浄化
中洲に立ったカウティスの足元を、濁流がすくおうとする。
腰を落とし、足に力を込める。
横目で見れば、マルクは既に立ち上がれずに、腰まで水に浸かっていた。
ラードに、命綱をまだ引くなと言ったはいいが、長くは待ってくれないだろう。
せめてマルクだけでも、先に引いてもらうべきか。
逡巡するカウティスに、風の精霊が突風を吹かせて倒そうとする。
腕で顔を庇い、目を細めて見れば、セルフィーネは、酷く濁った青色の長い髪を揺らし、大きく歪んでいる。
怒りのようなものを感じたが、ひどく苦しそうにも見えた。
置いていけない。
こんな状態のセルフィーネを置いていけるものか。
「セルフィーネ!」
もう一度呼んだが、やはり反応はない。
カウティスは歯を食いしばる。
どうすれば良い?
魔術素質のない自分には、魔力の塊であるセルフィーネに、声を掛けること以外で働きかける術はあるのか。
「マルク!」
座ったままだと水没する為、震える手足で、何とか立とうと藻掻いていたマルクの腕を取り、引き上げる。
「教えてくれ!精霊に働きかけるものは、魔術以外にないのか!」
顔色の悪いマルクが、栗色の目を白黒させる。
「ええっ……、魔術以外? ……魔法、血、後は神の御力……」
カウティスは考える。
魔法は無理だ。
血も悪影響にしかならない。
神の御力……。
ハッとして、首の細い銀の鎖を引いて、ガラスの小瓶を出す。
昨夜も、煌々と輝く月光を浴びた、魔石の入った小瓶。
月光は、月光神の御力だ。
カウティスは、マルクの身体に巻かれている命綱の先を力一杯引く。
岸で、マルクの命綱を持っていた兵士達が気付き、力を込めて引き始める。
「カウティス様!」
「先に戻れ!」
綱に引かれながら、カウティスに手を伸ばしたマルクから離れる。
背中の水の魔術符が、まだ効果を表している今なら、濁流に飲まれずに岸まで戻れるだろう。
カウティスは一人、セルフィーネに向き直る。
首から銀の鎖を取り、ガラスの小瓶を右手でしっかり握ると、セルフィーネに近付く。
もはや中洲は水没し、水位はカウティスの膝上にきている。
背中の魔術符の効果が切れれば、濁流に飲まれるかもしれない。
それでも、カウティスは恐ろしいと思わなかった。
それよりも、セルフィーネから目を離す方が恐ろしい。
目を離せば、また手の届かないところへ消えてしまうかもしれない。
突風に邪魔をされ、たった数歩の距離を、渾身の力で進んだ。
赤黒い泥の様な人形が、大きく震えるように歪んでいる。
「セルフィーネ」
名を呼んで、カウティスは強く握った拳を、人形の胸の位置に差し入れる。
触れることは出来ないのに、鳥肌が立つような違和感だった。
手首まで入れると、カウティスは掌をゆっくりと開く。
「!!」
掌に、焼けた金属を強く押し付けられたような痛みが走った。
全身に汗が吹き出たが、掌を決して閉じるまいと、カウティスは歯を食いしばる。
人形が、ビクリと大きく揺れた。
大きく目が見開かれ、硬質な紫水晶の瞳の中で、赤黒い滲みが揺れる。
歪んだ赤黒い泥の様な身体に、小さくヒビが入り、内側から青白い光が走った。
同時にカウティスにも、腕を伝って、全身に光が走る。
青白い光の中で、多くのものがカウティスを通り過ぎて行く。
戦う人間達の声。
赤く染まる川。
大地が血を吸って、叫ぶ土の精霊。
同胞の悲しみと苦しみを感じて、立ち尽くすセルフィーネ。
『 ……カウティス 助けて 』
彼女が、悲痛な声で呼んでいる。
カウティスは目を開く。
息を詰めていたのか、苦しくて喘いた。
目の前には、ひどく歪んだまま、動かない赤黒い水の精霊がいる。
「……セルフィーネ」
カウティスは囁くように、呼び掛ける。
「すまない。……呼んでいたのに」
カウティスの顔が歪む。
あれほど苦しそうな声で、俺の名を呼んでいたのに。
左手を彼女の頬に添え、親指でなぞる。
「セルフィーネ。俺は、ここにいる」
硬質だった紫水晶の瞳が揺れ、潤んだ。
赤黒い滲みが小さくなって消える。
カウティスの身体を押し倒そうとしていた濁流が、勢いを削いだ。
「……カウティス……」
呟くように、セルフィーネが小さく呼ぶ。
「そうだ、俺だ。ここにいる。分かるか?」
ようやく、カウティスの知っている紫水晶の瞳が、カウティスを見た。
「……カウティス」
「セルフィーネ」
視線が合って、安堵する。
しかし、セルフィーネはきつく目を閉じた。
「いや……。嫌だ……カウティスには、こんな姿を見られたくなかった……」
身をよじるように震わせるが、泥が固まったように、その身は動かない。
カウティスもまた、身体が強張って、足を動かすことができなかった。
「見ないで……お願い……」
消え入るような声だった。
“こんな姿”?
セルフィーネがそう言うのなら、本当に見られたくなかったのだ。
確かに、見知ったセルフィーネの姿ではない。
だが、それが何だろう。
同胞の悲しみを受け、西部の人々の安寧を思い、ただ己の身を張って平和を願った姿だ。
尊い以外に、どう形容すれば良いだろう。
「セルフィーネ、そなたが好きだ」
カウティスは囁く。
重く垂れ下がる、酷く濁った青色の長い髪に、そっと左手を差し入れた。
ピクリと、セルフィーネが身を震わせる。
「姿形の美しさじゃない。セルフィーネの心が、俺にはいつも眩しい」
魔術素質の高い者が皆、口を揃えて言う。
“ネイクーン王国の空はとても美しい”と。
“カウティス王子の纏う魔力は何と美しいのか”と。
それは、セルフィーネの心だ。
国を、民を想い、カウティスを想う、心。
「俺は、セルフィーネ以上に美しいものを知らない」
セルフィーネがゆっくりと目を開ける。
「今も、そなたは美しい」
セルフィーネの紫水晶の瞳から、光る雫がひとつ、落ちた。
カウティスが、泥の様なセルフィーネの額に頭を寄せ、己の額を合わせると、目を閉じた。
川の水と汗に濡れた黒髪が、強い風に散らされる。
叶うなら、セルフィーネが悲しまない姿にしてやりたい。
苦しみや怒りのような、このモヤを晴らしてやりたい。
そして、また、彼女が嬉しそうに笑ってくれるなら……。
ただそれだけを、強く願った。
カウティスは、額と両手に仄かな熱を感じて、目を開けた。
触れているところが、僅かに青白く光を放ち、セルフィーネの赤黒い泥の様な皮膚が白く再生されていく。
重く垂れ下がっていた髪が、澄み切った水色に変わってサラサラと流れ始める。
額、髪、胸から、少しずつ滲むように光が広がり、彼女の全身を覆っていった。
濁流が収まり、川の水を幾らか飲みながらも、命綱を引かれて、何とか岸に辿り着いたマルクが、腰を抜かしたように濡れた砂利の上に座り込んだ。
その視線は、水位が下って再び現れた中洲に向かっている。
「マルク! 生きてるか!?」
ラードに肩を揺すられても、視線は中洲に向かったままだ。
だが、その顔には、驚愕と歓喜が入り混じっている。
「奇跡だ……」
マルクの言葉に、ラードが中洲に視線をやる。
濁流は収まったが、中洲の側に盛り上がった汚泥の塊の側から、カウティスが動かずにいるので、どうすれば良いか思案していた。
それが今は、カウティスの周りから光が走り、それがどんどん広がっていく。
「ラードさん! 王子が、水の精霊様を浄化されましたぁ!」
マルクが、呆然とするラードの服を掴んで叫んだ。
対岸から中洲での一部始終を、食い入るよう見ていたリィドウォルが、口元に手を当て、喉の奥で笑った。
「イルウェン、見たか?」
側に控えていた護衛騎士のイルウェンは、無表情にベリウム川を見ている。
「第二王子が、川から化け物を引き上げたのは分かりましたが。……あれは、何ですか? なぜ化け物は消えたのですか?」
魔術素質のないイルウェンには、川から汚泥の様な化け物が現れた後、川が急激に荒れ、カウティスが何かをして収めたようにしか見えなかった。
氾濫しかけたのが嘘のように、今の川面は凪いでいて、太陽光の反射で眩しく輝いている。
「あれが、ネイクーン王国の水の精霊だ」
「さっきの化け物がですか?」
イルウェンが、太い眉を寄せる。
「そうだ」
リィドウォルの視線は中洲に向けられたままだ。
どうやったのかわからないが、カウティスは、狂いかけた水の精霊を浄化した。
精霊とあれ程の絆を繋いだ人間が、今までいただろうか。
「やはり、あれが我が国に欲しい」
その漆黒の瞳は、ギラギラと輝いている。
ようやく身体の強張りが解け、カウティスは痛みに震える右手を降ろした。
しかし、痛みなど気にならなかった。
目の前には、水の精霊がいる。
太陽の下、朧気で、今にも消えてしまいそうに揺れているその姿は、確かによく知るセルフィーネだった。
輝く白い肌には仄かに桃色が差し、柔らかな曲線の肢体に、ドレスの細かな襞が広がる。
腰まである澄んだ水色の髪が、カウティスの左手の上でサラサラと流れた。
「セルフィーネ……」
カウティスは微笑みかける。
紫水晶の瞳が、カウティスを見つめて潤み、次々と涙を零す。
セルフィーネは白い両手で顔を覆うと、カウティスの胸に飛び込んだ。
水から離れては姿を保てない水の精霊は、すぐに消えてしまったが、カウティスは確かに、彼女の身体を受け止めたのだった。