聖女の選択
西部国境地帯のベリウム川の側には、以前は村だった場所に、大きな仮設テントが幾つか立ち、休戦処理の拠点となっていた。
この地域に配備されていた兵士達の多くが、ここを通って中央に帰って行く。
そこからまた、故郷へ帰ることになる。
ひとつのテントの奥で、カウティスは眠っていた。
セルフィーネを浄化した後、動こうとしないカウティスを、ラードが命綱を付けて中洲まで迎えに行き、何とか岸まで連れ戻したが、疲弊しきったカウティスは、そのまま倒れるように眠ってしまった。
昼の鐘が遠くから聞こえて、暫く経った。
テントの仕切りの布を掻き分けて、マルクが奥の部屋に入って来た。
川で濡れた兵士服から着替え、緑のローブに戻っている。
マルクは、簡易寝台に眠っているカウティスの側に、ドッカリと椅子に座って、腕を組んでいるラードに声を掛けた。
「ラードさん、交代します。王子には付いていますから、食事してきて下さい」
「もうそんな時間か」
ラードは立ち上がって、カウティスを見下ろし、小さく溜息をつく。
この場所に駐在している薬師が診たところ、疲労で眠っているだけなので、その内目覚めるだろうと言っていた。
水の精霊を浄化したのだから、疲れるのは当然と言える。
そもそも浄化は神聖魔法の類で、神聖魔法の媒体は、使う者の生命力だ。
カウティスがどうやって浄化を行ったか分からないが、生命力を削ったのは確かだろう。
怪我は、右掌だけ。
酷い火傷に、砕けたガラスの小瓶の破片が幾つか刺さっていた。
今は薬師が治療して、手首まで包帯が巻かれてある。
「……心配しなくても、ちゃんと目覚めますよ」
マルクが小さく呟くように言うと、ラードは顔を顰め、咬み付くように言う。
「当たり前だ」
マルクは目を瞬き、ああ、と気付いて首を振る。
「ラードさんじゃなくて、水の精霊様に言ったんです」
ラードが濃い灰色の眉を寄せる。
「水の精霊様?」
「はい。ずっと、カウティス王子の側におられます」
眠っているカウティスの頭側に、水の精霊の魔力が留まっていて、動かなかった。
ラードは改めてカウティスの方をまじまじと見るが、魔術素質がないので、勿論全く分からない。
分からないのに、いると言われて、水の精霊は国益と理解していながらも、薄ら寒い気分になった。
「……本当に?」
不明瞭な、小さな小さな声が聞こえて、マルクは飛び上がる程に驚いた。
寝台の側に置いてあった水差しの水が、よく見ると、ひとりでに揺れている。
水の精霊だ。
「は、はい。薬師は、寝ているだけなので、暫くすれば起きるだろうと言っていました」
緊張気味に答えるマルクに、ラードがおかしなものを見るような目を向ける。
マルクは一人、感動に打ち震える。
魔術士になって王城で働けば、水の精霊の声を聞く機会もあると知っていたが、聞くと言っても、儀式や式典などで、水の精霊と王族が声を交わすのを聞くくらいだ。
それでも、いつか、国を守る水の精霊の声を聞くのだと、大きな期待を胸に王城勤務に決まった年、水の精霊はフォグマ山で眠りについてしまい、声を聞けないまま十三年経った。
休戦協定を結ぶために、王が水の精霊に西部へ留まることを要請した際、同僚二人と共に、執務室で声を聞き届ける役目をした。
水の精霊の声は、固く、とても静かな声だった。
エスクト砂漠で聞いた叫びも、今朝ベリウム川の中州で聞いた怒りの声も、人間のものとは違う響きの声だった。
だが、今の小さな声は、不安や心配といった感情が透けていて、人間がそっと囁いたように聞こえた。
一言ではあるが、一介の魔術士の自分に、声を掛けて下さったなんてと、マルクは心臓が跳ねるようにドキドキした。
それで、自分の呼び掛けに返事をしてくれるとは考えずに、言葉を続けた。
「王子は、水の精霊様をとても心配しておいででした。どうか、もう無理はなさらないで下さい」
すると、間を空けて小さな声が返ってきた。
「……すまない。そなた達にも、迷惑を掛けてしまったようだ」
「め、迷惑などっ!」
顔を紅潮させ、マルクはブンブンと手を降った。
ラードはテントを出ていくタイミングを逃し、微妙な顔でマルクを見ていたが、小さく溜息を付いて呟く。
「……独り言喋る奴が増えちまった」
聖女アナリナは、窓から差し込む光が眩しくて目を覚ました。
椅子に座ったまま、うたた寝していたらしく、首が痛い。
西日が入って眩しいということは、そろそろ夕の鐘が鳴る頃だろうか。
南部のエスクトの街を出て、八日。
既に中央までは帰って来ている。
復路は、往路では通らなかった町や村を巡教していて、小さな町で今日の予定を終え、夕食まで宿の一室で休憩していたところだった。
アナリナは立ち上がり、両腕を上げて伸びをする。
薄い法衣一枚だったので、上に祭服を羽織り、お茶を貰おうと部屋の扉に向かった。
「……では、やはり毒なのか」
“毒”という不穏な言葉が耳に入り、アナリナは反射的に動きを止め、気配を殺して耳立てする。
どうやら、部屋の外で護衛騎士が話しているようだ。
「毒の特定が出来ず、解毒に至らないらしく……」
「何ということだ。……私は急ぎ、王城へ戻る。聖女様の護衛はお前達に任せる」
ノックスの声だ。
王太子の近衛騎士で、今回の巡教でカウティスと聖女の護衛に就いていた。
「ノックス、今の話は、誰のことですか?」
突然尋ねられて、護衛騎士二人と、ノックスがギクリとして振り向き、扉を空かしたアナリナを見つける。
「聖女様、いえ、あの……」
嘘を付くのが苦手なのだろう。
ノックスは誤魔化す言葉がすぐに出てこず、目線を漂わせる。
王太子の近衛騎士であるノックスが、急いで王城に帰るということは……。
「王太子様が、毒を受けて苦しんでおいでのようなのです」
護衛騎士の後ろから、月光神の女神官が告げた。
ちょうと、アナリナを呼びに来たようだった。
ノックスが慌てて女神官を止めようとするが、彼女は首を振る。
「後で知らされる方が、聖女様が苦しまれます」
女神官が眉を下げ、アナリナを見る。
「陛下から神殿に、聖女様を急ぎ王城へお連れするよう申入れがあったようですが、その後王太子様が取り消されたようです」
「え?」
「聖女様の救いを待っている民を優先せよ、と。聖女様のお耳に入れて、どちらかを選ばせるような真似をしてはならぬと」
アナリナが青銀の眉を寄せる。
正に、あの王太子らしい発言ではないか。
ノックスが拳を握り、アナリナの前に膝をついた。
「聖女様、どうか、王太子殿下をお救い下さい。既に、神官の神聖魔法では、苦しみを和らげる程度にしかならぬと」
彼は奥歯をギリと音がする程噛み締めた。
「……あの方は、ネイクーン王国になくてはならない方です。どうか!」
アナリナは、静かにノックスを見下ろした。
王族も、貴族も、嫌いだ。
ノックスだって、国の為だと理由をつけて、こうやって私に選択を迫る。
もし、その選択のせいで助けられない者が出たら、その時の私の苦しみや後悔は、誰も代わることが出来ないのに。
ふと、アドホの貧民街で、少年を抱き締めたカウティスを思い出した。
エルノートに輝く笑顔を向けていた、孤児が目に浮かぶ。
アナリナは無性に腹が立った。
何故ネイクーンの王族は、嫌いなままでいさせてくれないのだろう。
文句を言いたい気持ちはあるのに、それでも飲み込んでしまう。
聖女としての義務感ではなく、助けてあげたいと思ってしまうではないか。
「勝手に優先順位を決めないで」
アナリナの声に、ノックスがきつく目を閉じた。
「ノックス。あなた、私を一緒に馬に乗せたら、隣町までどのくらいで行けますか?」
「……は?」
「私は一人で馬に乗れないから。ねえ、どのくらい?」
ノックスは一瞬ポカンとしたが、少し考えて答えた。
「半刻程かと」
アナリナは頷く。
「じゃあ、日の入りの鐘に間に合うわね。今から行くから、準備して」
護衛騎士二人が慌てる。
ノックスも急いで立ち上がり、尋ねる。
「それは、どういうことですか?」
「今から行って、明日診る予定だった人達を、今日中に診るの。そうすれば、せめて明日中には城下に戻れるでしょう?」
旅程では、明日の午前にこの街を出て、隣町に行き、神聖魔法を施した後、明後日の午後に城下の神殿に帰り着く予定だった。
アナリナは、明日の予定を、今日中に繰り上げようというのだ。
「どちらにしろ、一人で馬に乗れない私を連れて出れば、今日中に城下に戻るのは無理でしょう」
人間を二人乗せれば、馬が走れる距離は格段に短くなる。
ノックスが顔を顰めた。
「魔術士ギルドにお願いして、隣町と連絡を取ってもらいました。聖女様の助けが必要な者は、今から町民が協力して、神殿に集めてくれるそうです」
太陽神の神官が、向こうから走ってきて言った。
アナリナは黒曜の大きな目を見開く。
「まだ何も言ってないのに、どうして?」
太陽神の神官が、笑って月光神の女神官を示す。
「彼女の指示です。聖女様なら、きっとそうなさると」
アナリナが女神官を見れば、彼女は真面目な顔で言う。
「半年以上、聖女様といるのですから、お考えになる事くらい分かります。でも、私も一緒に連れて行って下さい。聖女様をお一人には出来ません」
アナリナは思わず女神官に抱きついた。
女神官は、はしたないと言いながらも、顔を赤くしてアナリナの背を優しく叩いた。
護衛騎士二人も、隣町まで一緒に行くことになった。
一人が女神官を馬に乗せる。
未だ納得しきれない様子のノックスの後ろ姿に、アナリナが言い放つ。
「私は、誰の命も諦めないから」
その強い言葉に、ノックスがアナリナを振り返った。
彼女の青銀の髪を、夕の光が輝かせる。
「優先順位なんか付けない。絶対に、どちらも助けるんだから」
ノックスはアナリナの瞳を見返し、決意して頷いた。