶ濡れになった服は脱がされ、下着の上に、薄い布団を掛けて寝かされていた。
カウティスは、裸の胸に、いつも身に着けていたガラスの小瓶がないことに気付いた。
月光神の御力を借りようと、右手で握ったのは覚えているが、この掌の痛みはもしかして。
「小瓶は割れてしまった。……すまない」
セルフィーネの小さな声だけが聞こえた。
月光もなく、小瓶の魔石もない今は、姿を現すことは出来ないのだろう。
今朝、中洲で見た様子からも、恐らく暫くは魔力を回復せねばならないはずだ。
「そなたが無事なら、それでいいんだ」
心からそう思った。
苦しそうだったあの姿から解放出来たのなら、小瓶も本望というものだ。
「セルフィーネ、どうしてあんな無茶をしたんだ?」
姿が見えないので、水差しの方を向いて話す。
しかし、セルフィーネの返事は返ってこない。
「セルフィーネ、話してくれないと、俺はそなたが何処にいるのか分からない」
眉を下げて、カウティスは左手を差し出した。
セルフィーネは、おずおずとその手に見えない手を乗せる。
「……同胞を、救ってやりたかった。それに、西部の人々も、早く笑って暮らせるようにしてやりたかったのだ」
随分間を空けてから、セルフィーネが消え入るような声で言った。
カウティスは唇を引き結んだ。
「きっと、セルフィーネならそう考えたんだと思ったよ。でも、そなたが一人だけで背負うことじゃない。ネイクーン王国は、俺達の国だろう」
セルフィーネの胸に、じわりと寂しさか広がる。
“俺達の国”。
そう、ここは“人間の国”なのだ。
結局、水の精霊の自分は、人間とは別のもの。
人間の物に、手を出しすぎてはならないのだ。
「……余計な事をしたと、怒っているのか?」
セルフィーネの不安気な声に、カウティスは首を振る。
「そなたは自分の国を守ろうとしたのに、余計な訳ないだろう? 怒るとしたら、一人きりでやろうとしたことだ」
セルフィーネは、思わぬ言葉に目を瞬いた。
「……自分の……国? ネイクーンは、私の国なのか?」
カウティスは、怪訝な顔をする。
「当たり前だろう。人間と水の精霊の国だ。そなたも、そう思ってくれているから、これ程に民を大事にしてくれるのだろう?」
「人間と……私の……」
セルフィーネは苦しくて胸を押さえた。
寂しさが広がっていた胸に、今は何か別の温かいものが溢れて、苦しい。
世界から突然切り取られ、ネイクーンに落とされたあの日から、一人だけ宙に浮いたようだった。
人間とは別のもので、同胞に交わっても、今迄と同じ様にはいかない。
私は、何処に居て、何処に帰れば良いのだろう。
カウティスという大切な人を見つけて、更に分からなくなった。
カウティスは人間だ。
いつかは人間と同じ道を行くかもしれない。
ずっと私と一緒にいたとしても、いつかは老いて逝ってしまうだろう。
その時、私は何処に居れば良いのだろう。
カウティスがいなくなれば、もう何処にも居られないかもしれない。
―――自分の国。
泣きたいほどに、嬉しかった。
明確に、立つ場所を教えられた気がした。
何があっても、ネイクーン王国こそが、私の居場所でいいのだ。
「セルフィーネ?」
何も言わなくなったセルフィーネに、消えてしまったのかと、カウティスが戸惑ってマルクを見た。
マルクなら、水の精霊の魔力が見える。
出ていくべきなのか、ここに居るべきなのか迷いながら、二人のやり取りを聞いていたマルクが、突然頬を染めて目を瞬いた。
カウティスが眉根を寄せる。
「えっと、カウティス王子。水の精霊様が、王子の胸に、その……」
説明すべきか迷いつつ、自分の両腕で抱き締めるポーズをとるマルクに、察したカウティスが吠えた。
「見るな! 部屋を出てろ!」
「ええー!? 横暴!」
ブツブツ言いながら、仕切りの布をはぐって出ていくマルクを確認し、カウティスは熱い息を吐く。
自分の胸の前にそっと手をやるが、何も見えないし、なんの感触もない。
「魔術素質が切実に欲しい……」
情けない顔で呟くカウティスの胸に、セルフィーネは黙って顔をうずめていた。
「王子、入りますよ」
仕切りの布を捲りあげ、ラードが入って来た。
カウティスは寝台から降りて、着替えていたところだ。
「体調はどうです?」
怪我をした右手で、ボタンを掛けるのに苦労しているカウティスの前に立ち、ラードが身仕度を手伝ってやる。
「悪くない。迷惑を掛けたな」
「今に始まったことじゃありません」
ニヤリと笑って言うラードに、カウティスは半眼になる。
続けてマルクが、盆に軽食を乗せて部屋に入ってきたが、少々顔色が悪いようだ。
カウティスの身仕度が整ったところで、ラードが顔を引き締める。
「王子、悪い知らせがあります」
ラードの只事ではない様子に、カウティスは眉を寄せる。
「……何だ?」
「エルノート王太子の体調不良の原因が、毒物だったようです」
カウティスは息を呑んだ。
「毒だと!?」
昨日、拠点にいる魔術士の定期連絡で、王太子の様子も聞いた。
神官の神聖魔法を受けて、体調は回復したと言っていたはずだ。
「神官と薬師が手を尽くしているようですが、解毒には至っていないようです」
ラードの報告に、マルクが続く。
「聖女様はまだ、巡教から戻られておらず、早急に戻られるよう陛下が要請されたようなのですが、王太子がそれを取り消されたとかで……」
カウティスは、兄らしい指示だと思った。
聖女の巡教は、民の為のもの。
それを置いて戻れなどという要請を、兄が許すはずがない。
カウティスはギリと奥歯を噛む。
何故、あの清廉潔白の兄が、毒を受けるようなことになるのか。
「王城に戻る」
カウティスが、掛けてあったマントと、長剣を取る。
それをラードが取り上げる。
「ラード!」
「止めませんって。急いで戻る準備をしますから、その間に食ってて下さい。腹減ってるはずですよ」
マルクが持っていた盆を、そろりと机に置き、ラードがそれを指差す。
カウティスは、何か言いかけて口を開いたが、思い留まって、そのまま深く息を吐いた。
「…………食べる」
椅子を引いて座ると、左手でぎこちなくフォークを持ち、大人しく食べ始めた。
「成長しましたねぇ、王子」
「うるさい。早く行け」
深い灰色の目を細めて、満足気に笑うラードをカウティスは睨んで言う。
砂漠での二人のやり取りも見てきたマルクが、ポカンとして言った。
「いつの間に、二人はそんなに仲良くなったんですか」
「そんなんじゃない」
カウティスが渋面になるのに、ラードはさぞ可笑しそうに笑って出て行った。
「セルフィーネ」
暫く黙って食事をしていたカウティスが、盆の上のグラスに入った水に向かって、声を掛ける。
「ここにいる」
グラスの水が微かに揺れる。
「アナリナが何処にいるか、見えるか?」
「やってみよう」
「頼む。マルク、聖女の居場所が分かったら、魔術士ギルドの通信を使って、彼女に兄上の状況を知らせろ。兄上を助けるには、きっと聖女の神聖力が必要になる」
マルクは仰天する。
「王太子が止めたんですよね?」
カウティスは最後の一切れを口に入れ、無理やり水で流し込むと、立ち上がった。
「聖女のことは、兄上よりは知っている。もし故意に伏せられたまま、兄上に何かあれば、彼女は傷付くだろう」
カウティスの青空色の瞳に、力が籠もる。
「助けられる可能性があるのなら、アナリナはきっと、全力を以て全てを助けようとするはずだ」