恋
祭壇の水盆に立った水の精霊は、自分が聖女に“降ろされた”のだと知る。
周囲を見回すが、月光神殿の祭壇は月光が集まるように造られていて、注ぎ込む月光の力を逆上って神殿外へ出られそうにない。
「そんな弱った身体じゃ、逃げられませんよ」
汗で頬に貼り付いた青銀色の髪を払い、アナリナが息を整えて立ち上がる。
「結構大変なんですからね、神降ろし」
精霊に応用したのは初めてだったが、以前水の精霊が彼女の身体に入ったことで、出来ると確信していた。
「かくれんぼはおしまいにして、王城に帰ったらどうですか?」
アナリナは祭服の裾を直して、ふうと息をつく。
水の精霊はアナリナを見つめる。
魔力を消費しすぎて、立ち上がった姿は、月光の下だというのに朧気だ。
細く長い髪は、ごく微かに揺れるだけ。
「私は、元の形に還る」
「元の形? 物言わぬ霞のような精霊に?」
「そうだ。水源さえ保てば、契約は守られる」
水の精霊の姿が不安定に歪む。
「“人を惑わし、狂わせる、異形の姿”でいたくない」
『人を惑わせる魔性の化け物!』
『お前のせいで王は狂った』
『なんと美しく恐ろしい、異形の姿か……』
水の精霊に過去の声がこだまする。
あの頃は、何も感じなかった。
罵られ、恐れられても、関わりないことだと思っていた。
自分に執着していた王が、血の海に倒れたのを見下ろしても、王族が他に残っていれば問題ないと思った。
だが、もしも。
もしも、カウティスを私が惑わせたのだとしたら?
もしも私のせいで、カウティスが苦しむことがあれば?
過去の王の最期の姿が、カウティスに重なると、恐ろしくて震えた。
「もう、消えてしまいたい……」
「“異形の姿”?」
アナリナが突然大股で前に出て、水盆をガシと掴んだ。
「それ、誰に言われたの?」
その黒曜の瞳に怒りが浮かんでいる。
「水の精霊、あなた、綺麗だから!」
アナリナの勢いに、水の精霊は言葉を失った。
隣国からやって来たアナリナは、国境を越えた途端に広がった光景を忘れられない。
水の精霊はフォグマ山で眠っているというのに、ネイクーン王国の空は、薄く薄く、水色と薄い紫の魔力がごく緩やかに流れていて、なんて美しいのだろうと感動した。
水の精霊が目覚めてからは更に美しく、カウティスを王城で見た時には、息を呑んだ。
こんなに綺麗な魔力を纏う人が居るのか、と。
「あなたの魔力は、本当に、とっても綺麗なの。どうして特別なんだろうって、ずっと思ってたけど……」
アナリナは水の精霊の顔を覗き込む。
「あなたは、恋してるのよね」
「……恋」
水の精霊の長いまつ毛が震えた。
アナリナは、優しい声で言った。
「カウティス王子が、愛おしくて、泣いていたんでしょう?」
水の精霊の唇が、僅かに震える。
白く透明だった肌に、血の通った人の肌のような、薄い桃色が差す。
紫水晶の瞳が揺れ、輝く雫がひとつ、落ちた。
離れられなかった。
離れなければと思うのに、カウティスが倒れそうになると、手を差し伸べてしまう。
苦しくて、寂しくて、どうすればいいのか分からない。
いっそ、全て忘れて、消えてしまえたらいいと思った。
「ねえ、セルフィーネ。あなたはどうしたいの?」
不意に、アナリナに名を呼ばれ、問いかけられて、水の精霊は唇を震わせ小さく答える。
「……消えてしまいたい……」
「いいえ、違うわ」
アナリナはキッパリ言い切る。
「私が聞いてるのは、ネイクーン王国を守る“水の精霊”じゃない。セルフィーネ、あなたによ」
黒曜の曇りなく輝く瞳が、セルフィーネを射た。
セルフィーネの紫水晶の瞳から、次々に雫が落ちる。
「………………会いたい」
「誰に会いたいの?」
優しく、ゆっくりとアナリナが問い掛ける。
「カウティスに……会いたい……」
口にすると、抑えていたものが溢れて止まらなかった。
長い髪が波打ち、彼女は白い両手で顔を覆った。
「精霊は嘘をつけないの。セルフィーネの声が、聞こえた? カウティス王子」
アナリナが突然言った。
セルフィーネは顔を覆ったまま、涙に濡れた目を見開く。
「聞こえた」
カウティスの声が祭壇の間に響いた。
入口の方から、靴音が近付いて来る。
アナリナは、水盆からそっと手を離して、後ろから近付いてくるカウティスを振り返る。
夕の鐘が鳴る頃に、王城から連絡が来た。
月光が差したら、一度だけでいい、水の精霊を呼んでほしいと。
近付いてくる彼の顔に、迷いは欠片もない。
アナリナは、カウティスとすれ違って祭壇の間を出て行く。
「ありがとう、アナリナ」
すれ違いざまに、小さく言われた。
俯いたセルフィーネの指の間から、カウティスの足が見えた。
「セルフィーネ」
名を呼ばれ、目をギュッと閉じる。
「セルフィーネ」
もう一度呼ばれ、カウティスの大きな手が、彼女の顔を覆った白い手に添えられた。
「セルフィーネが、好きだ」
カウティスの、掠れたような低い声が聞こえる。
「俺は、セルフィーネが好きだ。水の精霊だからじゃない。美しい姿形のためでもない。子供の頃から、怒って、笑って、そなたと共に過ごして、世界が素晴らしい物に思えたんだ」
顔を上げないセルフィーネの耳元に、カウティスは顔を近付ける。
「顔を上げて、俺を見てくれ」
甘く、とても優しい声だ。
セルフィーネは堪えきれずに、顔を上げる。
カウティスの、青味がかった黒い前髪は上げてある。
青空色の瞳が、はっきりとセルフィーネを捉えた。
「俺は、俺だ。昔の王とは違う」
セルフィーネの紫水晶の瞳から、また雫が落ちる。
「そなたが好きだ。人間でなくていい。消えないでくれ。俺だけの側にいてくれ」
セルフィーネの紫水晶の瞳が揺れ、薄い淡紅色の唇が震える。
「……カウティス」
名を呼んだら、胸の奥から熱いものが次々に迫り出して、抑えることができずに嗚咽を漏らす。
「好きだ」
セルフィーネの頬に両手を添えて、カウティスは彼女の耳元で、低く優しく囁く。
彼女の涙が止まるまで、カウティスは何度も繰り返し囁いた。
一刻は経ってから、アナリナは祭壇の間をそっと覗く。
祭壇の上の水盆に、輝くセルフィーネの姿があった。
カウティスの姿は見当たらない。
セルフィーネはアナリナの姿を見つけると、人差し指を立てて、そっと唇に近付けた。
その表情は、とても柔らかだ。
アナリナは扉の隙間を広げて、そっと滑り込むように入る。
忍び足で近付くと、カウティスが座り込み、祭壇にもたれ掛かるようにして、寝ていた。
しゃがれた黒いマントはクシャクシャだ。
「暫く眠れていなかったのだ。少しだけ、寝かせてほしい」
セルフィーネがカウティスを愛おしそうに見下ろす。
アナリナがそばに来ても起きないとは、余程疲れていたのだろう。
「子供みたい……」
アナリナは、カウティスの寝顔を見て笑いを堪える。
「聖女よ、感謝する」
セルフィーネの声がして、アナリナは顔を上げる。
月光を浴びるセルフィーネは、姿は朧気だが、輝くように美しい。
アナリナは満足気に言った。
「セルフィーネ、“聖女”じゃないわ。私の名はアナリナよ」
「アナリナ、ありがとう」
紫水晶の瞳を柔らかく細め、セルフィーネは微笑んだ。