魔力通じ (前編)
火の季節に入ると、ネイクーン王国では気温がぐんと上がる。
内庭園で、セイジェと王太子妃のフェリシアは、散策しながら話している。
セイジェが朝食後の散策にフェリシアを誘って以来、天気が良いと毎日一緒に歩いていた。
セイジェにとって内庭園は、母である王妃エレイシアの思い出が詰まった、大好きな場所だ。
フェリシアを誘う前から、体調が良い日は毎日散策していたので、普段の通り過ごしている。
一方でフェリシアは、大好きな美しい花々を共に愛でる相手が出来て、とても楽しかった。
楽しい事が出来ると、生活にもハリが出るものだ。
最近では、王妃教育も少しは前向きに取り組めている。
「“魔力通じ”とは、どういったものですの?」
フェリシアが、咲き始めの濃桃の花弁を、指でなぞりながら、セイジェに聞く。
内庭園の花々は、気温が上がる日の出前に散水されて、陽の光でキラキラと輝いている。
フェリシアの尖った指先に、光る雫が流れた。
今朝の食事の時、二日後に“魔力通じ”の儀式を行うと、王に言い渡された。
「うーん…水の精霊に王族として認識させるもの、というのは知っていますが、私は見たことがないのです」
セイジェは細い指を下顎に当てて、考える様子を見せる。
今日も蜂蜜色の柔らかい髪を後ろで束ね、若葉色の上下に身を包んでいる。
フェリシアは暑い季節用の、薄手の生地を重ねた赤いドレスだ。
「そうなのですか?」
「ええ。最近行われたのは、私が産まれたときですから」
子供が産まれると、産湯を使う時に“魔力通じ”をするらしい。
末子のセイジェは、他の誰の儀式も見たことがない。
「記録を読んだことはあります。基本的には、儀式用の湯殿で沐浴するだけのようですよ」
セイジェは、背の低い赤い花が並んでいる辺りで、前屈みになって花を眺め、顔を上げずに言う。
「詳しいことは、マレリィ様に聞いてみるといいですよ。マレリィ様はご存知のはずですから」
マレリィはザクバラ国から輿入れしてすぐ、儀式を行っている。
側妃の名前が出て、フェリシアは細い眉を寄せた。
マレリィはいつでも冷静で、何を考えているのかよく分からず、好きではなかった。
フェリシアは、セイジェが眺めている、自分のドレスと同じ色の花に手を伸ばした。
不意に、伸ばしたフェリシアの白い手を、セイジェが握った。
突然手を握られて、フェリシアの心臓がドキンと高鳴る。
セイジェは濃い蜂蜜色の瞳を細めて、彼女が手を伸ばした花を指差す。
「虫がいます。刺されると、痛いですよ」
失礼、と握っていた手を離す。
そして、その隣の花を摘むと、フェリシアに渡して微笑む。
「その花、とても良い香りですよね」
フェリシアは花にそっと顔を寄せ、香りを嗅ぐ。
「ええ…とても」
それはとても濃く、甘い香りだった。
午後の一の鐘が鳴って半時ほど。
今日もカウティスは庭園の泉にいた。
今月の三週目に、水の精霊が戻ったことを祝う式典が行われる事になっていて、そこでカウティスの近衛騎士就任も周知されることになっている。
今は、訓練場で訓練に参加してはいるが、騎士棟には近付いていない。
エルノートに指示され、各地域の情勢を学んだり、有力貴族や領地の状況を調べたりして、頭がいっぱいだ。
それで、時間が空くとつい、足は泉に向かってしまう。
「セイジェの“魔力通じ”は参加したはずだが、覚えてないな」
カウティスは愛用の長剣を素振りしていた。
辺境にいた頃から比べると、運動量が減っていて、鈍りそうだ。
「そなたはまだ2歳だったのだから、仕方ない」
水の精霊がカウティスの素振りを見ながら言った。
水の精霊は、あの夜の後から、表面上は普段通りの様子に見える。
だか時折、彼女が不安気に瞳を揺らすのを、カウティスは知っている。
素振りを始める前に、藍色のマントは外し、上着は脱いでいた。
額から流れる汗を、シャツの袖で拭った。
緩めているシャツの首元に、銀色の細い鎖が見える。
その鎖の先に、何が付いているのか知っている水の精霊は、小さく微笑んだ。
一旦剣を置いて、白いシャツの袖を捲くる。
余分な肉の付いていない、筋張った腕が露わになった。
その陽に焼けた左腕に、肘から手首に向けて、大きめの傷痕がある。
よく見れば、他にも大小様々な傷痕があり、顎の左下にも薄く傷痕があった。
「赤子の時には全身綺麗な肌だったが、今は傷だらけだな」
水の精霊が、カウティスの腕を見て呟いた。
カウティスが剣を落とす。
「…今、何と?」
「赤子の時には全身綺麗な肌だったが、今は…」
「全身綺麗って、何だ」
もう一度繰り返す水の精霊の言葉を遮って、カウティスは彼女の方を見る。
「そなたが産まれた時に、産湯を使って“魔力通じ”をしたのだ。産まれたばかりのそなたの身体を洗ったのは、私だ」
カウティスは、雷に打たれたような衝撃を受けた。
まさか、産まれたてを丸々洗われていたとは。
精神的な痛手が大きい。
「赤子だったのだから仕方ない、赤子だったのだから…」
目を閉じて、呪文のようにブツブツ言いながら剣を拾うと、水の精霊が少し首を傾げた。
「そういえば、腰の辺りの痕は、火傷か?」
「ああ、南の辺境に行ってすぐ、火蜥蜴の討伐があって………」
カウティスが言葉を止めて、目を眇める。
「………セルフィーネ、何故その火傷痕を知っている?」
水の精霊はキョトンとした顔で目を瞬く。
「そなた、毎日湯浴みするだろう?」
「待て待て待て!……まさか、そなたそれを見たのか!?」
再び剣を落としそうになって、カウティスは何とか握り直した。
「見た訳ではない。王城に目を広げていれば、水に触れている者は分かるのだ。その時の感覚を思い出せば、見える」
水の精霊は目を閉じて、何かを思い出すようにやや上を向く。
人間と精霊の感覚は違うらしい。
よく理解出来ないが、“見る”ということも、人間が目で見るのとは違うのかもしれない。
しかし。
「………それは、見ようと思えばいつでも見られるという事では」
カウティスは軽く目眩がする頭を押さえ、聞いてみる。
「そういうことになるな」
水の精霊は目を開けて、当たり前のように答えた。
カウティスはくわっと目を開いた。
「今日からぜっっったいに見るなよ!」
「何故?」
「な、何故って…」
カウティスの頬に血が上る。
水の精霊は更に首を傾げる。
「侍女には見せるではないか」
「子供の頃の話だろっ」
成人すれば、望まない限りは湯浴みに介助は付けない。
何故カウティスが嫌がるのか、本当に分からない様子の水の精霊に、どう説明すれば良いか言葉に詰まり、口をパクパクさせる。
剣を振るのも忘れて、顔を真っ赤にしているカウティスに、水の精霊の頬が緩む。
「ふふ…そなたは今でも、すぐ赤くなるのだな。分かった、嫌がるのなら、見ない」
久しぶりに楽しそうに笑う水の精霊の姿に、カウティスは少し安堵した。
しかしその日の夜、湯浴みを躊躇したのは言うまでもない。
二日後、夕の鐘の後に、フェリシアは侍女と共に、“魔力通じ”の儀式を行う支度をしていた。
月光神の眷属である、水の精霊の“魔力通じ”は、日の入りの鐘が鳴ってから行われる。
「ネイクーン王国は、水の精霊を有り難がる国だとは聞いておりましたが、このような儀式があるとは知りませんでした」
フェリシアの侍女が、彼女の赤褐色の髪を櫛で漉きながら言う。
フェリシアの侍女は皆、フルブレスカ魔法皇国から付いてきた者達だ。
フェリシアは鏡の前で、ため息をつく。
「円卓様が与えたのですもの。それは有り難がるでしょうね」
“円卓様”とは、フルブレスカ魔法皇国の、竜人族の始祖七人の名称である。
不死とも言われる竜人族は、始祖の七人が千年以上も前から生きており、皇国の王宮最奥に住んでいるという。
皇国は始祖七人と、人間が共に興した国だった。
皇国で姿を見せている竜人族の数は多くないが、皆、始祖七人の子孫だ。
水の精霊は、始祖の一人がネイクーン王国に与えたと伝わっている。
準備が整い、フェリシアは立ち上がる。
「仕方がないわ。王妃になる私が、水の精霊を従えるためだもの」
再びため息をついた彼女は、巻毛を揺らして部屋を出て行く。
ネイクーン王国に暮らす者は皆、生まれたときから水の精霊の恩恵を受けている。
“水の精霊様”と呼んで、特別な存在だと認識している。
それが当たり前であるために、失念していたのだ。
フルブレスカ魔法皇国は、竜人族が生き、魔法が身近に存在する国であると。
精霊は目に見えず、身の回りに当たり前に存在し、“ただ使われる為にある”というのが、彼の国では当然の認識である、ということを。