カウティスとセルフィーネ
ネイクーン王城の庭園を、少年王子は軽やかに走っていた。
金髪に近い明るい銅色の髪が、走るリズムに合わせて弾むように揺れている。
今日は、いつも張り付いている護衛騎士を撒くことに、初めて成功した。
王子は、何度か母に連れて行ってもらった小さな庭園まで、一人で行ってみようと思っていた。
細い噴水が一本上がる小さな泉の周りに、八角形のガラスの覆いがある、不思議な庭園。
周りを、色とりどりの花が咲く花壇が囲っていて、大樹の向こうに王城が隠れて、まるで秘密の場所みたいだった。
最近そのガラスの覆いを、離宮の庭園に移動させることになって、ずっと立ち入り禁止だった。
前々から、ガラスの覆いがない方が良いのにと密かに思っていた王子は、工事が終わったと聞いて早く見に行きたかった。
しかし、何故だが両親から『まだ駄目』だと言われてしまった。
許可がないと入ってはいけないのなら、こっそり行って、見つからないように戻れば良い。
これは、生まれて初めての冒険だ。
王子はワクワクして、錆茶色の大きな瞳を輝かせる。
何か特別なことが起こりそうな予感がした。
周りに人気がないことを確認して、大樹の影まで走る。
この先の花壇の小道を抜ければ、泉の庭園のはずだ。
大樹に辿り着く前に、ふと、微かに歌声が聞こえて、王子は走る速度を落とした。
気のせいかと耳をすませば、確かに女性の澄んだ涼し気な歌声が、小道の奥から聴こえてくる。
この先の庭園は誰でも入れる場所ではない。
一体誰が歌っているのだろうと思い、忍び足に切り替えて小道を進む。
歌は、誰でも知っている五つの季節の歌だった。
まるで音楽の先生が歌うように滑らかで、澄んだ歌声が耳に心地良い。
それなのに、火の季節のところまできて、急に大きく音が外れたので、思わず笑ってしまった。
「……誰?」
細く心細げな声で尋ねられ、王子はハッとした。
歌を聴くのに夢中で、気がつけば小道を抜けるところまで来ていた。
目の前に開けた庭園で、小さな泉の縁に一人の小柄な女性が座っていた。
青味がかった紫の細い髪が、サラリと流れる。
ネイクーン仕様の薄青のドレスが襞を揺らし、そこから見える白い肌は、質の良い陶器のように温かな艶がある。
目尻の少し下がった大きな瞳は、輝く紫水晶のようで、彼女は王子を見て、長いまつ毛を揺らして瞬いた。
王子はポカンと口を開けた。
彼女の周りには、精霊の存在を示す淡い光が幾つも飛んでいたのだ。
しかし、王子が掌で目を擦ると、ふわりと飛んですぐに消えてしまった。
「……そ、そなたは、誰だ? ここは、父上の許可なしに入ってはならないのだぞ」
王子が目の前に現れたというのに、縁に座ったまま、光が去った方を残念そうに見上げているだけの女性に、彼は我に返って言った。
しかし、胸の鼓動が早くて、声が若干上擦った。
彼女は美しすぎるのだ。
滋味な木製のバングルを腕に着けているだけで、目立った宝飾は着けていないというのに、何という美しさだろう。
多くの貴族女性を見てきたが、こんなにも美しい女性は見たことがなかった。
何度か王城を訪れたエルフも美しかったが、それともまた違った。
「『父上の許可』?……もしや、そなた、あの時メイマナの腹にいた子か?」
驚いたように目を見張って、足音もさせずに近寄って来た女性に、王子は怯む。
「は、母上を呼び捨てるとは不敬だぞ! そなたは一体、何者なの……」
「セルフィーネ」
さっき出て来た小道から男の声がして、王子は振り向く。
小道から、黒髪の男性と、それに続いて後ろから数人出て来た。
その中の一人は、王子の撒いた護衛騎士だ。
王子が顔を顰めたその横を、女性は弾むように駆けて行って黒髪の男性に添った。
カウティスは側に立つセルフィーネに微笑みかける。
「すまない、待たせたな。魔術士館で思ったより時間が掛かった」
「大丈夫だ。相変わらずここは、居心地が良い。皆が大事にしてくれていたのが分かる」
セルフィーネが泉の方を向いたので、カウティスもつられてそちらを向く。
そして、不貞腐れている少年王子と目が合った。
彼はエルノート王とメイマナ王妃との間に生まれた、アルナン第一王子だ。
昨年末に5歳になった。
因みに二人の間には3歳の双子、第二、第三王子がいて、現在第四子が王妃のお腹にいる。
「お久しぶりです、アルナン王子」
護衛騎士に叱られている第一王子に、カウティスは立礼した。
後ろに控えたラードと、濃緑のローブを着たマルクがそれに続く。
「カウティス叔父上。……では、もしかして……」
アルナンは大きな目を瞬く。
聖職者から世俗に戻った叔父とは、昨年の土の季節に初めて顔を合わせた。
では、その隣に立つ不思議な髪色の女性は、世界的に大きな話題となった、ニンフ族の女性。
「そなたが、ネイクーン王国の水の精霊だった者か……」
頬を紅潮させて呟いたアルナンに、セルフィーネは柔らかく微笑んだ。
昨年の、ベリウム聖堂落成式から、約半年が過ぎた。
セルフィーネは神の奇跡で生まれたと強く主張する神聖王国から、引き取り要請が後を経たなかったが、エルノート王は決して許可しなかった。
第一、セルフィーネがカウティスから離れたがらず、当初はベリウム川の近くにいたいと主張した。
それでも諦めきれない神聖王国が、やや強引に迫った時には、精霊達が怒ったように暴れ出し、局部的大嵐を引き起こした。
引き下がらざるを得なくなった神聖王国は、今はとりあえず大人しくしている。
世界のあちこちで、セルフィーネのようなニンフが確認され始めたことも、引き下がった要因の一つかもしれない。
水の精霊の能力を失くしたセルフィーネは、しかし、精霊達と感覚を共にすることが出来た。
ニンフはまるで、精霊の長のようだとマルクは表現する。
セルフィーネの願いに、精霊達は意思を持つように応えるのだ。
ネイクーン王国は“水の精霊”を失ったはずだったが、精霊達は今も穏やかに水源を守り続けている。
カウティスはあの後、神聖力を失くした聖女アナリナと共に、オルセールス神聖王国から除籍した。
セルフィーネを手に入れたい神聖王国が渋りはしたが、イスタークが上手く説得してくれたようだった。
ネイクーン王国籍へ戻った後、王族籍からは抜かれたまま、今年に入ってすぐ高位貴族として初代アスクル領主に任命された。
カウティスをアスクル領主にという計画は、実は一年程前から秘密裏に進められていたという。
王から命を受けたマルクが動き、ラードとも密に連絡を取り合っていた。
南部エスクト領主も協力し、ベリウム川下流のザクバラ国との国境近くの丘に、新たな領主館も建設中だった。
そこからそう遠くない場所には、ザクバラ国へと繋がる、新たな橋を作る計画も出ている。
橋が繫がる予定の対岸には、ザクバラ国へ戻ったアナリナの、愛すべき故郷の村がある。
知らないところで、カウティスをネイクーンに取り戻す為に、多くの人々が尽力していたと知り、カウティスは胸を熱くした。
それと共に、兄王の下、ネイクーン王国の為に生涯力を尽くそうと決意を新たにしたのだった。
後からやって来た侍女達と共に、アルナン王子は王城に戻る。
側を通る時、アルナンはセルフィーネを見上げた。
「そなたは……、その……、暫く王城にいるのか?」
セルフィーネが答える前に、隣のカウティスが微笑んで言った。
「三日後の陛下の誕生祭に、彼女は私の婚約者として共に参列致します。それまでは滞在致しますよ、王子」
「そ、そうか……」
王子は何処か落胆した様子で小道から去って行った。
王子の姿が見えなくなった途端、ラードが笑い出すので、カウティスは軽く睨んだ。
「カウティス様、5歳の王子に、本気で牽制して……、ぶふっ」
堪えられずに噴いたラードに、カウティスは鼻の上にシワを寄せて唸る。
「うるさいっ。5歳でも男だろ」
マルクも肩を揺らして堪えていて、ラードの笑いも収まらないので、カウティスが口を歪めた時、そっとセルフィーネが袖を引いた。
頭一つ分低い彼女を見下ろすと、頬を鮮やかに染めたセルフィーネが、潤んだ瞳で見上げていた。
「私は、カウティスの婚約者だったのか?」
「その内そうなる。……俺の妻になるのは嫌か?」
『嫌か』と聞きながらも、そんな答えが返らないことを分かっているカウティスの温かな眼差しに、セルフィーネは微笑んでふるふると首を振った。
青紫の細い髪が広がって、幸せそうに微笑む彼女が愛しくて、カウティスはそっと腰を引き寄せて顔を寄せる。
開きかけた蕾のような、蒼く微かに甘やかな香りが鼻孔をくすぐる。
重ねた薄紅色の唇は柔らかく、抱き寄せる腰は細くても、腕に掛かる体重や感触は確かなものだ。
それは、セルフィーネが確かに実体を持ってここに在るのだと感じさせて、何度でもカウティスの胸を温めてくれる。
「まったく、すぐに我々の存在を忘れるんですから」
苦笑いのラードが、目の毒だと言わんばかりに掌で目を隠す。
嬉しそうに笑いながら、マルクも視線を逸して空を見上げた。
頭上には、澄んだ青空が広がる。
その空に、水の精霊の魔力はもうない。
唇が離れ、セルフィーネが熱を帯びた瞳でカウティスを見上げる。
「…………あの日、ここで私を見つけてくれて、ありがとう、カウティス」
幼いカウティスが偶然迷い込んだあの時から、全ては変わり始めた。
長い年月をかけて、今ようやく、二人は本当に添える。
「これからも、ずっと側にいる」
「ああ。もう二度と、離れない」
この上なく幸せそうに微笑むセルフィーネを見つめ、カウティスは青空色の瞳を細める。
カウティスの瞳のような空には、多くの精霊達の光が、セルフィーネの心を映すように輝いていた。
《 終 》
長い物語を、最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
また、別の物語でお会いできることを願って……。




