二人の時
人気の少ない裏路地まで戻ると、カウティスは腕に抱いたセルフィーネを下ろす。
「立てるか?」
彼女が立てるか確認できるまで、小さな肩を抱いていた。
「大丈夫だ。立てる」
人間の身体を動かすのは、何だか勝手が違い、フワフワとしたが、すぐに馴染んだ。
彼女がしっかり立ったのを確認して、カウティスはスイと間を空ける。
勢いで抱き上げたが、やはりその身体は人間のもので、間違いなくアナリナの身体だ。
人肌の温かさと重みを、多少でも心地よく感じた自分に後ろめたさを感じた。
「カウティス?」
アナリナの顔と声で、セルフィーネの呼び方で呼ばれ、紫水晶の瞳で見つめられたカウティスは、混乱してきた。
思わず、目を逸らす。
もうやめよう、と言おうとした時、クウと小さな音が聞こえた。
目を瞬き、音の聞こえた方を見れば、セルフィーネが腹の上辺りを押さえている。
「何だか、この辺りがキューっとする……」
不思議そうにセルフィーネが言うと、もう一度クウと音がした。
どうやら腹の虫が鳴いたらしい。
カウティスは小さく吹く。
「アナリナは、食事を摂ってなかったんだな」
セルフィーネは意味が分からず首を傾げた。
「お腹が空いたって、身体が教えてるんだ」
「お腹が空いた?……何か食べてみても良いだろうか」
「何が食べたい?」
お腹を押さえたまま、不思議そうにしているセルフィーネを見て、カウティスは思わず尋ねてしまった。
「リグムパイ」
瞳を輝かせて即答したセルフィーネに、面食らう。
「あー、リグムはだいぶ時期を過ぎてしまったから、無いだろうなぁ」
カウティスは鼻の頭を掻いて言う。
「……それなら仕方ないな。カウティスの好物の味を知りたかったのに、残念だ」
本当に残念そうに言うセルフィーネに、カウティスはドキリとする。
食べたい物を聞かれて、カウティスの好物を即答するなんて、不意打ちだ。
「……他にも美味しいものは色々ある。探しに行こう」
カウティスは手を差し出す。
セルフィーネは嬉しそうに目を細めて、カウティスの手を取った。
大通りの両側には多くの店が並んでいる。
エスクトの街には、他国から入って来る物も多いので、街並みは賑やかな色合いだ。
露店も多く、ちょうど夕飯時を過ぎていることもあって、至る所から良い匂いが漂ってくる。
手を離して歩こうかと思ったのだが、歩き慣れていない上、街並みや人、店先の物にも全てに目を奪われているセルフィーネの手を離すのは、危なっかしくて無理だった。
隣で紫水晶の瞳を輝かせて、カウティスにあれこれ質問してくるセルフィーネの高揚している様子に、カウティスはいつしかつられていた。
手を繋いでいるのはアナリナの手なのに、もう、離したくない気分になっている。
アナリナの好きな串焼きの露店の前を通る時、セルフィーネはチラリと見ただけで、食べたいとは言わなかった。
「良い匂いがする」
代わりに反応したのは、甘い匂い漂う薄焼きパンの店だった。
「すごく甘いけど、食べてみるか?」
素焼きされた円盤型のパンが、整然と並んでいる。
注文したら、砂糖をかけて加工してくれるのだ。
「カウティスが好きな物なのか?」
「南部にいた時には、よく食べた」
ふふ、とセルフィーネが笑う。
「やっぱり甘い物が好きなのだな」
楽しそうに笑うセルフィーネを見ると、カウティスも思わず笑みが溢れた。
カウティスが二つ注文すると、大人の掌よりも二まわり程大きな丸い薄焼きパンに、店主が濃い茶色の砂糖を振りかけて、焼いたコテを当てる。
ジュウと音を立てて、白い煙と共に甘く香ばしい匂いが漂う。
大きな油紙に包まれたパンをセルフィーネが受け取った。
「砂糖のところが熱いから……」
カウティスが二つ目を受け取って、言いながら振り返ると、セルフィーネが困ったように指先を見ている。
「……。」
「どうした?」
カウティスがセルフィーネの手を取って見ると、飴が付いた指先が少し赤くなっていた。
店主に教えられて、近くの角を曲がれば、開けた場所に水場があった。
井戸を囲んで、排水設備と低い柵で囲われた洗い場があり、近くの露店の店員が洗い物をする側で、小さな子供が水遊びを楽しんでいた。
柵の周辺には、木製の長椅子が数本置いてあり、上に日除けの布が張ってある。
エスクトの街にはこういう水場が数か所あって、人々の憩いの場になっていた。
カウティスが井戸で水を汲み上げるのを、セルフィーネが見ていると、遊んでいた子供が彼女の服の裾を引いた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
突然、子供に話しかけられ、セルフィーネは驚いて目を瞬く。
王城で精霊の声を聞ける者としか、話したことがない。
返事をして、この子供に聞こえるのだろうか。
「……火傷をしたらしい」
ドキドキしながら、答えた。
勿論、アナリナの身体なら声が届き、子供が更に尋ねた。
「痛いの?」
「痛い……?」
子供がキョトンとしてセルフィーネを見つめている。
指先がチクチクとする。
これがきっと、“痛い”ということなのだろう。
でも、それよりも、カウティスが握ってくれた手の平の方が、熱くて気になる。
胸の奥の方も、ずっと熱くて、疼くのだ。
「大丈夫、痛くない」
セルフィーネは子供に笑って見せた。
カウティスが、共用の桶に水を入れて戻って来た。
長椅子に腰掛けると、彼女の手を取って、指先を水に浸す。
「人間の手に触れる水は、こんな風なのか」
セルフィーネは呟く。
井戸は、地下水源から湧き出る水が貯まっていて、触れるとヒンヤリと冷たく、気持ちが良かった。
水源を保つのが役割だが、その水にどんな風に人々が触れているのかを、初めて感じた。
「この水場が、どんな風に見える?」
カウティスが水場を見渡して言った。
大人も子供もとても暑そうだが、ここで涼をとって笑っている。
「皆、楽しそうだ」
カウティスが頷く。
「そうだろう? 火の季節でなくても、水場は一年中こんな感じだ。民の憩いの場所だな」
カウティスが、セルフィーネの方を見る。
「そなたが、与えてくれてる」
セルフィーネは瞬いて水場を見る。
子供達の跳ねた水飛沫が、キラキラと輝き、眩しかった。
今日、ここに来なければ、ずっと知り得なかった風景かもしれない。
セルフィーネは、決して忘れないように、この風景を胸に焼き付けた。
高台の公園に移動し、途中で買った冷たいお茶と一緒に、薄焼きパンを食べる。
一口齧ったセルフィーネの瞳が、キラキラと輝くので、カウティスは隣で肩を震わせて笑う。
笑われているのも気付かずに、彼女はもぐもぐ口を動かしている。
「美味しいだろ?」
間違いなく美味しいと思っているはずだが、カウティスは敢えて聞いてみた。
「分からない。けど、口の中が全部溶けそうだ。これが“美味しい”ということかも」
瞳を輝かせて答えるセルフィーネが、見たことのない可愛いさで、カウティスの口元が緩む。
ずっと同じ調子で食べていたセルフィーネが、残り四分の一というところで、止まった。
「……食べられないかも? 少し多かったのかもしれない」
空腹を感じたのが初めてなら、満腹を感じるのも初めてだったのだろう。
不思議そうに、残りのパンを見つめるセルフィーネの手を取って、カウティスが引く。
「じゃあ俺が食べる」
言って、セルフィーネの手のパンを齧った。
目を見張って、カウティスの方を向いた彼女の顔を見て、その身体がアナリナのものだったのだと、今更思い出して驚愕する。
いつの間にか、全てがセルフィーネに見えてきて、感覚がおかしくなっている。
こんなつもりではなかったのに……。
耳が熱い。
カウティスは目を逸らし、手の甲で口を押さえた。